イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「PELOTA」

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アブノーマル小説の自称最高傑作になる予定の未完成作品
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第4章爆発する鶏2

  半円のすり鉢状の客席の底に半円形のステージがあり、競売人がそのわきに立って競りを進行する。その奥に象が何頭か入りそうな高さ5メートルほどの大きな鉄製の檻があり、両手首、両足首を三十センチほどの鎖でつないだ拘束具をつけた全裸の奴隷たちが数人(多いときでも十人を越えることはない)、手首の鎖によってむき出しのコンクリートの壁につけられた金属の輪に固定されている。奴隷たちの首には競り番号と持ち主によってつけられた仮名を記した札が掛かっている。タキシードを着た競売人がマイクを持ち、番号順に奴隷を呼ぶと、刑務所の看守のようなグレーの作業服姿の男がもっともらしく大きな鍵で檻の扉を開けて中に入り、壁の鉄の輪から奴隷の鎖を外してステージに追い立てる。ステージには奴隷の所有者が待っていて、競売人の質問に答えながら、奴隷に施した調教の種類や奴隷の性格、特徴などを買い付け人にアピールしていく。長所を明らかにするために、調教のさわりを披露する持ち主も多い。奴隷の苦痛にゆがむ顔や羞恥の表情、思わず漏らす声などから奴隷としての魅力がわかるからだ。
 さらに競売人の「自由にお試しください」の声と共に買い付け人たちはステージに上がり、自分で奴隷の乳首をひねり上げたり、肛門や性器に指を入れて、奴隷の反応を見ることができる。最後に席に戻った買い付け人たちの中から希望者による競りが始まる。奴隷市場の競りは価格がすべてではない。もちろん飼い主の都合にもよるのだが、買い付け希望者がどのような人間で、どんな飼い方をするつもりであるのかをひとりずつ語ってもらい、それによって奴隷に一番ふさわしい新しい飼い主を決めることになる。完全に家畜として金と引き替えに売られ、代金が百パーセント持ち主のものになるケースはむしろ希だ。
 競売やそこでやりとりされる金は演出の一種であり、持ち主が信頼し、共感する相手が選ばれることが多いし、中には奴隷がステージの上で飼い主に耳打ちして新しい主人を決めることもある。

 MJがSUを市場で売りに出すというアイデアを初めて口に出したのは、食肉中央卸売市場の巨大な冷凍庫の中だった。羽根をむしられた無数の冷凍鶏が大きな篭に入れられ、高さ20メートルほどの棚に積み上げられている零下40度の部屋で、ビジネススーツ姿の彼らは寒さの痛みに震え、カタカタと音をさせて足踏みをしながら、蒸気機関車のような白い煙と共に言葉を吐き出した。
「君を奴隷市場で売りに出そうと思うんだ」とMJが言った。
「ああ、それはいい考えかもしれないわね」とSUが言った。
 それはマゾヒストの従順さから出た言葉ではなかった。彼女はすでにMJの傷つきやすさを理解していたし、彼自身がマゾヒストであり、彼女を支配するにも他人の介在を必要とするタイプのサディストであることを察していた。(「異常性欲社は体内から溢れ出てくる性的エネルギーを持たないため、言葉ないしは理論の矛盾に頼るしかないのだ」とオットー博士はまるで自分が健常者であるかのような口調で私に語ったことがある。)MJには自らSUを拷問する動機が欠落しているが、第三者が加える拷問にSUが反応を示せば、そのことによって彼女を責める動機を得ることができる。(「あんな男の責めによがりやがって、このいやらしい雌豚め!」「ああ、おゆるしくださいご主人様!」)そして、実際に市場で売られる以前に、彼女がそれを承諾したことで、もしかしたら彼の中に動機が生まれるかもしれないと、SUは考えたのだ。(「おまえはどんな相手に責められても興奮するんだな!」「ああ、そんなことありませんわ、ご主人様」)そんな芝居がかったセリフが堂々と吐けたらどんなに幸せだろうとSUはそのとき思ったし、MJもそう考えていることを感じていた。

 MJが黙ったまま震えているので、SUは自分からその場で着ているものを脱ぎ、四つん這いになって冷凍庫から奴隷市場まで歩いていった。MJは彼女の衣服を拾い集めてあとをついていったが、途中誰にとがめられることもなかった。暗くて広い通路には皮を剥がれ、内蔵を抜かれた牛や豚や羊が、電気式のトラックの荷台に吊されてひっきりなしに通っていたし、奴隷市場に向かう同じようなマゾヒストたちが数人いたので、大して目立たなかったのだ。
「本当かね?」と私は後日MJにきいた。
「本当さ」とMJ。
「悲しくなかったかい?」
「もちろん悲しかったさ」

 その日の夕方売り出された奴隷は男女合わせて5人。MJとSUがエドガー・ハウザーを売却先に選んだのは、彼が妻を同伴していたからだ。妻の理解を得ている男のプレイには節度がある。少なくともSMの世界ではそう言われている。しかし、結果的にそれはとんでもない思い込みだった。彼らはまだエドガーがトライアスリートであることを知らなかったのだ。1983年のことで、日本ではトライアスロンなるスポーツはほとんど知られていなかった。

