イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

粘膜で触れる世界

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アブノーマルな文学的感性によるエッセー・社会評論
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この何週間か、ベランダにずっとアブラゼミの死骸がころがっている。

気味がわるいのでさわらずにいる。

台風が来たりするたびに、飛ばされてどこかへ行ってくれればいいと思うのだが、
微妙に位置が変わるだけで、一向に立ち去ってくれない。

むしろときどき向きや位置が少しずつ変わるのが、
生きているみたいに思えて、よけいに不気味だ。

しかし、こう長期的に居座られると、
なんとなく愛着もわいてきて、
昨日、洗濯物を干すついでに写真を撮ってみた。

人間と違ってセミは死んでもまるで外観が変わらない。

それだけに生きているのと同じ威厳を感じさせる。

セミは何年も地中で幼虫として暮らし、
地上に出て成虫になったかと思うと、
子孫を残してあっというまに死んでいく。

子供の頃、その話を聞かされたときは哀れだと思ったが、
50歳を過ぎ、たくさんの人の死を身近に経験してみると、
生命の生き死にについて違った見方をするようになった。

生命の営みはどんなに短かろうと、
どんな終わり方をしようと、
それが生のかたちであって、
それを哀れとか悲惨と感じるのは、
生きてそれを見ているものの傲慢にすぎないのだ。

たとえば首吊り自殺をした音楽家の加藤和彦。

めざましい活躍を振り返るのは人の勝手だが、
それと比較して、さみしい晩年や自殺という死に方を哀れんだり悲しんだりする必要はない。

うつ病という病気も、自殺もふくめて、
ああいう活躍をした加藤和彦という人の生の一部なのだ。

親族に看取られながらのやすらかな死も、
邪悪な人間に殺されての死も、
うつ病に悩まされての死も、
それぞれの生の一端なのだ。

どのように生きようと、
それが短かろうと、長かろうと、
多くの人に愛されようと、孤独だろうと、
それがそれぞれのかけがえのない生であるのと同じだ。

そんなことを考えながら、
今日もベランダのセミをそっと眺める。

日本の侵略はなかったとする論文が問題となって田母神航空幕僚長が更迭されたのに続いて、
航空自衛隊小松基地の第6航空団の自衛官62人が同じ懸賞論文に、
航空団司令の命令により集団で応募していたことが明らかになった。

論文を読んでいないので、それ自体について何か言うわけにはいかないのだが、
なんとなく昭和初期の軍人の反乱を連想してしまった。

昭和初期の反乱は武力を使って軍部の中で将校が幹部を監禁して「昭和維新」を迫ったり、
最終的には政治家を暗殺したり、クーデターを企てたりというところまで行ってしまったのだが、
そこに至るまでには、欧米列強の外圧や世界恐慌、飢饉などから危機感を募らせた、
青年将校や民間の「志士」みたいな人たちによる「維新」の議論の沸騰があった。

その「維新」議論の内容は、簡単に言うと「政界や経済界は腐敗堕落しているから、
議会民主制をやめて天皇親政を復活させよう」みたいなことだった。

天皇にしてみれば、複雑な近代国家の政治を一任されても困るだろうが、
敗戦前の天皇は神だったから、
人間による政治よりははるかに優れた政治力を発揮してくれるだろうという、
素朴な期待があったのだ。

結局、「昭和維新」の動きは2.26事件の失敗で頓挫するのだが、
その一方、国家の中枢では様々な紆余曲折から軍人が政権を担うことになってしまう。
しかも軍隊の中でも中央からのコントロールがきかなくなっていて、
満州の「関東軍」がどんどん謀略による侵略・支配を進めていった。

そもそも先にアジアを侵略していたのはヨーロッパの列強だったし、
それにアメリカも加わって、新興国日本に政治的・経済的圧力をかけてきている状況だったから、
これに対抗するにはアジアの代表として日本がアジアをまとめ、
その経済力で欧米と対決していくしかないという考え方が、
満州侵略を進める軍部の勢力にはあった。

つまりそれは日本によるアジアの侵略ではなく、
ヨーロッパ列強からの解放であり、
日本主導による新しい東アジア地域の確立であるという意識だ。
「大東亜共栄圏」というネーミングは、当時の人たちには魅力的に響いたかもしれない。

