イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

あぶない芸術鑑賞

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美術や映画など芸術関連のエッセーです
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 先日竹橋の国立近代美術館でやっているゴッホ展を見に行った。
 有名な絵としては、パリ時代のカンバスに向かう自画像やアルル時代の「黄色い家」、「夜のカフェ」。英泉の浮世絵を毒々しい色で模写した絵も有名といえば有名だ。

 ぎょっとしたのは初めて見た「夜のカフェ」だった。
 子どもの頃から画集やらポスターで見慣れていたのだが、現物の色は頭の中にある記憶の色とはまるで違っていた。
 決して細かいタッチで描いていないのに、クリアでリアルで、そのむこうに深い世界が確かに続いていると感じさせるような色。
 会場を出るとき売店で売っていた画集の表紙はこの作品の部分アップだったが、現物よりどぎつい黄色がなんだか下品に感じられた。

 これまでぼくは美術館で現物を見てがっかりするという体験をあまりにもたくさん繰り返してきた。子どもの頃から画集を見ては頭の中でイメージとしてふくらませてきた絵の方が現物より数倍魅力的だったからだ。
 現物はイメージの絵よりもくすんでいたり、小さかったり、大きすぎたりする。イメージの中の絵が、ぼくの色々な思いを投射しすぎるあまり、現物とかけ離れたものになってしまっているだけなのだが……。

 イメージよりも現物がはるかに魅力的だったのは、これまでのところ長谷川等伯の「松林図」と、パリのオランジュリー美術館にあるモネの「睡蓮」シリーズくらいだ。

 「夜のカフェ」の現物が衝撃的だったのは、このふたつにくらべてはるかに小さい子どもの頃からよく知っている作品だからだ。今までぼくは子供時代の感性で色づけされたイメージを大人になってから超えることはできないのではないかと、なんとなく思いこんでいた。大人になってからの感性など子供時代に比べればひからびた泉のようなものだと。
 しかし今回の「夜のカフェ」は、何かまったく新しいものをぼくに投げかけてきた。
 これまでの美術館体験では、先入観にとらわれてちゃんと絵と向き合っていなかったのではないかという気さえする。

 あるいはもしかしたら、これはぼくの中の感性が枯れてきて、記憶の中のイメージを輝かせる力がなくなってしまったのかもしれない。若い頃の感性はどれだけ芸術的な分野においてもなんらかの性的なエネルギーによって維持されている。衰えてきてはじめてそれがわかるのだ。

 だからといってぼくは少しもがっかりしていない。
 性的なエネルギーの減衰が今回の「夜のカフェ」体験を可能にしたのだとすれば、これまで既存のイメージに邪魔されて感じられなかったものが感じられるはずだからだ。今までがっかりするだけだった色々な美術館をもう一度訪れてみたら、予想外の感動が味わえるかもしれないのだ。
 感性や想像力の衰えによってものをよりリアルに見ることができるとしたら、歳をとるというのもなかなか楽しみだという気さえする。

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 今朝テレビをつけたら、小林なんとかいう保護観察中のイケメン兄ちゃんが、少女を監禁していたとかで逮捕されていた。
 他人に危害を加えるやつを見るたびに憤慨するより不思議に思う。なぜそんなことができるのか?
 別の小林、奈良少女誘拐殺害半の小林薫はなぜ少女を誘拐して殺したのか?
 
 イケメン兄ちゃんの小林はまだちゃんと(という言い方は変だが)ヘンタイらしく行動し、欲望を満たすために脅したり嘘をついたり東京に出てきたり、懸命にがんばったらしいが、奈良の小林は少女性愛に突き動かされたわりには、少女を犯しまくったりもせずに、ごくあっさり衝動的に殺してしまっている。欲望に忠実に犯しまくればいいというわけではないが、このやる気のなさの方が病的だと思う。

 他人を殺したり傷つけたりする事件が起きるたびに、ぼくはゴッホを思い出す。あるいは自殺したりリストカットしたりする多くの人のことを考える。そこにはいろんな事情があるのだろうが、たぶん人を殺したり傷つけたりする行為と、逆に自殺したり自分を傷つけたりする行為はポジとネガの関係にあるのであって、正反対とも言えるが、本質的に異なる行為ではない。
 人間には死に向かう衝動があり、それが他者に向かうか自分に向かうかなのだろう。

