イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

あぶない芸術鑑賞

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美術や映画など芸術関連のエッセーです
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六本木ヒルズの52階にある森アーツセンターギャラリーをめざす。

近未来的な建物を通って19世紀絵画を見に行くのは、
なんだか変な気分だ。

言葉遣いはていねいだが、なんとなく偉そうな態度のスタッフがそこら中にいて案内してくれる。

平日の夕方なので、会場はすいていた。

最初の展示室で黒服に身を固めた若い女性スタッフに呼び止められ、
背負っている仕事用バッグが大きすぎるので、
クロークに預けてくれと言われた。

「大きい荷物はクロークへ」というのは美術館のマナーだが、
それはほかの客の迷惑になるほど大きな荷物という意味だ。
がらんとしている会場にちょっと大きめのビジネスバッグを持ち込んだからといって、
いやな思いをする客はいない。

そもそもそんなことは展示室の中じゃなく、
入り口にいるスタッフが指示すべきことだろう。

なんだかむかついたが、そこで文句を並べても、
ますます気分がいらつくだけなので、大人しく入り口に引き返し、
その外にあるクロークで荷物を預ける。

「写真撮影禁止」の表示は見あたらないが、
たぶん雰囲気的に、撮影禁止なんだろうなと思いながら、
展示室と展示室のあいだにある、
ビデオを流している暗い空間からこっそり会場の雰囲気を撮影。
盗撮のドキドキ感というのはこういうものなんだろうな。

2枚撮ったところで、どこからかさっきとは別の黒服ねえちゃんが現れて、
「すみません。写真撮影は禁止となっております」と囁いた。

最近はフィレンツェの美術館でもやたらと撮影禁止のところが増えている。
ああいう世界中から人が殺到するところは、
もたもた写真を撮られると列が先に進まないのだろう。

中には保存状態の関係でストロボを焚かれたくない絵もある。

しかし、こんな閑散とした展覧会なら、
ストロボなしで撮る分には、誰にも迷惑がかかるわけじゃない。

黒服ねえちゃんたちは一体何から何を守ろうとしているんだろう?

そんなことは知ったことじゃないのかもしれない。
ただ、ミーティングで指示されたことを守っているだけなのだ。

最近よく見かけるモダンな飲食店みたいだ。
料理もサービスも内装もなかなかよく考えられているのだが、
実行部隊がバイトたちなので、
なんだか寒々とした印象を与える店。

優秀なプランナーが市場ニーズを読み取って練り上げた企画とか、
熱心な企画会議やプレゼンの様子等々が透けて見える店。

客は集まるし、店はもうかるが、
客はそこで心底楽しむことはできない。

貸しビル業でのしあがった森ビルも、
まだ文化に貢献することは苦手なのだろう。
せっかく美術館をつくっても、
不動産業者のがめつさ、下品さがそこここに感じられる。

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6月22日

駿河台取材の帰り、神田の楽器店や本屋をひやかしているうちに、
ふと六本木ヒルズで「フィリップス・コレクション展」をやっていることを思い出した。

目玉はルノワールの「船遊びの昼食」。
中学時代、美術の教科書に載っていて、
何度も何度も飽きることなく眺めた絵だ。

新御茶ノ水駅から地下鉄に乗り、日比谷で乗り換えて六本木へ。

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「スペイン紀行」で紹介したベラスケスのことを考えていたら、長谷川等伯の「松林図」のことが思い浮かんで頭から離れなくなった。

「ベラスケスは50歳になって、もはや事物を描こうとはせず、黄昏の光とともに物の周辺をさまよい、物質の影と面に息づく多彩な動悸を、沈黙の交響楽の見えざる核とした」

と評されたベラスケスだが、晩年の等伯もまた事物を描こうとせず、沈黙の交響楽をめざしたのだった。
等伯はその境地を簡潔に「静かなる絵」と表現している。

近づいてみればごく粗い、松の枝を描く筆使いが、少し離れただけで、茫洋とした靄を透かして見えるはかない松林に変わる。さらにほんの少しでも薄くなれば、もうこの世に存在しなくなってしまうような、存在と非存在の境目を、この絵は漂う。

等伯が生きたのが戦国時代だという事実には何度も愕然とする。
戦乱の時代になぜこんな静けさの極地が描けたのか不思議だ。
戦乱の時代だからこそ描けたのだと彼自身は言うだろうか?