 平日の市場で取引された奴隷であるため、SUは翌日からいつも通り宇陀食品研究所に出勤してきたが、体中鞭の跡だらけだった。エドガー・ハウザーは空き地に自分で掘ってコンクリートで固めた狭い地下室に彼女を吊るし、一晩中鞭で叩き続けたのだという。おまけに彼女は一睡もしていなかった。
 その晩、MJは彼女を車でエドガーのトレーラーハウスまで送っていった。そこはエドガーのトレーニングの場所である核地球公園の近くにある空き地で、錆びついた年代物のトレーラーハウスが雑草の中に置かれていた。エドガーはちょうどその日のトレーニングを終えたところで(毎日、午前中に3キロから5キロ泳ぎ、10キロから15キロ走り、昼食と昼寝の後、暗くなる直前まで100キロから150キロ自転車に乗る)、ハウザー夫妻は狭いダイニングキッチンで夕食をとっていた。メニューは大量のフライドチキンとサラダだった。
「まずそうだろ?」照れくさそうにエドガーが言った。「ウィノナは料理が下手なんだ。でもフライドチキンはなかなかいけるぜ。唯一の得意料理なんだ。1週間のうち5日はフライドチキンだね。よかったら食べてかないか?」
「ああ、いいね」とMJは言った。「ただ、その前に言っときたいんだが、SUを跡が残るほど鞭で打つのはやめてくれないかな。一晩中寝かさないというのもだめだ。『日常生活に支障をきたすような行為はしない』と契約書に書いてあるはずだ」
「それは悪かった」トライアスリートの誠実さでエドガーは言った。「俺は日本語が読めないんだ。契約違反を犯してしまったのなら謝るよ。ゆうべは彼女が何も言わないから、喜んでるものだとばかり思ってたんだ」
「きついのは嫌いじゃないけど、とりあえずああいうのは困るのよ。私はMJの所有物なんだから」とSU。(「そう口に出したときは乳首とクリトリスが勃起したわ」と彼女は私に語った。
 そんな会話が交わされている間、ウィノナは冷蔵庫から骨付きチキンのぶつ切りを取り出し、塩といくつかのスパイスをまぶし、ミルクにひたしてから小麦粉をまぶし、サラダ油をたっぷりかけ、電子レンジに放り込んだ。ブーーーーーンンンンンン、チン!わずか3分で1ダースのフライドチキンができあがった。
「ちょっと待ってくれ!」とMJは叫んだ。「どうして鶏が爆発しないんだ?」
「さあ……。それはウィノナにきいてくれ」
 ウィノナはふくれた七面鳥のように喉をふくらませて押し黙っていた。
「ウィノナ、この日本人はなぜ鶏が爆発しないか知りたいんだそうだ。教えてやれよ」
「いやよ」ウィノナはほくろだらけの太った顔をふくらませて言った。
「なぜ?」
「電子レンジでフライドチキンが作れるのは、世界中で私だけだからよ」

第4章爆発する鶏1

  嘔吐事件が一気に恐怖の壁を崩し、お互いに打ち解けた恋愛関係をもたらしていたら、きっと《電子レンジでできる揚げたてフライドチキン》の開発もはるかにスムーズに進行していたに違いない。SUの方にはすべてをさらけ出す決意ができていたが、MJの方はまだ悪臭を放つうんこをSUの目の前で弱い直腸の中からぶちまけ、「ほらSU、僕だってこんなに汚いものを体から吐き出すんだ!」と言える勇気を持っていなかった。したがってSUの胃がレストラン嘔吐事件の後奇跡のように強くなり、二度と吐き気を催さなくなったのに対し、MJはその後もずっとひっきりなしにトイレに立って未消化のうんこをひりださなければならなかった。
 
