イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

あぶない芸術鑑賞

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美術や映画など芸術関連のエッセーです
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知り合いがDVDを3本貸してくれた。
『風と共に去りぬ』と、チェコのシュールレアリスティックなアニメアート作家ヤン・シュヴァイクマイエルの短編集と、有名なファッション写真家兼ドキュメンタリー映画作家ブルース・ウェバーの『トゥルーへの手紙』だ。

『トゥルーへの手紙』を見た。
身の回りの情景や、アメリカの過去、エリザベス・テイラーやダーク・ボガードの映像が切れ切れに登場する、映像のエッセーだ。
トゥルーとはウェバーが飼っているゴールデンレトリバーの名前だ。彼は大きな波が押し寄せる家でたくさんの犬と暮らしている。有名写真家なのでしょっちゅう撮影で家をあける。
9.11のテロ以来彼は犬たちのことが気がかりでしかたがない。それで旅先からトゥルーあてに手紙を書く。サインペンで書かれた手紙。それをウェバー自身の声が朗読する。

犬に語るふりをしながら、彼は観客にさまざまなことを語る。アメリカが第二次大戦やベトナム戦争でしてきたこと、中南米の独裁政権を支えてきたこと。アメリカ的な生活とは何か、そこから自由であるためにはどんな生き方があるのかについて。ダーク・ボガードが南仏で幸せな同性愛者として暮らしたことについて。

若い頃のダーク・ボガードの映画と、南仏の豪華な別荘で男性の恋人と過ごす彼と、年老いた彼の映像が切れ切れに交錯する。年老いた彼は若い頃とは全く別人に見える。痛々しくもあり、美しくもある。ダーク・ボガードは第二次大戦を経験したのだろうか? ノルマンディー上陸のような悲惨な作戦に参加した兵士は二度とそれ以前の自分には戻れないと語るダーク・ボガードはとても美しい。

『名犬ラッシー』の続編に出演する少女時代のエリザベス・テイラーがまた美しい。モノクロの『名犬リンチンチン』でアメリカ先住民を虐殺する騎兵隊の一員に迎えられるリンチンチンと飼い主の少年も美しい。この映画のいたるところでバックに流れるアメリカの古いバラードやラブソングのように美しい。アメリカが自分を正義だと信じていた時代の、少年少女のような美しさ。
やがて年老いたエリザベス・テイラーは、エイズ患者救済運動の活動家になる。幼稚な美しさから脱皮したエリザベス・テイラーは年老いたダーク・ボガードと同様に美しい。

映画は終盤にさしかかると、公民権運動のドキュメンタリー映像をえんえんと映しながら、マーチン・ルーサー・キング牧師の芸術的な演説を流し続ける。アメリカのもうひとつの顔がクローズアップされる。違う大陸の人々を組織的・産業的に拉致し、奴隷化し、その罪に対してろくなコメントをしないアメリカ。

『羊たちの沈黙』で有名な映画監督ジョナサン・デミが、ハイチで独裁政権に虐殺された解放運動の活動家のドキュメンタリーを撮っていたなんて、この映画を見るまで知らなかった。
デミの映画の断片が流れた後、ハイチからの難民がアメリカの犯罪を告発する映像が流れる。アメリカはほかの中南米の国々にしてきたのと同様に、ハイチの独裁政権を支持し、ハイチからの難民を迫害したのだそうだ。

ハリウッドで成功した有名映画監督や、ウェバーのようにファッション写真で成功した写真家がこういう映画を通じてアメリカを告発するのを見ていると、アメリカという国の大きさを感じる。
アメリカはローマ帝国に似ている。ローマ帝国のように、ただ帝国のシステムによって周辺諸国を支配するだけでなく、その支配によって獲得した豊かさを自国民に与え、自由な表現を保証しているのだ。

日本のような小国にはこのような豊かな自由は存在しない。日本での自国批判は、みすぼらしく醜く高慢ちきで一般の共感をまったく得られない社会派や左翼、進歩的知識人にならないかぎり許されないからだ。

