イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

粘膜で触れる世界

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アブノーマルな文学的感性によるエッセー・社会評論
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仕事で三軒茶屋の近くに行ったついでに、
松陰神社をお参りしてきた。

境内には長州にあった松下村塾まで再現されていて、
なかなか楽しめる神社だ。

いまさら言うまでもないが、
吉田松陰は私塾である松下村塾で、
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ほか長州の志士たちを育てた幕末の思想家だ。

黒船に乗って密航しようとしたことが、
安政の大獄で罪に問われ、江戸で刑死した。

遺体は最初、刑場のある千住に埋葬されたが、
のちに毛利藩の別邸があったこの世田谷に移された。
松蔭の墓は今もこの神社の境内にある。

そして、長州出身者によってこの神社が建てられ、
松蔭は神になった。

日本人は無念の死を遂げた人を神に祀る。
古くは平安時代の菅原道真→天神様、
明治時代では切腹した乃木希典→乃木神社。

乃木希典は明治天皇の崩御に合わせて殉死したので、
無念の死というのとはちょっと違うのかもしれないが、
日露戦争でたくさんの戦死者を出した責任をずっと感じながら生きてきたうえでの切腹なので、
やすらかな死でなかったとは言えるのだろう。

安らかに死ねなかった人は、怨霊としてこの世に留まると、日本人は考える。
日本人だけではないのかもしれないが。
だから、怨霊が人に取り憑いたり悪さをしないように、神として祀る。

もちろん松蔭の場合のように、
明治維新の先駆者としての尊敬がそこに加わっているにしても、
神として祀るという行為は、
霊をなぐさめ、霊界に封じ込めるという行為なのだ。

そういう神域に足を踏み入れて、なんとなく心が安らぐのは、
自分の心の中に無念の気持があるからだろうか。

まだ生きている人たちの中にも無数の無念がある。
その無念が悪さをしないようにガス抜きするのも、
こうした神域の機能なのかもしれない。

毒ガスをまき散らして自殺するやつらや、
衝動的に行きずりの人たちを殺すやつらにも、
ガス抜きができる神域があればいいのにとふと考えた。

それはネット上に建てられるのだろうか?
それとも漫画とかアニメ映画とか、作品として作られるべきなんだろうか?

そうなると、通り魔に殺された人たちの無念はどうなるのだろう?
秋葉原の交差点に備えられた花だけで、あの7人の霊は慰められるのか?

衝動的な殺人や身勝手な自殺が増えていることと、
現代人が正しく霊と付き合う様式を失ってしまっていることとは、
何か関係があるのではないかという気がする。

たぶん我々には、
スピリチュアルブームや恐怖映画みたいな、
人の不安につけ込んだ金儲けではない、
本気で人と霊と神を見るための社会的な様式が必要なのだ。

かつてその機能を果たしていた伝統的な宗教に、
今はその力はない。

各メディアでは秋葉原の連続殺傷事件のその後を連日報道している。

テレビでは特に悲しみに暮れる遺族や友人のコメントをしつこく紹介しているが、こういう取り上げ方を見ていると、世間にごまんといる通り魔予備軍の呼び水になってしまうのではないかと心配になってしまう。

当人は見ていないだろうから、達成感を味わうことはできないだろうが、犯人の「ワイドショー独占」という夢はかなえられたわけだ。

通り魔予備軍をこれ以上刺激しないためには、そして、遺族や関係者の尊厳を尊重するためにも、マスメディアはこうした報道を自粛すべきだし、遺族・関係者もメディアを拒絶すべきだという気がする。

この事件が衝撃的なのは、犯人のありきたりの、甘ったれた、しょぼい犯行動機と、そのくだらない動機で人を7人も殺したというギャップの大きさにある。

昨日、あるブログをのぞいたら、「犯人には罪を償って更生してほしい」と書いてあった。
その人も犯人同様の孤独感や挫折感に悩んでいるらしいが、この罪が償えると思っているところに、不気味な甘えを感じる。

この手の人種にはどこか自分を幼稚園児か何か、社会に対して何をしてもまったく責任がない子供だと思っているフシがある。
この幼稚な甘えこそが、つまらない不満を殺人のような重大犯罪に結びつけてしまうのだ。