とはいえ、彼らの関係は多少進展し、SUはMJを自分のマンションの部屋に入れることができるようになった。彼女が仕事場からくすねてきたLSDのおかげで、ふたりは多少のリラクゼーションを味わうことができたからだ。彼女はそれまでの男たちとのプレイに使った鞭や蝋燭や縄やバイブレーターをぞんざいに納戸へ押し込み、自分がマゾヒストであることを隠そうとしたのだが、一番大きなSM用器具である鉄の檻を部屋の隅に置きっぱなしにしてしまった。毎日仕事で疲れていたし、元々身の回りのことにあまり気を使わない性格だったから(服はたくさん持っていたし、どれもなかなかのセンスだと自分も周囲の人々も認めていたが、うっかり下着を二三日替えないで過ごしてしまうことがよくあった。トイレでパンティを下ろしたとき、黄色い染みを発見して身震いしても、用を足して外に出たとたんに忘れてしまうのが彼女の常だった。男たちに縛り上げられてパンティを脱がされたとき、それがひどく汚れているのを見られても、多少の恥辱によって欲情に拍車をかけることにはなっても、心底恥ずかしいと感じたことはなかった。なぜなら彼女は自分を陵辱する男たちを一人前の人間とは思っていなかったからだ。)、「ああ、この檻ね。以前犬を飼ってたことがあるの」といった言い訳で済ませられると思ったのだ。
 しかし、MJは彼女の杜撰さを許さなかった。
「違うね、君は素っ裸でこの檻に閉じこめられておしっこをされせられたり、上から蝋燭を垂らされてのたうちまわっていたんだ」と彼は見事に檻の用途を言い当てた。檻の床には赤い蝋燭のかすが残っていたし、かすかにおしっこやうんこの臭いもしたから、特にMJの洞察力が素晴らしかったわけではないのだが。
 さらにMJは家中の扉を開けて回り、あっというまに隠しておいたSM用具を見つけだしてしまった。彼はそれらの道具を使ってSUを縛り上げ、マゾヒストであることを白状するまで責めたてた。もちろん彼女は言葉では否定したが、どんな痛みや屈辱にも容易に反応し、うめき声を上げ、膣液を大量に垂れ流すことで、すぐさまマゾヒストとしての正体を露呈してしまった。
 一度男に自分をさらしてしまうと、肛門から直腸・大腸の中まで見せなければおさまらないSUは(彼女の部屋には実際に医療用の内視鏡があった)、口からも際限なく告白のゲロを吐き出した。
「自分がマゾヒストだと気づいたのは鈴ヶ森第二小学校2年のときだったわ。古びた石造りの校舎には、陰気な棕櫚や蘇鉄が密生する中庭があって、私はある朝もうじき校庭で朝礼が始まるってときに、そこでうんこがしたくなって、こっそり暗い木立の中でうんこをしたの。終わったときにはもう朝礼が始まっていて、今更出ていけなかったし、中庭は校庭からよく見通せたから、木陰から出て教室に戻ってしまうこともできなかったわ。それでうんこの臭いを我慢しながら朝礼の間ずっとそこでしゃがんでいたの。そのときにカレー・チューブの幻が見えたのよ。カレー・チューブというのは遊園地のプールによくある滑り台みたいな透明のプラスチックでできた曲がりくねったチューブで、それが中庭の上や校舎の中や校庭に張り巡らさせているの。中にはカレーみたいに柔らかいうんこが流れていて、消化しきれていない野菜や肉の塊が見えたわ。そのカレー・チューブに入って端から端までたどり着くと、神聖な人間に生まれ変わることができるの。もちろん、裸でカレー・チューブに入れられて、うんこの中でもがきながら、先生や生徒たちが指さしてあざ笑うのに耐えなければいけないのよ。そうやって一度地獄のような苦痛と屈辱にまみれると、誰にも真似できない勇気と高潔な精神の持ち主だということが証明されて、神のような賞賛と崇拝の対象になるの」
「で、君は神になった?」とMJ。
「たしかに全校生徒が見てる前で先生たちに服を脱がされて、カレー・チューブの中に押し込まれたけど、終点まで行き着かないうちに、朝礼が終わって教室に戻るクラスメートたちに、棕櫚の木の下でうんこをまたいでしゃがんでるところを発見されてしまったの」
「それはカレー・チューブなみの屈辱じゃなかった?」
「永続的なカレー・チューブ地獄の始まりだったわ。クラスメートたちに囲まれて嗤われただけで、私は泣きながらおしっこをもらしてしまったの。それが初めて他人の前でしたおしっこで、生温いお湯のようなものが股間から内腿を伝って靴下の中に流れ込んでいくのがわかったわ。それで男の子たちが私のスカートをまくりあげてパンツを膝までずり下ろしたんだけど、悪いことに私はうんこをしたとき紙を持っていなくて、おしりを拭いていなかったのね。肛門のまわりにこびりついてたうんこがおしっこに溶けてパンツに黄色い染みを作っていたの。それで騒ぎがますます大きくなって、私は保健室に連れていかれて、先生にお湯をひたしたタオルでお尻を拭かれ、うちからおばあちゃんが持ってきたパンツをはかされたの」
「そういう子は、騒ぎが収まってもずっといじめられるんだ」
「それから4年と何カ月かのあいだ、私はずっと鈴ヶ森第二小学校のカレー・チューブの中を泳ぎ続けたのよ。みんなの罵声を浴びながら。成績はずっとクラスで一番か二番だったけど、そんなことでは不可触民の身分から抜け出せなかったわ」
「それでも君は転校しなかった」
「人間は一度そのコミュニティーで屈辱にまみれると、そこで与えられる軽蔑を進んで受け入れるようになるのよ」
 しかし、SUはそのときマゾヒストになったのではなく、自分がマゾヒストであることを発見したのだという。彼女は生まれつきのマゾヒストであり、それは遺伝子に密かに書き込まれているプログラムなのだ。
「このマンションは1964年まで私の両親が経営する旅館だったの」と彼女は言った。「両親が事故で死んでしまったので、おばあちゃんが旅館を取り壊してマンションを建てたの」
 むき出しのコンクリート壁がトーチカを思わせるそのマンションは、国道2号線をはさんで旧鈴ヶ森刑場跡を見おろす場所にあった。美しい松林と竹矢来の柵に囲まれた刑場には磔台や獄門台が並んでいて、明治時代の初めまでは毎日のように罪人たちがそこで磔にされ、両脇腹を槍で突かれたり、火あぶりにされたりしていた。獄門台には切られた首が何日間も乗せられていた。SUの両親が経営していた旅館《常盤屋》は、そうした処刑を見物しながら酒を飲み、遊女と遊ぶ客でいつも繁盛していたという。
「刑場のむこうは砂浜で、漁師たちが毎朝とれたての魚を届けてくれたし、江戸時代の終わりにペリーの艦隊がやってきたときは、すぐ手が届きそうなところに船をとめて、将校や水兵たちがボートでやってきたのよ。彼らはドルをばらまいて遊女を買い占めただけでなく、下女や出入りの洗濯女、漁師のおかみさんたち、それから旅館の女将だったひいひいおばあちゃん、その娘のひいおばあちゃんまで強姦したの。もちろん男たちもレイプされたわ。それでもアメリカ人たちはめずらしい料理の作り方を教えてくれたし、拳銃とかパイプとかバーボンとか、色々お土産もくれたから、うちには彼らに関してあまり悪い言い伝えは残ってないの。旅館のまわりにはアメリカ人相手の市が立って、刑場で処刑された人たちの着物や帯やかんざしなんかを売り始めたし、うちの中にも水兵たちが教える英会話教室やら、艦隊から分けてもらった椅子やテーブルで日本最初の洋風レストランもできたわ。一度艦隊が去って、次に彼らが来たときは、外国人居留地が築地に、それから横浜につくられたから、鈴ヶ森が外国文化を最初に受け入れた土地だということはすぐに忘れられてしまったし、幕府の役人たちが来てひいひいおじいちゃんとひいひいおばあちゃんとひいおばあちゃんを奉行所に連行して、いろんな拷問を加えながら、アメリカ人たちがどんなことをしたかとか、日本についてどんなことを彼らに教えたかといったことを根ほり葉ほり訪ねたあげくに、ひいひいおばあちゃんとひいおばあちゃんのおなかを切開して、日本初の日米ハーフの赤ちゃんを取り出して殺してしまい、今後はアメリカ人が鈴ヶ森に来たことを一切しゃべってはならんと脅したの。このときに私の家系のマゾヒスムは染色体の中に刷り込まれたのよ」