太平洋戦争までの昭和期を、
軍人が暴力で社会を支配したひどい時代だったと回想する人たちの話は、
子供の頃からよく聞かされていたが、
ぼくが大人になって色々調べたところでは、
当時はけっこう軍部の動きを支持する空気があったようだ。

国内の経済が沈滞し、貧困に苦しむ人たちも多かったから、
満州開拓は新しいチャンスでもあった。
そもそも台湾や朝鮮などアジア各地の領有は当時の「国際社会」で認められていたし、
様々な謀略を駆使し、現地の混乱に乗じて、あれこれ理屈をつけながら侵略し、
支配体制を既成事実化していく手口は欧米列強のお家芸だったから、
この満州侵略についても「侵略」という意識はなかったかもしれないし、
少なくとも当時の欧米から犯罪行為みたいにとやかく言われる筋合いはないという理屈は成り立つ。

第二次大戦後にフランスが旧植民地に対したこと、アメリカがベトナムでしたこと、
現在も中東でやっていることを見ていると、その理屈は今も成り立つように思える。

ただ、そこには落とし穴がある。
「国際社会」が「欧米列強」でしかないこと、
欧米がやってることを日本がやって何が悪いという理屈でしかないこと、
つまり欧米だけを見て、侵略された国や民族の立場を無視していることだ。

「朝鮮や中国にいつまで土下座しなければいけないのか」と毒づく政治家はいるが、
日本を軍事的に占領下に置いているアメリカに対して、
「いつまでアメリカに土下座していなければならないのか」と言う政治家は出てこない。
北朝鮮の拉致問題や、中国の反日キャンペーンに怒りをあらわす日本人は多いが、
米軍の駐留に怒りをあらわす日本人は見かけない。

そこで語られる「反日勢力」とは欧米列強を除外した勢力、
日本と摩擦を起こしやすいアジア地域と、
その摩擦に対して子供っぽい解決策を行使できない、あるいは行使をためらう日本人のことなのだ。

そこにはねじくれた欧米崇拝/畏怖が隠れている。

ソ連が崩壊し、東欧諸国が社会主義を捨て、残る社会主義国も「経済解放」を進める中、
今、世界は新たな列強支配の時代に入りつつある。
グローバリズムとは国際的な資本主義、つまり経済的な弱肉強食のシステムだ。
弱い国家・地域・企業はどんどん強い国家・地域・企業の軍門に下っていく。

「列強」の中にアジアから中国とインドが加わるのか微妙なところだが、
「サミット」参加国だった日本はさらに微妙な立場にある。
その不安定な状態が、国内経済の沈滞、格差の広がりとあいまって社会不安を生む。

それはどこか昭和初期の社会不安に似ている。

そのタイミングで出てきた航空自衛隊の論文事件は、軍人の反乱を予感させる。

もちろんそれは思想的なもので、軍事的なものではないが、
軍人の思想的反乱は軍事的反乱に劣らず危険だ。
なぜなら軍隊とはそもそも国家というシステムの外縁にある戦争機械だからだ。

シビリアンコントロールなどと一般人が偉そうなことを言っていられるのは、
軍人が自制しているあいだだけだ。
ひとたび軍人が牙をむけば、そんなものはどこかへ消し飛んでしまう。
軍隊には武器があり、政府も含めたそれ以外の組織・人は丸腰だからだ。

もちろん軍人にも思想の自由はある。
それが憲法と食い違っていようが、思想を弾圧するのは意味がないし、かえって危険だ。
今回のように単なるタブーとして葬り去ってしまえば、
その思想はもっと深いところに根を張り、やがてもっと大きなエネルギーを蓄えて噴出するだろう。

「自衛隊」という危うい軍隊の定義や、平和憲法の定義・有効性も含めて、
真剣に議論を重ねるべき時期が来ている。

そこでは日米安保条約の是非も含めて、あらゆるタブーを排した議論が必要だ。

アフガニスタンで武装勢力に拉致された伊藤さんが遺体で見つかった。
胃のあたりを何かでえぐられたような鈍い痛みを感じる。

アフガン人のために善意の活動をしている外国人になんてことをするんだと言うのはたやすい。
治安が悪化している危険な地域にどうして留まっているんだと言うのもたやすい。

しかし、「アフガン人」とは何なのか、「危険」とは何なのかを考えてしまう。

犯人はテロリストなのか?

