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8月19日
昨日から1994年の日記帳を引っぱりだして、メキシコを旅行した5月16日から6月7日までの部分をWordに打ち込み始めた。他人の小説の筆写で自分の小説のスタイルを探り、過去の自分の日記を筆写して自分の正体を探る。
一昨年までの日記はほとんどすべて万年筆で大学ノートに書かれている。中学時代からぼくはほぼ毎日万年筆で日記をつけてきた。暇だった大学時代は数週間でノートが一冊終わってしまうくらいたくさん書いた。あんまり量が多いので一昨年の引っ越しで学生時代までの日記は、小説の手書き原稿と一緒に捨ててしまったが、それでもまだ本棚を一列占領している。
メキシコ日記を筆写してみて驚いたのは、書かれてない部分があまりに多いことだ。鮮明に記憶している色々な面白いできごとがごっそり抜け落ちている。睡眠不足とひとり旅の不安、疲労と戦いながらつけた日記だから、概略のメモしかとれないのはあたりまえかもしれないが。
筆写しながら抜け落ちた部分を足していると、なかなか初日が終わらない。書き始めると忘れていたことまでどんどん思い出す。もう11年もたっているのに、まるで昨日のできごとのように、それぞれのシーンが、そのとき嗅いだ匂いやまわりの気配がよみがえってくる。
「メキシコ日記」の筆写を始めたのはブログに載せるためだ。11年前の旅を紹介する意味がはたしてあるのかどうか疑問だが、自分自身にとって今までの旅の中で最も重要な旅であることはまちがいない。
他者を犯し、征服するということ、他者に犯され、征服されるということ、人間に潜む他者を犯し征服する/他者に犯され征服されるということを恐れ、憎む気持と、それを渇望する気持について本気で突き詰めはじめたのは、メキシコに関する本をあれこれ読み、それに触発されてメキシコを訪れてからだ。
問題は写真がスライドフィルムしかないことだ。2000年にデジタルカメラを買うまでぼくはCONTAX T2というコンパクトカメラにスライド用のフィルムを入れて写真を撮っていた。
色はデジタルカメラの画像よりはるかにいいのだが、ブログで紹介するにはこれをスキャナでパソコンに取り込まなければならない。
これはとても時間がかかる。さらに取り込んだ画像をPhotoshopで軽くしたり補正したりしなければならない。スキャナの性能が悪いのか、取り込んだ画像はとても暗くくすんでいる。
しかしメキシコ紀行のメインは文章だ。画像はあくまで参考資料でしかない。極端な話、画像などなくてもいいのかもしれない。
これから同じように検証してみたい過去の旅行はいくつもあるが、去年のイタリア・トスカーナ旅行は最終日にミラノのホテルでデジカメを盗まれてしまったので画像は一切ない。1997年のモロッコ旅行はスライド写真がたくさんあったのだが、知り合いに貸したらなくされてしまった。仕事で行ったカナダとベルギーの旅は、写真を撮ることも仕事に含まれていたので、フィルムはすべてプロダクションに提出してしまい、手許に残っていない。
画像なしでもブログにのせる意味はあるだろうか?
自分にとって検証する価値があるなら、過去のどんな行為でも言葉に置き換える意味はある。ブログが日記なら、自分にとって意味のあることをのせていけないわけはない。ブログが掲示板のような社交場でしかないとしたら話は別だが。
見ようによっては、そもそもブログは掲示板に各自が自分の部屋を設けて、スレッドをもっと自由に作れるようにした仕組みであるとも言える。訪問者数以上にコメントの活況がブログの成功度を示すという価値基準もそこから来ているのだろう。だとするとぼくのようにウェブサイトより簡単だからという安易な理由でブログを始めた人間にとっては、あまりふさわしいメディアではないことになる。
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