ウェバーのアメリカ批判は、彼の犬たちへの愛やアメリカへの愛と同じくらい美しい。『トゥルーへの手紙』に出てくる犬たちや波や夕焼け(朝焼けだろうか?)のように美しい。

ダリ展と無意識の逆襲

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急に暇ができたので、午後、上野の森美術館のダリ展に行った。こういうけれんだらけの芸術家はそれほど好きじゃないので、これまで日本で開かれた大がかりなダリ展には行ったことがなかったのだが、今回はなぜか足が向いた。いたるところで話題にのぼるからかもしれない。

展示品はほとんど自分が最後まで所蔵していた作品で、少年時代のものから最晩年のものまで揃っているので、作風の変化をたどることができる。

ただ、1920年代にシュールレアリスムで我々が知っているダリらしい作風に開眼してからは、本質的な変化はないように思う。こうして年代順に並んだ作品を見ていると、なぜか1920〜30年代のものの方が新鮮だ。作家というのは作品ではなく、その背後にある方法を生み出すときに最も輝きを放つものらしい。

有名なパン籠の絵には問題の核心に突き進む若いダリの気迫がみなぎっていた。パンの断面はなめらかな光沢を見せていて、ダリがプラスチックの時代の画家であることを物語っている。社会共通の現実認識の中で無邪気に、しかし厳密に存在を視覚化できたフェルメールのリアリティはそこにはない。20世紀的なものから隠棲しようとしたアンドリュー・ワイエスの辺境意識もない。ダリはあくまで西洋文明のメインストリームの中にいた。浮ついた流行の中にいたと言ってもいい。

人類が宗教から自立して、あるいは宗教から科学と経済の原理を分離させて、自意識を発見したのが19世紀だったとすれば、20世紀初頭は人類が無意識を発見した時代だった。その新鮮な驚きが、今では多少無邪気に見えるものの、ダリの作品に生命を与えている。

しかし、モダンな科学的方法論で無意識の世界を顕在化しようとする価値観は、第二次世界大戦以降は古臭く通俗的なものになっていった。ダリが変わったのではなく世間が変わったのだが、その変化に対応できなかった老大家は、自分の方法を生み出したときの輝きを失ったのだ。

20世紀後半の人類は個々人の無意識よりも、集合的無意識の暴力に気づき、その猛威に悩むことになる。歴史を動かしてきたのはこの集合的無意識という化け物だったし、その脅威から人類は脱却するどころか、ますますその泥沼にはまりこんでいることに気づいたのだ。

20世紀の集合的無意識は宗教だけでなく、社会を、国家を動かした。それはソビエトで、ベトナムで、アフリカでおびただしい人を殺した。今日その猛威はますます激しさを増している。学校の教室で生徒全員が弱々しいやつを死に追いやっているのも集合的無意識の仕業だ。

ダリの処方箋はもう効かない。漫画やアニメ、テレビの中で、あるいはインターネットの中で、あるいはひねくれた少年少女たちの日常会話の中で、無意識の世界から解き放たれた化け物が暴れている。芸術の方法論はもう通用しない。混乱の中で新しい宗教と政治の時代が来ようとしている。

丸の内の牛祭り

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丸の内で会社の社長にインタビューした。
ビルの外には牛の像があちこちに置かれている。
世界各地で開かれている芸術のイベントだとのこと。
ビジネスの街丸の内に、ビジネスマン以外の人種を呼び寄せようという三菱地所らしいたくらみだ。
その意外性に思わず足を止める。

もともと彫刻も絵画も建築の一部、装飾なのだから、
ビジネス街のあちこちに彫像が立っていてもおかしくはない。
うさんくさいのは、「芸術」というビジネスとまったく異質のものとして提示する姿勢だ。
ただの作品を「芸術」として提示するのは、
なんだか、「今度アイドルでデビューしました」と自己紹介する新人タレントを連想させる。