 こんなにSUが自分をさらけ出しても、MJは彼女の前でくつろぐことができなかった。彼女の告白の大半は蝋まみれの檻の中で、あるいはコンクリートの天井から鎖で逆さに吊された状態で行われたものだし、MJは彼女の中で射精した後も、両腕を縛っている縄だけはほどこうとしなかった。
生まれて初めて本気で恋愛を望んでいた彼女は、MJが単なるSMプレイを強要することにひどく傷つき、混乱したが、彼の中にも恋愛への恐れがあることは見抜いていた。その恐怖が乗り越えがたい壁に思えたので、MJが彼女を奴隷市場へ売りに出すことを承知したのだった。
《電子レンジでできる揚げたてフライドチキン》用の爆発しないたんぱく質の組成を持つ鶏を求めてMJとSUは毎週のように食肉中央卸売市場に世界から集まるチキンを買い付けに出かけていたが、人間奴隷市場の競り場はちょうど鶏肉の競り場の隣にあったので、ふたりはチキンを買い付けたあとによく覗いていた。小さな階段教室のような半円形の買い付け人席はいつもまばらだったが、それは平日の昼間に開かれる競りが、週末の夜中に開かれる奴隷の完全な売買ではなく、彼らが職業や家族を持つことを認め、ごく限られた機会におけるSMプレイの権利のみを売買するものだったからだ。マニアの世界ではこうした部分的にしか人格を売り渡さないマゾヒストは臆病者あるいは単なる完全な奴隷への入門者と見られている。  

 小麦粉のプロフェッショナルである彼女にとって、最初のうちMJの要求はそれほど難しいことではないように思われた。ところが彼女が改良した小麦粉は、いずれもそれまでのものより早い段階でチキンを爆発させてしまった。何かがおかしかったが、原因はわからなかった。彼女は失敗にショックを受け、焦った。それまでの彼女は失敗らしい失敗をしたことがなかったし、常に期待を上回る結果を出して周囲を驚かせ、そのことで自分のプライドを肥え太らせてきたのだ。
「冷静に」とMJは冷たい口調で、しかし努めてやさしく振る舞いながら言った。「焦らずに原因をよく考えて見るんだ」
「私は冷静よ」とSUはふさぎこんで呟くように反論した。
 しかし自分が冷静でないのはわかっていた。MJがそこにいるだけで、いなくてもこの仕事に彼が関わっているというだけで、彼女の思考回路が麻痺してしまうのだ。しかし、彼女は不調の原因がMJだということを意識していなかった。意識することを避けていたのかもしれない。
「体調が悪いの」彼女は自分の胸のあたりをさすった。普通なら彼女がこんな動作をするだけで、相手の男は彼女の白衣を脱がせ、フェラチオを命じたり、床の上に四つん這いにして後ろから犯したりといったことを始めるものなのだが、MJは一向にそんな行為に及ぶ気配はなかった。自分の体に興味を示さないことが、彼女にますます彼を恐れさせることになった。実はそんな怯えが彼女のまわりに強い電磁波のバリアを張り、MJを萎縮させていただけなのだが、SUは自分でそのことに気づいていなかった。