おそらく罪に問われないなら秋葉事件の犯人を殺したいと思っている人はたくさんいるだろうが、犯人は法の秩序に守られながら生き続けている。
自暴自棄になった犯罪者にとって、法律はなかなか有利にできているのだ。

池田市の小学校無差別殺人や光市の母子殺害事件などを見ても、被害者やまともな社会意識を持っている人間ほど、大きな苦痛と屈辱を味わうことになる。

司法制度の大きな役割のひとつが犯罪の再発防止にあるとしたら、この手の犯罪には司法側も違った対応をした方がいいんじゃないだろうか。
ただ絞首刑にしたり、一生刑務所暮らしをさせるだけでは、犯人の予備軍に犯行を思いとどまらせる効果はない。

この手の犯罪を犯したら、いかにみじめな思いをするか、予備軍に思い知らせるような、見せしめ的な刑罰が必要かもしれない。

たとえばこんなのはどうだろう?
ガラス張りの空間に一生全裸で閉じこめて、排泄から入浴から自慰行為まで24時間生活をすべて公開する。

これだけでは露出狂のマゾには逆効果かもしれないので、家族や知り合いをとっかえひっかえ連れてきて、ガラス越しに面談させる。

この手の人間は社会的に孤立した精神状態にあるので、こういう親族・知人に自分のぶざまな姿を見られることが何より苦痛なはずだ。

精神的な苦痛だけでは物足りないというのであれば、さらに鼻や耳や唇、指など少しずつ体の一部を切り取っていき、出血死しないように治療しながら、最終的に化け物みたいな肉の塊にしてしまう。

その過程で、被害者とその関係者にお詫びすれば助けてやると、気を持たせるようなことを言い、何度も何度もお詫びの言葉を言わせる。

それでも助けてやるようなことはせず、最終的に肉の塊として死ぬまで体を切り取っていく。

犯人の更生を主眼に置く現在の司法制度とは相容れない前近代的な刑罰かもしれない。
しかし、最近の衝動殺人は、現行の法体系では扱いきれないものになってきているのだ。

それはそうとして、秋葉事件の犯人がせめて派遣会社の経営者とか、派遣先の人事責任者とかを殺していたら、それはそれでまた違った意味のある殺人になったのになあという気がする。

不謹慎だろうか?

あるいは、90年代に派遣法成立に動いた官僚や政治家とか、最近のゆがんだ労働・賃金体系に責任のある人たちを狙ってテロをやってくれていたら、それはそれで意味のある政治活動になったのになあと思うのだが、これも不謹慎だろうか?

しかし、今社会で進行しているのは、19世紀から20世紀初頭みたいに、人をバカにした労働搾取なのだ。

毎日、硫化水素ガス自殺が頻発している。
洗剤をまぜると簡単に発生するガスだから、お手軽に自殺できるということらしいが、
こう頻発しているということは、
ニュースやワイドショーだけでなく、
ネットで「硫化水素自殺入門」みたいな情報が流れているんだろうか?
あるいはネット上の自殺同好会みたいなものがあるとか?

リストカットや首吊り、身投げとちがって、あまり苦しまずに楽に死ねるのかもしれないが、
実行する場合は風呂場や洗面所の換気口をしっかりふさいでほしいものだ。
ガスがもれると無差別テロになってしまう。

「どうせ自分が死ぬんだから、他人がどうなろうと関係ない」と考えるやつは、
電車のホームで人を突き落としてみたり、
商店街でいきなり通行人を刺してみたりするやつと変わらない。

こういう根性の腐った無気力なテロリストをなんとかできないもんだろうか。

超能力で稼いでる人たちの中に、もし本物がいるなら、
こういう自殺/他殺の負のオーラを検知して、
事件を未然に防ぐといったことに役立ててほしいものだが。

こういう負の連鎖を見ていると、永井豪の「デビルマン」という漫画を思い出す。
最後の方で、悪魔の軍団が人類を襲うのだが、
その襲い方がちょっと病的で、
悪魔の兵士たちが1人ずつ人間に入り込むのだ。