凶悪なテロリスト組織がどうして欧米の圧倒的な武力で死滅せず、
生き延びているどころか、勢いを盛り返して都市を包囲しつつあるのかを考えてみた方がいい。

かつてベトナム戦争の頃、我々は最初のうち、
正義のアメリカ軍が、北ベトナムの支援を受けた一部の凶悪な共産ゲリラと、
戦っているのだと思い込まされていた。

しかし、その「ゲリラ」がサイゴンを包囲し、アメリカ軍をたたき出したあとでわかったのは、
南ベトナムの多くの国民が「共産ゲリラ」を支持していたということだった。

アメリカはかつてベトナムを植民地として支配していたフランスと、
その下で支配階級を構成していた勢力のために戦っていたのであって、
一般のベトナム国民のために戦っていたのではなかったのだ。

今、アフガニスタンで何が起きているのかは、なかなか外から見えにくい。

タリバーンがカンボジアのクメールルージュのように、
一般国民に危害を加える組織だったら、
ベトナム労働党のように勝利することは難しいだろう。

しかし、最近伝えられているように、
彼らが劣勢を挽回し、再び首都および主要都市部に迫ってきているのだとしたら、
彼らを支持する人たちが少なからずいるのかもしれない。

「危険地帯」が広がっているとメディアは報道するが、
それはタリバーンを支持する人たち、
少なくとも外国勢力・異教徒の占領に反対する人たちにとっては、
解放された地域なのだ。

米軍・NATO軍がイラク同様、アフガニスタンても、
「テロリスト」を攻撃すると言いながら、
その何倍もの一般市民を空爆で殺しているとしたら、
アフガン人の怒りはタリバーンよりも欧米の占領軍に向くだろう。

外国から軍隊を投入しているかぎり、
それを侵略と見なす人たちが存在する。
その人たちにとって、どんな善意のNGO活動も、
侵略側の活動と見なされるだろう。

占領軍が一般人の殺戮を続けるかぎり、
それを侵略とみなす人たちは増え続けるだろう。

日本にいるぼくの眼にも、それは侵略に見える。

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天満宮の博物館で見たビデオでは、
白村江(はくすきのえ)の戦いのあと、唐・新羅連合軍が攻めてくるのを防ぐため、中大兄皇子が北九州に築かせたという水城と山城の跡が太宰府郊外に残っているという。

白村江の戦いというのは、663年唐・新羅連合軍が百済に攻め込んで百済・日本の連合軍を打ち破った戦いのことだ。このあと百済は滅び、百済の連合国だった日本も存亡の危機に直面する。

朝鮮半島の戦いにどうして参加しなければならなかったのか、それも圧倒的に巨大な唐を敵に回しての勝ち目のない戦いで、どうして負けるとわかっている百済側に荷担しなければならなかったのか、ちょっと不思議な気もする。

その答えのヒントが太宰府に築かれた山城にある。
山の上に石を組み上げて築かれた山城は百済独特のもので、北九州だけでなく、瀬戸内海沿岸部にも点々と残っているという。
当時の日本はこうした土木建築技術を、朝鮮半島の技術者に頼っていた。土木建築だけでなく、仏像などの技術者も渡来人だったという。
日本にとって百済は単なる同盟国ではなく、当時の近代化を推進するために不可欠な指導者だったのだ。

裏日本史の世界では、もっと目からウロコ的な説がある。
そもそも中大兄皇子は百済王家の人だったというのだ。そうだとすれば、負けるとわかっている戦いに出兵したのもうなずける。
そういえば、中大兄皇子は645年の大化の改新で権力を握ったあとも、天皇に即位していない。即位して天智天皇になるのは白村江の敗戦のあと、しかも奈良から逃げるように今の滋賀県大津に都を移してからだ。
「日本書紀」ではそれが天智7年となっていて、天智の年号はその7年前から始まっていることになっている。