 2人はよく深夜まで研究室で仕事をした。帰りがけにレストランで食事をすることもあった。それを宇陀食品研究所の人々はデートと見なしていたが、当人たちはデートになることを恐れて、食事の間、仕事の話ばかりしていた。なぜ植物油は急激に加熱されるのか、小麦粉の分子構造を変えるもっとよい方法があるのではないか、最終的には爆発しない肉質のチキンを探し出す、あるいは品種改良によって創り出す必要があるのではないか云々……。
 それでもデートは彼らの間に忍び込んできた。周囲のカップルの親密さが危険な恋愛モードの周波数で電磁波を発散していた。ふだん、研究所では一切化粧をしないSUが、念入りな化粧をし、非の打ち所のない服装と装飾品で自分の肉体を飾りたてていた。MJも仕事用のスーツ姿ではあったが、そこそこお洒落をしていた。イタリア製のスーツ、イタリア製の靴、イタリア製のシャツ……。どちらも恋愛の土俵に引きずり出されることを恐れて、なるべく強固な鎧で自分を防御していたのだ。それでも彼らの心拍は異様に上がり、食事中から汗が顔を流れ落ちた。
 MJはひっきりなしにトイレに立った。消化器系があまりに活発に働くため、何度も大量のうんこが出た。回を重ねるたびにうんこは柔らかく、未消化になり、便器の水の中でほぐれてバラバラになり、やがては下痢状になった。
 テーブルに取り残されるたびにSUは不安が募り、胃が重くなった。吐き気が何度も彼女を襲ったが、トイレに立つことはできなかった。小さなレストランの場合、トイレは男女共用で、MJがうんこをしたばかりのところでその臭いを嗅ぎながら吐かなければならないからだ。彼女は最初に彼が席を立って、5分ほど戻ってこなかったときから、彼がうんこをしてきたのだということを見抜いていた。MJがそれを悟られまいと、大急ぎで排泄し、手も洗わずに駆け戻ってきたにも関わらず。
 
 彼女はMJのうんこの臭いを嗅ぐのがいやだったわけではない。彼女はそれまで何度となく男たちのうんこを食べさせられていたし、その吐き気を催させる悪臭や苦みを強引に受け入れさせられることに性的な興奮を覚えてさえいた。しかし、そのときはまだMJはSUにとってSMプレイのパートナーではなかったし、何より相手がそうした汚らわしい変態趣味を嫌っていると思いこんでいた。彼女が彼のうんこの臭いを嗅ぐことに、彼は耐えられないほどの屈辱を感じるだろうとSUは思いこんでいたのだ。
 やや大きなレストランではトイレは男女別室になっているから、MJのうんこの臭いを嗅いでしまう危険はなかった。しかし、SUは自分が席を立っている間、うんこをしているのではないかという疑惑がMJに生じるのを恐れていた。MJがうんこをすることには何の違和感も覚えなかったが、自分がうんこをするところを彼に想像されるのは我慢できなかったのだ。
 破滅はすぐにやってきた。吐き気をごまかすために、彼女はタクシーで家まで送っていくというMJの申し出を拒絶しなければならなかった。家まで吐くのを我慢できることもあったが、たいていは途中でタクシーを止めて、道端で吐かなければならなかったからだ。そのことがMJを不機嫌にし、彼の不機嫌が余計にSUを萎縮させた。その夜の彼女は積み重なった緊張による疲れで、自制心を失っていた。彼らは何度か利用していたイタリア料理店で食事を済ませたところだった。例によってMJは何度もトイレに立ち、腸の中をほとんど空っぽにしていた。その店は男女別々にトイレがあったから、彼の方はSUに臭いを嗅がれるのではないかという不安を覚えることなくうんこをすることができたが、彼女の方はトイレが男女別室であることすら知らなかった。
 
その夜に彼女が食べたのは牛肉の生肉の薄切りを大きな皿に敷き詰めてドレッシングをかけたカルパッチョと、ゴルゴンゾーラチーズとクリームをたっぷり使ったニョッキ、巨大なレバーソテー、いちごのアイスクリーム添えなどで、弱っている彼女の胃には明らかに重すぎた。最後にMJがトイレに立ち、いつもの下痢状の便を排泄して戻ってきたとき、彼女はすでに限界に達していた。膝のナプキンに手を伸ばす暇もなく、「クエッ」という奇妙な声と共に食べたものが食道を逆流し、大洪水の土石流のようにテーブルいっぱいにぶちまけられた。あまりよく噛んでいない生牛肉の赤、イチゴの赤、赤ワインの赤など、様々なトーンの赤が白いテーブルクロスの上を覆った。まわりの客たちの視線が一瞬その吐瀉物に釘付けになり、それから女たちの嫌悪の溜息と共に視線がサーチライトのように一斉に向きを変えるのがわかった。
 椅子の上で凍り付いていたSUは、MJの顔を見ることができずに、自分が嘔吐したものの海を見つめていた。ウエイターたちが近寄ってきて立ち止まったのがわかった。あまりの惨状に、どうやって手を付けていいかわからなかったのだろう。SUはさらに追いつめられ、顔を手で覆って泣き始めたが、そのとき自分の両手が吐瀉物でぬるぬるしていることに気づいた。袖も膝も冷たく濡れていた。彼女は思わず立ち上がり、一気に外へ駆け出した。電柱につかまって道路にしゃがみ込み、声を上げて泣き続けていると、やがてMJがやってきて彼女の背中をさすりはじめた。彼女は地面に手を突いて謝罪しようとしたが、MJは彼女の腕を乱暴に引っ張って立たせると、暴力的なキスを始めた。彼女の吐瀉物が彼の顔や唇、胸などにつき、ニチャニチャニチャという変な音を立て、胃酸で溶けかけた食べ物の酸っぱい悪臭が鼻の奥を刺激したが、そんなことはまるで気にならなかった。SUはそれまで経験したことがないほど乳房やクリトリスが固く勃起しているのに戸惑いながらむさぼるようにキスを続けた。