彫刻も絵画も長年人に愛されて「芸術」と呼ばれるようになるのはいいが、
自らを「芸術」として提示するのはなんだか不遜な気がする。
現代の「芸術」は、効率を追求するあまり無味乾燥になってしまった都市に対する批評のようなものでしかなくなっているのだ。
違和感で都市を否定する意思表示。
それはけっこう不健康な行為だが、都市が人間に違和感しか感じさせないかぎり、
人間は違和感で反抗するしかない。

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恵比寿ガーデンシネマで「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」を見る。ひさしぶりに劇場で見た映画だ。

テキサス州メキシコ国境近くの田舎町で不法入国したメキシコ人メルキアデス・エストラーダが国境警備隊員に間違って射殺される。メルキアデスのカウボーイ仲間ピートは、「俺が死んだら故郷のヒメネスという村に埋めてくれ」という生前の約束を守るため、メルキアデスの死体を掘りだし、犯人の警備隊員マイクを拉致し、警備隊や警察の追跡を逃れてメキシコに向かう。

腐敗したメルキアデスの死体を馬に積み、手錠をしたマイクを馬に縛り付け、荒野を馬で国境を越えるピート。マイクは逃走を試みて毒蛇に噛まれる。地元民の案内で薬草による民間療法の治療師の家に連れて行かれるが、治療師の女は以前国境を越えようとしてマークに顔を殴られ、逮捕されたことがあった。女はマークを治療してやるついでに、痛めつけて復讐する。

しかし苦難の末にたどり着いた場所にヒメネスという村はなく、メルキアデスがピートに見せた写真も偽物で、そこに写っていた妻であるはずの女はメルキアデスのことを見たこともなかった。ピートとマイクはその村の近くにある廃墟を彼らのヒメネスと決め、そこにメルキアデスの死体を埋葬する。

むなしさが残る結末だが、この映画は殺伐としたアメリカと貧しいメキシコを背景に、アメリカで自分を見失っていたマイクのような人間が、結末にいたる過程でさんざんな目にあいながら人間らしさ、自分らしさを取り戻していく再生の物語なのだ。

物語のもうひとつの軸であるピートとメルキアデス、アメリカ人とメキシコ人の友情という主題は、マイクの再生という主題にくらべてややピントがぼやけて見える。

それでもこの映画が魅力的なのは、前半で描かれるアメリカの倦怠(警官やピートの浮気している安いレストランのウエイトレス兼オーナーの妻、彼女に誘われてメルキアデスと浮気するマイクの妻等々)がとてもうまく描かれているからだ。後半にピートとマイクが旅する荒涼としたメキシコ北部の大地も美しい。

トータルでは一見の価値あり。ただしハリウッドの娯楽映画好きには不向き。

友人の写真展

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2月22日(水)

カメラマン中川の写真展を見に、銀座のニコンプラザに行った。
元々は駒沢公園のマラソン仲間で、トライアスロンの初レースにも一緒に出た仲だが、そのままトライアスロンにのめりこんだぼくと違い、中川は仕事以外の写真を撮ることに向かっていった。

今回の写真展はアメリカの12州を8×10の大きな銀塩カメラで撮るシリーズの第1弾と第2弾だという。アリゾナ州とネヴァダ州。それぞれ正味5日くらいずつレンタカーで州内をまわり、気に入った風景や物、人を撮影していく。9.11テロ以後、空港の検査器のX線が強化されて撮影したフィルムに影響が出るかもしれないので、簡易現像用具を携帯し、旅先で現像したとのこと。

1日の移動距離は平均500マイル。まともに食事をする時間もないという。毎日現像するフィルムは60枚。現像を終え、自作のハンガーにフィルムを吊す頃には日付が変わってしまう。それでもアメリカの広大な土地を写真におさめていると、不思議な充実感を味わうという。

Borderline<Arizona・Nevada>
中川隆司写真展
2006年2月13日(月)〜25日(土)10:00〜19:00
銀座Nikon Salon
銀座クレストビル2階・ニコンプラザ銀座内


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