悪魔に魂を乗っ取られた人間は、
突然「クエッ」と奇声を発し、化け物になって死んでしまう。
街のいたるところで、美人やかっこいい若者たちが、
「クエッ」と叫んだかと思うと、醜い化け物になって、
もがきながら死んでいくのだ。

衝動的自殺/他殺者たちは、たぶん悪魔に犯された化け物なのだろう。

先端テクノロジーやグローバル経済では救えない腐食が人間の中で進んでいるのだ。

そう考えると、宗教や芸術、文学、哲学もまだ時代遅れじゃないなという気がする。

悪魔に魅入られかけたおびただしい人たちから負のエネルギーを吸引して、
正気に戻す役割を果たしているからだ。

昨日、なぜヒューマニズムは敗北するのかについて書いたら、なんだかぼくがとても悲観的な人間のように受け取る人がいたようなので、今日はちょっとポジティブな話を。
ぼくが最も好きな本のひとつ、大佛次郎の「パリ燃ゆ」の最後にルイ=オーギュスト・ブランキが獄中からジョルジュ・クレマンソーに宛てた手紙が長々と引用されている。

ブランキは19世紀フランスのピュアなテロリストだ。
パリ市民はフランス革命後の混迷が続いた19世紀を通じて何度となく蜂起しては、政府にたたきつぶされたのだが、その失敗を受けて登場したのがブランキに代表されるテロリズムだった。
しかし、ブランキとその一派も逮捕・投獄を繰り返しているうちに、パリコミューンという最大のチャンスを獄中から眺めなければならない羽目になった。

史上初の社会主義政権パリコミューンはわずか1カ月の短命な政府、というよりひとつの事件に終わったが、その9年後の1879年にブランキは獄中から、当時若手の下院議員で、のちに首相になるクレマンソーにバカ長い手紙を書いている。
それはテロリストの敗北宣言であり、当時の若い世代に託した希望のメッセージだ。
その手紙でブランキは、クレマンソーの演説、その言葉の威力に触れている。

「おお! 一人の人物! 一人の人物! 人物が一人いさえすれば! あなたこそ、その一人の人物です! ……(中略)……あなたの前後にほかの人たちが、さまざまの度合いの才能を以て語りました。これらすべての演説は、程度の差こそあれ、わずかな間隔を置いて消え去りました。ひとり、あなたの演説のみが国境の彼方のはるか遠くまで響き渡り、そしていたる処に敵の恐怖を生ぜしめたのです。」

これはテロによって目的を果たせなかったブランキの、言葉に対する敗北宣言でもある。
クレマンソーがどんな演説をしたのか、そこには引用されていないし、のちに第一次世界大戦下のフランスで首相を務めたクレマンソーが、言葉でそれほど革命的なことをなしとげたわけでもないことも、今のわれわれは知っているのだが、それでもこのブランキの希望がある種胸を打つのは、20世紀に言葉が勝利をおさめたいくつかの事例を知っているからだ。

そのひとつはマーチン・ルーサー・キングの「私には夢がある」という言葉で始まる有名な演説と、公民権運動だ。
キング牧師は暗殺され、人種差別はアメリカ社会に隠微なかたちで根強く残っているかもしれないが、それでも1950年代から見れば、それは大きな収穫を人間の側にもたらした。

もっと多くの民衆を巻きこみ、最終的に国の権力を奪取するところまでいったのはガンジーのインド独立運動だ。
文字が読めない人たちが大半を占めていたあの植民地支配下のインドで、武力を使わずにイギリスを駆逐したガンジーがどんな戦略、どんな言葉を使ったのか、ぼくはごくおおざっぱなことしか知らない。
有名なのはガンジーがすわりこんで回しながら糸を紡いだ糸車だ。それはインド民衆の団結の象徴となった。こうしたシンボルも一種の言葉なのだ。
正しい戦略さえあれば言葉は国家や軍に勝つことができることを、この革命家は教えてくれる。

こうした例外はあったものの、20世紀は大量殺戮世紀になったし、21世紀もその状況は変わっていない。資本主義にとっての邪魔物だった社会主義が消え去って、時代はむしろ19世紀に逆戻りしてしまった観がある。
 ブランキは手紙でこうも書いている。