 MJは宇陀食品に入社するまで女のフェラチオでしか射精したことがなかったと語っている。膣の中で射精した女はSUが初めてだったと。少年時代からあまりに女を恐れて過ごしてきたために、彼は手足を拘束されない女の前で勃起することができなかったのだ。厳重に縛り上げ、股間に幾重にも縄を食い込ませた状態で、彼は初めてリラックスすることができた。
「そうなると、相手の口にぶち込むしかないだろう?」
 彼の口調はいつもぶっきらぼうだが、この手の男の中には臆病な女が隠れている。SUはMJと出会ったときからそのことに気づいていた。彼女は自分にしか欲情しない女だったが、多くの女がそうであるように、自分と同じ気配を隠している男に心を奪われたのだった。
 
 当時、製品開発室で小麦粉、食用油に次ぐ主力商品の開発を担当していたMJは、毎日のように研究所に足を運んでいた。SUの担当は小麦粉に混入するLSDの合成で、直接MJと仕事をしていたわけではないが、彼女の性欲アンテナは実験室のガラス越しにMJの姿を見ただけで確かな反応を示していた。少女の頃に経験した不気味な胸騒ぎと体内に仕掛けられた時計のかちかち時を刻むリズムが彼女を不安にさせた。多くのマゾヒストと同様、彼女は内発的な性欲を恐れ、抑圧する傾向があった。
 SUはそれまで続けていたオットー博士とのプレイを中止してしまった。
「もう終わりよ、オットー」と彼女は命令口調で言い放ったという。30以上も年上の上司に向かってだ。
「マゾヒスト特有の尊大さというのがあるんだ」とオットーは言う。「あるとき突然態度が変わる。性器から粘液を垂らしながら相手の足をほおばっていたかと思うと、急に立ち上がって罵倒する。命令する。性欲電源がオフになったとたんに変わるんだ。もちろん24時間、毎日ずっと奴隷でいることもある。それは微電流が流れていて、完全にオフになっていないからだ。ときにはそれが何年も続くこともある。あるいは一生……。相性の問題かもしれない。それは愛情や結婚とよく似ている。基本的には同じだ」

 私はオットーの研究室にいた。古い屋敷の中央にある八角形の塔の最上階に彼は膨大な書籍に埋もれた部屋を持っていた。ドーム型の高い天井には十字型の梁が渡され、そこからいくつも滑車が下がっていた。滑車には何本もロープが下がっていて、腕を後ろに縛られ、大きく脚を開いた若い女が吊られていた。付け根を白い糸でくくられた舌が長く伸び、口元から絶え間なく涎が糸を引いて床に垂れていた。ふたつの大きな乳首と勃起したクリトリスにはピアスがしてあり、その金色の輪も白い糸で強く引っ張られていた。合計四本の糸は長く伸びて、ドアの上の釘に固定されていた。痛みをこらえる「ううううううううううううう」といううめき声が長く長く、粘っこく部屋の中に響いていた。
 私は女の真下にいた。食事を運ぶワゴンに乗せられて。すでに両腕と両脚を切断されていたが、まだ眼球はくり貫かれていなかったから彼女の肛門と性器を見上げて勃起していた。
「これはSUなんですか?」と私はオットーにきいた。
「いや、別の研究員だよ」
「彼女もマゾヒストですか?」
「あらゆる研究員がマゾヒストなんだ」そうオットーは断言した。大きな腹を突き出した小男で、縁無し眼鏡をかけ、顔の半分は赤茶色の髭に覆われていた。
「彼女もあなたに命令する?」
「多少はね。まだ新人だから遠慮がちだがね」
「SUは?」
「彼女は新人の頃から尊大だったな。彼女には才能があった」
「一体何の?」
「人を支配する……」

 SUはオットーに命じて研究所内での部署を製品開発担当に換えさせた。MJと仕事をするようになった彼女は、あらゆる男性との性的関係を絶ち(オットーの他、宇陀食品の社内に数人、学生時代からの男友達が数人、その他の機会に知り合った本名を知らない男数人と、継続的な関係を持っていた)、病院で密かにエイズ検査などあらゆる性的感染の恐れのある病気の検査をし、陰性であることを確認し(彼女がエイズに感染したのはMJを通じてだ)、MJの所有物となるチャンスをじっと待った。今まで経験したことのない緊張が彼女を苦しめ、仕事で立て続けにミスをした。
 
