イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

あぶない芸術鑑賞

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美術や映画など芸術関連のエッセーです
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国立西洋美術館はロダンの展示場でもある。
入り口前の広いスペースには「考える人」
「カレーの市民」「地獄の門」など大型の代表作が置かれ、
常設スペースにも「キス」をはじめとする彫刻が並ぶ。

ロダンのいかにも苦悩してますみたいな感じが、
19世紀的な古さを感じさせるので、
正直なところ、あまり好きではないのだが、
こうしてまじまじと見ると、
この人がただの苦悩や問題意識の人でないことがわかる。

人間が肉体としてそこに存在することについて、
ロダンは誰よりも敏感に知っている。
19世紀的なデザインを身にまとってはいるが、
そこにいる裸体の人々、
無力なまま途方に暮れている人たちは、
観念的な悩みに苦しんでいるのではないのだ。

肉体がまぎれもなくそこにあることのやるせなさ。
それが見る者をいやなところへ連れて行く。
21世紀の人間が、
20世紀を通じて忘れようとしてきたところへ。

15年前、パリのロダン美術館の
すぐ近くに1週間滞在したことがあるが、
行こうという気すら起きなかった。
それはロダンの手ごわさを知らなかったからだが、
知った今となっては、
なおさら行かなくてよかった思う。

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「聖トマス」ジョルジュ・ラ・トゥール

国立西洋美術館常設展示の順路のはじめの方にこの絵はある。
ごく最近購入されたものらしい。

ジョルジュ・ラ・トゥールはたしか17世紀頃、
フランスのドイツ国境に近いロレーヌ地方に暮らした画家だ。
闇の中の人物を好んで描いたが、全国的名声は獲得できず、
地方の画家として残ってきた。

近代になって注目されるようになったのはフェルメールに似ている。
人物の内面をかすかな光で浮かび上がらせるような画風が、
近代以降の感性に合っているのだろう。

一度テレビで何枚かの絵を見たことがあるだけだから、
ラ・トゥールに対してあまりたいした感想は持っていなかったのだが、
この「聖トマス」にはなんだか不気味なものを感じた。
聖者にしては目つきがあまりに邪悪だ。
もしかしたら、それはぼく自身が自分に対して隠している邪悪さを
暴露しているのかもしれないが。

テレビで見た別の絵の中にも、
闇の中からいやな感じの目つきで、
こちらを盗み見る男の肖像があったのを思い出した。

ラ・トゥールがこちらの中にかきたてる嫌悪感、
そのネガティブな挑発の仕組みに、
とても新しいものを感じる。

それはダリのように、
世の中の空気を取り込んだ挑発ではなく、
もっと密かな、
それだけ見る者の心の奥深くに侵入してくる挑発だ。

好きにはなれない。
それでも目が離せない。

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国立西洋美術館にはモネのほかにもいい絵がたくさんある。
たとえばこのドーミェの「マグダラのマリア」。
キリストの使徒で、改悛した元売春婦という伝説のある聖女。

ベストセラー「ダヴィンチ・コード」では、
キリストの妻で、その子供を産み、
キリストの処刑後フランスに渡って、
メロビンガ王朝の始祖となったことになっている。

カトリック教会にとって都合の悪い女だったので、
元売春婦ということにされているのだという説だ。

カトリック教会はずっとあとになって彼女の名誉回復を宣言し、
売春婦ではなかったと発表したらしい。

この絵はたぶんそういう新説や名誉回復とは無関係に、
伝説の改悛した元売春婦としてのマグダラのマリアを描いているのだろう。

半裸の姿と、苦悩の祈りが胸を打つ。

キリスト教徒たちは昔から、
聖母マリアを女神としてあがめる一方で、
このもうひとりのマリアを、
罪深い自分たちと重ね合わせてきたのだ。

ノートパソコンの画面くらいの小さな絵だが、
何とも言えない迫力がある。
ぼくの中では、
ゴヤの盗賊に首を斬られる裸の女と双璧をなす傑作だ。

あるいはロバート・キャパが
アメリカ軍のノルマンディー上陸を撮ったときの、
有名な手ぶれ写真と……。

国立西洋美術館3

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たぶん見ていただけだから感動が薄かったのだ。
こちらから何か投げなければ、絵は何も返してこない。
人生いろいろあって、ぼくも自分から何かを
絵にぶつけることができるようになった。
何を投げつけているのかは自分でもわからない。
たぶん自分自身なのだろう。

ヘンリー・ミラーは
「読書で大切なのは何を読み取るかではなく、何をぶちこむかだ」と言っているが、
絵にも同じことが言える。

人は人生で体験し、見聞きしたことのエッセンスを
自分からかたちにはできなくても、
様々な作家の作品にそれをぶちあてて、何かを確認するのだ。

材料は見る人の中にある。
作家たちはその材料の活かし方をそれぞれのスタイルで提案してくれる。
作品は我々見る側が活用するプログラムなのだ。

たぶんぼくはまだまだ多くの作家たちの提案を見逃し、無駄にしているのだろう。

国立西洋美術館2

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「睡蓮」はもっと小さい印象だったのだが、
今回見てみると2メートル四方の堂々たる絵だ。

1990年にオランジュリー美術館の「睡蓮」の大作8点を見てからは、
どうせあれにまさるものはないのだからと、
あちこちの美術館にある「睡蓮」をあまり熱心に見てこなかったのだが、
どうしてどうして、これはこれでなかなかの迫力だ。

いたるところに乱舞する色とかたち。
モネがたどり着いた変幻自在の境地。
1919年制作とあるから、たぶん第一次世界大戦で息子を失った頃だ。
悲しみも絵を描くことによってしか乗り越えられない、
全身画家の執念。
20年前、ぼくはいったい何を見ていたのだろう?


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