「さて私ばかりではなくみんなの身の上にこれからどんなことが起こるのか? 人びとは到達したものと思い込んだ。が、地平線は再び無際限にひろがり、しかも霧に閉ざされたように私には思われる。」

ぼくが昨日ヒューマニズムについて書いたことも、悲観や諦念ではなく、人権を既得権益と考えがちなわれわれ人間の甘さに対する反省なのだ。
どんな言葉も闘争と戦略を持たなければ、発せられるそばから胡散霧消してしまう。
ぼくがこのブログを書き続けているのも、少しでも胡散霧消しない言葉の仕組みを探るため、そして少しでも力のある言葉を見つけて紹介するためだ。

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一昨日、「エリートはなぜ帝国主義者になるのか?2」で、「ヒューマニズムは一部の国の一部の人たちの意識の表層に広がっただけで、世界中に定着したわけでもなければ、世界を動かしたこともない」と書いたが、今日はその続編。

国家や経済の都合で人間の生命や生活がおびやかされるのはまずいと思うかといえば、まずたいがいの人は「そりゃまずい」と言うだろう。そういう基本的なところではヒューマニズムはかなり認知された考え方なのだ。
問題はかなりの数の人間が個人・人間側として生きていると同時に、国家や自治体・企業など組織側のスタッフでもあるという点にある。個人としてはヒューマニズムを支持しても、仕事では平気でそれに反することをやってしまう、やらざるをえない。たぶんかなりの人間にそういう経験があるはずだ。

組織に属していない人、あるいは属していてもその外側から個人として何か発言・行動するとき、人はとても弱い立場に置かれる。国家や大企業に何か異論を突きつけようとしても、裁判で勝てるようなよほど明確な正義と根拠がなければ何の反応も返ってこない。反応を起こさせるにはエイズ訴訟や北朝鮮拉致問題のように社会運動を起こさなければならない。つまり組織が必要なのだ。そこからすでに問題は人間そのものから離れ、概念の領域に入ってしまう。

「法的・社会通念的に是とされる基本的人権はこれこれで、おたくはそれにどれだけ反しているか」といったことが問題になるのだ。政治団体やら組織のイデオロギー的な都合、あるいは戦略的な都合で、言いたいことも言えないといった状態も出てくる。

おそらく「人権」を楯に何かを要求しようとするその姿勢自体に誤りがあるのだ。多くの人は「人権」をすでに獲得された権利と考えているが、それは近代国家が生まれるときに設定したおおまかな取り決めであり、建前であって、人間側がすでに/常に持っているものではないのだ。

「人権」を楯に何かをえらそうに要求しようとする人は、大人におねだりする子供にすぎない。権力を持っているのは相手であり、こちらの権利を認めるかどうかは相手次第なのに、自分に権利がある、相手がそれを認めるのが当然だと思っているのだ。

結局ほとんどの要求は無力のまま放置され、残るごくわずかな要求も個人の手を離れて組織対組織の闘争に持ち込まれる。政治とは建前の攻防戦であり、建前でも党利党略でもいいからとにかく何らかの収穫を得て前進すればいいと考える、政治家・活動家しか生き残れない特殊な世界なのだ。

多くの明確な不都合が政治の世界で議論されながら、ろくな結果にならないのは、やりかたがまずいからではなく、そもそもそこが組織と建前の世界だからだ。

人間がいかに無力かは、国内問題よりも、最も上位の組織である国家どうしが対立したときにあきらかになる。結局そこは武力がものを言う世界だ。武力にまさる国は弱い国を平気で侵略し、人間を殺す。不幸にも弱い方の国に属してしまった人間は、人権を主張したり何かを要求するチャンスすら与えられない。イラクやチェチェンで起きているのはそういう事態だ。

別にこれは極端な例であって、特殊な例ではない。潜在的に国家などの巨大組織と個人としての人間はこのような関係にあるのだ。ヒューマニズムは多くの人がその無力さに気づかないほど常に決定的に敗北してきたし、今も負け続けている。


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