当時、MJは後に宇陀食品の主力商品となる電子レンジで加熱するタイプの冷凍食品シリーズの開発にとりかかったばかりで、シリーズの第一弾である《電子レンジでできる揚げたてフライドチキン》の素材選定に苦心していた。食品業界では先発各社が電子レンジで加熱するタイプのフライドチキンをすでに発売していたが、いずれも一度揚げてから冷凍したもので、これを電子レンジで再加熱すると肉がパサつき、固くなるという欠点があった。MJがめざしていたのはあくまで生のチキンに衣をまぶし、電子レンジで《揚げる》タイプの冷凍フライドチキン、一口噛むと熱いチキンの肉汁が口いっぱいに広がるような、本物のフライドチキンだった。そこで考え出されたのは、衣にあらかじめ植物油をしみこませておき、電子レンジで加熱すると、その油の熱によってチキンがほどよい柔らかさに仕上がるという方式だったが、これがなかなか難しかった。
 電子レンジは中に入れた素材に電磁波で均等に電子のシャワーを降り注ぎ、加熱するのだが、同じ電子の刺激を受けても、脂肪は他の物質に較べて急激に高温に達する。衣にしみこませた植物油は、わずか90秒で180゜C、120秒で250゜Cに達し、チキンの表面のたんぱく質を過剰に加熱し、5分後には水分を奪って茶色にひからびさせたり、爆発させたりする。それでもチキンの中は生のままなのだ。
 MJは研究員に電子レンジで加熱しても急激に温度が上がらない植物油の開発を要請していた。これは分子構造を操作することである程度可能だった。しかし、限度を超えると風味がそこなわれたり、揚がったときの食感が悪くなったりする。限界ぎりぎりのところまで分子構造を変えても、フライドチキンは爆発した。そこで今度は衣に使う小麦粉の分子構造を変えるというアプローチがとられた。SUがこのプロジェクトに加わったのはこの段階だった。

第2章核地球公園3

 SUは当時、エドガー・ハウザーが日曜大工で作った箱の中で暮らしていた。もう少し正確に言えば木製ベッドの中で。そのクイーンサイズのベッドは、マットレスの下が高さ50センチの薄い箱になっていて、錠前付きの横板をはずして出入りできるようになっている。板をはめれば中は真っ暗だ。トライアスロンのトレーニングと、エドガーの気まぐれな拷問のときを除いて彼女はずっとその高さ50センチ、長さ2メートル、幅2メートルの箱の中で暮らしていた。排泄は洗面器にした。(どうやってやるのか不思議かもしれないけど、慣れるとなんとかできるのよ。腹這いになって腰を浮かして、ふくらはぎで洗面器の位置を調節してね)食事は一日三回ウィノナが箱の中に入れた。平皿に盛った柔らかいケーキのようなものとスープ皿に入れたミルクといったメニューが多かった。それとビタミン剤。
 朝起きると、ウィノナがおしっことうんこが入った洗面器を取り出し、中身を始末して戻す。それから朝食。洗面器は一日一度しか洗わないので、箱の中は常に悪臭が充満している。(あの臭いの中で食事をするのが一番つらかったわ)朝食の後、スイム5キロ、ラン15キロの練習をこなし、箱に戻って昼食。それから地下室で1時間の拷問と強姦、それから100キロのバイクライド。箱の中での夕食、就寝……というのが一日のスケジュールだった。
 エドガーはSUの心を掴むために、彼女の嫉妬を掻き立てる作戦に出た。毎晩ベッドでウィノナに声を上げさせたのだ。ときには愛撫することもあったが、たいていは鞭や平手打ちが多かった。エドガーとウィノナはコロラド州ボウルダーのハイスクールの同級生で、ふたりとも16歳まで一度もデートの経験がなく、エドガーは初めてのデートで彼女を山の中に連れ出し、両手首を木の枝に縛り付けてセックスした。幼い頃に両親が離婚し、母親の再婚相手に強姦されて育った彼は、完全に自由を奪った女でなければセックスできないと感じていたし、少女時代にメキシコのチアパス州の高地で育ち、家族の口減らしのためにアメリカ人の考古学者の養女になったウィノナは(元々の名前はアナ・マルガリータだった)、故郷の村でカシーケの息子たちに幼い頃から強姦されてきたために、乱暴な男に抵抗することを知らなかった。(もちろん養父も私をよく奥さんの前で縛り上げて叩いたわ)エドガーは目の覚めるような美人と結婚して毎晩拷問することを夢見ていたが、さしあたってそんな相手もいないので、ハイスクールを卒業すると同時にとりあえずウィノナと結婚した。夫婦の収入源は高校生のときからウィノナがやっていた山火事監視員のアルバイトだけだった。勉強が嫌いだったエドガーは美容器具のセールスマンや牧場の牛の世話などをやってみたが、どれも長続きしなかった。セールスマンは訪問先の主婦に暴行を働いたために一週間で首になったし(相手が会社の上司に苦情の電話をかけてきただけで、警察に訴えようとしなかったために、経歴に傷がつかずにすんだ)、牧場では子牛を虐待したために(あんな口も利けない畜生の世話をするなんてうんざりだ!)半日もたたないうちに叩き出された。
 彼はもともと毎日決められた時間に決められたことをやるのが苦手だった。(勉強も、結婚生活もうんざりだ! おれはこんなことをして一生無駄にするような男じゃないんだ!)いつも自分に自信が持てないでいたが、同時に自分の中に何かすごい才能が潜んでいて、それがある日突然花開き、名声と金をもたらし、世間をあっと言わせるところを空想するのが好きだった。
 そんな彼が自分の才能を発見したのは、ウィノナが働きに出ている日中、退屈しのぎに始めた散歩の最中だった。女を吊して鞭打つところや(ウィノナではない女、美人の白人女、ボウルダー大学に通っているインテリで、水泳やマラソンが趣味の、いい体をした女!)、縛り上げられた女が彼を涙目で見上げながら「お願いだから助けて」と哀願したり、「あなたを本気で愛しているの」と告白するところを空想しながら、山道を何時間も歩いていると、いつのまにか家から30マイルも離れた場所に来ていることに気づく。そんなことが何度となく続いた。(走らずにそんな距離を移動するなんてできやしない。おれは気づかないうちに走っていたんだ。しかも息をまったく切らさないで!)
 彼は試しにおんぼろのピックアップでドライブウェーを走って26マイル(約42Km、つまりフルマラソンの距離)の距離を計測し、同じ道を自分の脚で走ってみた。ジーパンにスウェットシャツというスタイルで楽に走ったにも関わらず、2時間57分というタイムだった。
 うれしくなったエドガーは毎日5〜6時間走るようになり、一ヶ月後に開かれたハーフマラソン大会で優勝した。その翌年、サンディエゴで開かれたトライアスロンのレースでは、最初のスイムで溺れかけたために(小学生のとき以来泳いでいなかった)、途中リタイア記録なしという屈辱を味わったが、それから水泳の猛特訓を始め、翌年のハワイ・アイアンマンでは3位に入賞した(ゴール目前で道端にいたバカがビールを差し出すものだから、2本も一気に飲み干したらぶっ倒れちまって、フィニッシュラインまで這っていく間に2人に抜かれたんだ)。
 ハワイ・アイアンマンが毎年参加人数を増やし、アメリカの各地でレースが行われるようになると、プロ・トライアスリートなるものが出現した。エドガーは早速プロになった。しかし、たいした収入は入ってこなかった。全米のスイマーやランナー、サイクリストたちからプロトライアスリートが続々誕生していた頃だ。スポーツドリンクやランニングシューズのメーカーからほんの少しでも金をもらい、ウェアにロゴをつけてレースに出れば、誰でもプロフェッショナルになれた。しかし、賞金とレース参加料とスポンサー料で食っていけるのはほんの一握りだった。80年代のレースの優勝はディヴ・スコット、スコット・ティンリー、スコット・モリーナ、マーク・アレンの四人に独占されていた。
 生活に困ったエドガーは海外、特に日本に新天地を求めた。日本でも各地でレースが開催されるようになっていた。莫大な貿易黒字で円が高騰していた頃だったから、円ベースの収入は非常に魅力的だった。そして何よりよかったのは、エドガーに勝てるようなアスリートがいないことだった。彼はあちこちの大会でぶっちぎりで優勝し、日本の電話会社やスポーツウェア・メーカー、食品メーカーから高額のスポンサー料を手に入れた。食品メーカーとは宇陀食品のことだ。