 ゴッホはアルルでゴーギャンと喧嘩して、刃物を持って出ていくゴーギャンを追いかけ、ゴーギャンが振り向いたとたんに部屋にとって返し、自分の耳を切り落とした。
 パリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズでピストル自殺したのは、その少し前にパリで弟テオの妻から金のことでなじられたことが原因だという説がある。
 たしかにきっかけはそうだったのかもしれない。
 しかし、もともと死への衝動はゴッホの中にいつもあったのだとぼくは思う。彼の絵を見ているとそんな気がするのだ。

 ゴッホの作品は異様な生命への讃歌だが、決してただ健康的な讃歌ではない。彼の創作活動は挫折した宗教活動の転調であり、その舞台裏には《人間》そっちのけで激変していく社会への違和感、個人的なものというより宗教的なくらいに普遍的な危機感のようなものがある。
 生命を肯定するために身を削る作業は、同時に自分を傷つける行為でもあった。
 それは絵を描く前に牧師の卵として起こした様々なあつれきや、恋愛においても相手の親に反対されると、目の前のローソクで自分の手のひらをやいて「こうしているあいだだけでも彼女に会わせてくれ」と頼んだという有名なエピソードを見ても、彼が生命の方向へ進もうとすると、どうしても自分の内側にそのネガとして死への衝動を生じさせてしまう人だったことがわかる。

 これはそれほどまれなことでもないし、不自然なことでもない。誰もが恋愛にしろ金儲けにしろ、生命のプラスのベクトルに突進するとき、内側にそのネガを生じさせているのだ。それを意識するかしないかは別だが……。

 しかしゴッホは発作と呼べるくらい病的な行為に走ってしまうタイプの人だった。
 南仏で何度か発作を起こして入院しているが、ある研究家によると、発作は弟テオの恋愛や結婚、子供の誕生と符合しているという。テオあての手紙を読むと、そこには弟とその妻を祝福する言葉にあふれている。おざなりなきれいごとを書いたわけではなく、本気で弟の幸せを喜んでいたのだろう。
 ただ、そうした生命のベクトルがプラスに向かうとき、ゴッホの内側にはそれに対応したマイナスのベクトルがはたらくのだ。

 ぼくは自殺未遂もリストカットもしたことはないが、似たような死への衝動を感じたことは何度となくある。まだ若い頃、親しい友人が結婚し、次々子供を作ったとき、ぼくはすぐ近所に住んでいてほとんど居候のように彼らの家に入り浸っていた。彼の奥さんは子供たちを育てながら、ぼくの面倒もよくみてくれた。友人が出張中でもごはんを食べさせてくれたし、ぼくの家の合鍵を持っていて、ぼくが仕事でいないあいだに洗濯をしてくれたりもした。
 こうした親切をぼくは感謝していたし、生まれてくる彼らの子供たちを自分の子供みたいに可愛く感じていた。しかし同時にそれが息苦しいくらいの憂鬱、死にたいくらいの抑鬱状態をもたらすことがあった。

 ぼくが自殺もリストカットもしなかったのは、たぶんゴッホのように本気で芸術に身を投じていなかったからだろう。あるいはゴッホより鈍感だったからかもしれない。

 それはさておき、同じ死への衝動が自分に向かう人と、他人に向かう人がいるのはなぜだろう?
 ひとつ言えるのは、他人を殺すやつは閉じているということだ。彼は自分の幻想の中にいる。
 日常生活においてどんなに自閉症に見えても、ゴッホは閉じていなかった。彼はまわりの人たちよりも広く、遠いところへ自分を開こうと格闘していたのだ。

 小林薫は弱々しい幻想に突き動かされて、弱い少女に性衝動を向けようとし、実行しかけた瞬間に弱々しい性衝動に見合った弱々しい死への衝動に不意打ちされのだろう。殺意は突然やってきたと彼は語っている。そして殺したことの実感が今もつかめないでいる。

 それを精神異常のせいにはしないほうがいい。
 これはイメージの中に逃げ込んで自分を閉ざしているあまりにも多くの現代人の中で常に起きていることだからだ。

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