思えば雪舟も等伯よりさらに百年くらい前、応仁の乱前後に生きた画家だった。
本阿弥光悦や千利休も戦国時代の人だった。
戦争の時代とは人が解き放たれる時代であり、戦いによって人が死ぬからこそ、人が考え、ものの奥底を見据える時代なのかもしれない。

戦争で人が死なない今の日本に生きる我々はもちろん幸せなのだが、その分視界が不透明になっていることに誰もが不安といらだちを感じているのも事実だ。

ソドムの市

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 ゆうべピエル=パオロ・パゾリーニの「ソドムの市」を見た。DVDを持っていて、ときどき見るのだが、そのたびにちょっと癒され、ちょっと元気になる。

 原作はマルキ・ド・サドの「ソドムの120日」で、映画は第二次世界大戦末期、イタリアのファシスト政権のお偉方たちが、敗戦が迫るなか少年少女たちを屋敷に集め、変態的な快楽に耽るという、いってみればSMものなのだが、いわゆる一般のアダルト映画・ビデオのSMものとはまったく違う。

 たぷんそこにサドの批評性が再現されているからだろう。
 サドはフランス革命期に生きた貴族だった。
 革命前は娼婦の館でSMプレイにふけったり、鶏姦(アナルセックス)を楽しんだりして逮捕され、牢獄にぶちこまれている。貴族だから何をしてもいいわけではなく、一応キリスト教社会だから、こうした変態プレイは犯罪だったのだ。

 フランス革命のひきがねになったバスティーユ牢獄が襲撃され、政治犯が解放されたとき、サドもたまたまそこにいたため逃げ出すことができた。
 脱出後は貴族の身分を隠し、パリで革命人民委員として活躍する。
 革命が粛清地獄になり、帝政から王政復古へと迷走するなかで、結局最後はサド公爵として精神病院に幽閉されて死ぬ。

 サディズムの語源になった彼を有名にしたのは純真なお嬢様が世間に放り出されていろいろといじめられる「ジュスティーヌ」と、ジュスティーヌの妹ジュリエットが悪女としてしたたかに富と快楽をエンジョイする「ジュリエット」という小説だ。

 こう書くと、ただのSM小説みたいに思えるかもしれないが、サドが描きたかったのは、おおざっぱにいうと中世からヨーロッパを支配してきたキリスト教社会の秩序がすでに崩壊していること、それなのにキリスト教の倫理に守られていると勘違いしている甘ったれが、経済と科学が支配する時代にどれだけひどい目に遭うかということだ。

 サドの視点は異常性欲のレッテルを貼られ、闇の世界に閉じこめられてはいるが、その後の近代・現代にも、最も辛辣で真摯な批判装置として生き続けている。

 昨日フーコーの「言葉と物」について書いたときにも触れたが、経済と科学主導の近代はそれまでの時代にはなかった大量虐殺(戦争やら強制収容所やら)や、様々なスタイルの人格破壊(19世紀の悲惨な労働やら現代の人格崩壊やら幼児虐待やら)を生み出していながら、同時にヒューマニズムの思想を磨き、普及させてきた。ヒューマニズムとは人間主義のフィクションで人間をなぐさめながら、経済と科学主導のシステムを維持するためのからくりなのだ。
 
 パゾリーニはこの甘ったれたフィクションとしてのヒューマニズムを批判し、人間が実はどのように生きているのかを描くために、サド原作を素材に選んだのだろう。
 映画のなかでは、サディスティックな快楽に耽るファシスト政権のお偉方たちは決して甘ったれてはいない。少年少女たちに糞を食わせるだけでなく、自分たちも必死に糞を食らう。
 自分たちが女になり、護衛の兵士たちと「結婚式」をあげ、若者たちにアナルを犯される快楽に耽る。経済と科学の時代を牽引する権力者たちは、このシステムこそが変態的であることを知っているのだ。

 ぼくが「ソドムの市」に癒され励まされるのは、そこにある「サディズム」がただの変態性欲ではなく、無責任な社会批判でもなく、ぼくらが今どこでどのように生きているのかを教えてくれるからだ。