 宮古島大会でエドガーは大型冷蔵庫が平良市陸上競技場の貴賓席に置かれているのを見た。ゴール直後でのどが渇いていた彼は、階段を駆け上がって冷蔵庫を開こうとしたが、たちまち役員たちに取り押さえられた。疲れていたために小柄な日本人をはじき飛ばす力が残っていなかったのだ。
 そのとき冷蔵庫の横に座っているバラ色の肌をしたぶよぶよに太った男が眉の動きひとつで役員たちを下がらせた。三角形の大きな顔の下には二重にくびれたあごの肉が迫り出し、首のない肥満した胴体は白い麻のシャツとズボンに包まれていた。
「よかったら箱を開けてみたらどうだい?」とその肉の塊は強い訛りのある英語で言った。
 エドガーが扉を開けてみると、中には冷えたコカコーラやポカリスエットはなく、様々な太さの透明なビニールの管が複雑に交差し、白いプラスチック製のポンプや黄色い筒に血や黄色い液体を送り込んでいた。
「そこには僕の心臓と肺と腎臓と大腸と膀胱が詰まってるんだ。生まれつき病弱でね、次々と自分の臓器が壊死するものだから、冷蔵庫もこんな大きさになってしまった。今ではうんこもおしっこもプラスチックバッグに入って冷蔵庫から出てくるんだ」
 男のシャツとズボンには数カ所に穴があいていて、ビニールパイプが彼の体と冷蔵庫をつないでいた。冷蔵庫の上には大きな太陽電池、後ろには小型の発電器。横には肥満男がはめ込まれた大きな椅子。この肉の塊が宇陀食品5代目会長兼社長宇陀良順だった。会社では彼は自分のことをまるで他人のようにCEO(Chief Executive Officer最高経営責任者)と呼んでいた。役員や社員たちも彼のことをそう呼んでいた。
「今のCEOが即位されたのは……」「今日CEOが行幸され……」といった時代錯誤の用語法が、宇陀食品ではまかり通っている。
「おれは金がいるんだ」とエドガーは言った。
「いやだと言ったら?」とCEOは言った。
「このビニールパイプを引きちぎって、お前を血と糞と小便まみれにしてやる」
「わかった。しょうがないから金をやるよ」
 取引はあっさり成立した。エドガーはそれをまったく本気にしていなかったのだが、約束は守られた。宇陀食品は東京で彼とスポンサー契約を交わし、年1000万のスポンサー料と、核地球公園の近くにある宇陀家所有の空き地の借地権を与えることになった。その場にCEOはいなかったが、秘書室長がすべてを取り仕切っていた。
「日本人はすごいぜ。ボスの一言で万事がきっちり運んでいくんだ」とその日、彼はウィノナに言った。

 ウィノナはSUに嫉妬していた。感情を押し殺すことになれている彼女は黙々と家政婦のように家事をこなし、家畜の世話をするようにSUに食事を与え、排泄物の処理をしていたが、限界が近づいていた。
 エドガーはSUを支配するだけでなく、彼女の心を制服することに夢中になっていた。
 

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