その3年後に天智は崩御する。記録には馬に乗って出かけて、馬だけが帰ってきたとあり、なんだか謎めいた死に方をしている。

その後672年、天智の弟とされる大海人皇子が大津に攻め込み、天智の息子・大友皇子を殺して天武天皇となる。いわゆる壬申の乱だ。
一説によると、このとき筑紫の太宰府と吉備の太宰府が唐・新羅に占領されている。
つまり壬申の乱は近畿地方で起こった天皇家の内紛ではなく、当時の全国規模で起こった大規模な戦乱だったというのだ。

中大兄皇子/天智天皇はどちらかというと反仏教・反中国政策をとった人だったが、大海人皇子/天武天皇の代になると政策は百八十度転換され、仏教寺院が次々と建てられ、藤原京・平城京へと続く中国的都市構造を持つ首都建設も進む。

聖徳太子によって6世紀末から7世紀前半にかけて推進された中国化、当時のグローバリゼーションが再び始まったのだが、これは天武天皇/持統天皇の理念から来たというより、当時西日本に軍を駐留させていた唐に強制されたものだというのが、裏日本史の説だ。

古代史の謎はまだまだある。
聖徳太子は何者だったのか、どうして絶大な権力をふるいながら天皇に即位しなかったのか。
聖徳太子の一族はなぜ蘇我氏に滅ぼされたのか?
「日本書紀」以前の大和朝廷の正史は蘇我氏の滅亡と共に消失したというが、なぜ正史を蘇我氏が持っていたのか?
蘇我蝦夷・入鹿は天皇に即位していなかったのか?
どうして「日本書紀」と「古事記」という、内容も編纂された時期もかぶる2種類の歴史書があるのか?

こうしたことにも様々な裏日本史的な解釈があるのだが、それらをつなげていくと、聖徳太子も蘇我氏も朝鮮半島から渡来した騎馬民族のリーダーであり、中大兄皇子/天智天皇も百済を征服した騎馬民族系のプヨという部族の王であり、白村江の敗戦後、唐に反抗した天智系の百済王家は壬申の乱で滅ぼされ、唐に降伏した天武系の王家が白鳳時代・奈良時代のグローバリゼーションを推進したといことになる。

大海人/天武天皇は、天智の弟なのに年上だという証拠がいくつもあり、血縁関係すら疑う説もある。当時の日本を支配していた高句麗系・百済プヨ族系軍人貴族で、唐と和睦した勢力の代表者だったのかもしれない。

正史である「日本書紀」は、漢文で書かれているところを見ると、おそらく中国に提出することを意識して書かれた歴史書なのだろう。日本という国は、唐に滅ぼされた百済や高句麗とは違う、独立した起源を持つ国であるという、苦しい主張がそこには見える。
それに対して「古事記」は、より内向きの歴史書のように見える。モンゴル・朝鮮半島から来た制服王朝が成立する以前の歴史、被征服民の立場を考慮した歴史が語られている。その文体はまるで神社の祝詞のようだ。

そんなファンタジーみたいなことをあれこれ思い浮かべながら、太宰府政庁跡をフラフラと歩きまわった。

うさんくさい裏日本史の説がどうしてこんなに面白いのか不思議だが、たぶんそれは今の日本と日本人の中にわだかまっているもの、ぼくらが目をそらしているアメリカ帝国の日本支配、世界支配という現実とどこかで響き合うからなのだろう。

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ちなみに、写真の川は古代の水城とは何の関係もありません。
あしからず。

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天満宮参拝はあっさり終わってしまい、
時間にまだ余裕があったので、近くの太宰府政庁跡に寄ってみた。

西鉄太宰府駅から100円の市バスに乗って10分くらい。
あっというまに政庁跡に着いた。

そこは礎石だけが並ぶ広大な草地。
奈良の西大寺跡とか山田寺跡に似ているが、
ここはお寺ではなくお役所跡だ。

昔はここから南西東に碁盤目状の街路がのび、
平城京・平安京のように唐の都を模した都市が広がっていた。

もしこれがギリシャ・ローマみたいに石の建築だったら、
廃墟になったとしても、荘厳な列柱が残っただろうにと思うと実に惜しい。

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