 パゾリーニはたしかこの映画を完成させて間もなく、セフレもしくは愛人だったマゾヒストの少年に殴り殺されている。映画監督としてのデビュー作「奇跡の丘」(キリストの受難を描いた変態趣味のかけらもないピュアな映画)以来、一貫して誠実な思想家だった彼にとって、こういう死に方も一種の殉教と言えるかもしれない。

 

なめまわしたい美術品

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 歳をとるにつれて、生命力が衰えたせいか、自分を支えるために、手許に美しいものを置いて眺めていたい、なでまわしたいと思うようになった。美術館や画集で眺めるのではだめで、自分が好きな距離で見つめたり、好きなようにふれたりできなければいやないだ。
 若い頃はなぜ人が美術品を収集するのか理解できなかったものだが、それはたぶん自分の想像力にいい気になっていたからだろう。ある意味ではなんにも見ていなかったのだ。見ているつもりになって、自分で勝手に思い描いたものを眺めていただけなのだろう。

 歳を食ってパワーが衰えると、自分の力でモノを輝かせることができなくなってくるかわりに、モノそのものがよく見えるようになる。するとモノのすばらしさがわかるようになり、ほしい気持が強くなる。

 ほしいといっても、美術品ならなんでもいいわけではない。
 ひとりでなでまわしたいと思うのはごくわずかだ。
 
 たとえば野々村仁清の壺、「色絵藤花文茶壺」。
 熱海のMOA美術館で見て以来、何度も思い出す。豊かな丸みと色彩。そこには完璧な宇宙がある。眺めている時間を生命のエキスのようなもので濃密にしてくれる。こういう壺なら抱きしめてなめまわしたいと思う。
 
 もうひとつほしいのは、池大雅と与謝蕪村の競作、「十便・十宜図」。
 自然の中にある山荘でのんびり楽しそうに暮らす人たちの様子を、漢詩入りの漫画風イラスト10点ずつで描いた小さな冊子だ。川端康成が所有していたもので、今はその自宅を保存した記念館の所有となっている。実物を見たことはない。テレビで何度か見ただけだ。それだけで心を奪われてしまった。
 自分で山荘を持ち、のんびり暮らすより何百倍、何千倍もの楽しい時間をそれは与えてくれる。
 
 川端康成は第二次大戦直後、この「十便・十宜図」が売り出されたとき、浦上玉堂の山水画「凍雲篩雲図」とセットで2000万円で購入した。今なら何億円だろう。その後2点とも国宝に指定され、売り買いなど考えられない文字通りの宝物になってしまったから、安い買い物をしたとも言える。

 もちろんそんな金はないから、毎日新聞社に泣きついて借金したという。
 新聞社としては借金のカタに、川端が小説をせっせと書いてくれればもうけものと判断したのだろう。
 はたして川端はメロドラマっぽい小説を量産した。
 戦後の作品に、あまり川端らしくない水商売の女を描いた通俗小説みたいなのがあるのは借金のせいらしい。

 川端はどうしてそこまでしてこのふたつの絵をほしがったのだろう?
 テレビ番組の解説では、戦時中から戦後にかけて彼は深刻な精神的危機にあり、生き延びるために美の力を必要としていたのだという。
 何年か前、その説明を聞いたときは嘘くさい話だと思ったのだが、最近になってそれは切実な気持だったのではないかと思うようになった。
 それは自分がそういう美の助けを必要としだしたからだ。

 川端康成はノーベル賞を受賞し、日本の美意識を描いた作家として世界的にも高く評価されていたが、そういう成功の上に安穏としていられる人ではなかった。若い頃からドラッグを愛用していたのも、常に情緒不安定だったからなのだろう。作品を読むと、かなり危ない、ひ弱なところのある人だということがわかる。それが文学的想像力の源泉だったと言えなくもない。
 70年代になって突然ガス自殺したが、死後に多額の借金を残したという。文学的にも実生活でも危ない綱渡りを続けた人生だったのだろう。

 死と戯れるには、生きなければならない。
 「十便・十宜図」はバランスを崩しかけた彼がすがった浮きだったのだ。

 何億円も貸してもらえるあてのないぼくとしては、弱った想像力を働かせるしかない。


 


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