イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

ドク書日記

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「西瓜糖の日々」は「アメリカの鱒釣り」「ビッグ・サーの南軍将軍」に続いて書かれた、ブローティガンの第3作。

〈西瓜糖〉Watermelon Sugarという名前のメルヘンちっくな架空世界のできごとをつづった、詩的な小説だ。そこでは住まいが〈西瓜糖〉でできている。夜になると西瓜糖鱒油で燃えるランタンに火をともす。

しかし、〈西瓜糖〉の世界は決して平穏な世界ではない。
主人公が住んでいるのは〈西瓜糖〉のアイデスiDEATHという不気味な名前の土地だ。

住民たちは元々狩人で、先住民だった虎を皆殺しにしたという過去を持っている。

主人公は妻のような恋人のような可愛らしい若い女と暮らしている。彼らは愛し合っているが、その生活にはどこかあやうくはかないムードがつきまとう。

アイデスのメルヘン的な暮らしに反抗して村を出ていった人たちもいる。
彼らはのんだくれて、汚らしいかっこうでだらしない生活をする。
そしてアイデスの人々の前でこれみよがしに自分たちの体を切り刻んで自殺してしまう。

〈西瓜糖〉の世界とはアメリカが、現代社会が達成した豊かな社会のことなのかもしれない。
その社会を運営する人々、その生活を享受する人々にとって、それは薄甘い幸福で作られた世界なのだが、そこには様々な闇がひそんでいる。

ブローティガンはそれを社会批判的にではなく、そこで現に生きている者の皮膚感覚で描いたのだ。

高橋源一郎が出版社から過激な処女作「ジョン・レノン対火星人」を拒絶されたとき、やさしさに満ちた第2作「さようなら、ギャングたち」を書くことができたのは、たぶんこの「西瓜糖の日々」のおかげだと思う。
それくらい「さようなら、ギャングたち」には「西瓜糖の日々」の影響が色濃く出ている。

今このブログに連載しているぼくの「空中庭園」も、その前に掲載した「ファミリー・キャンプ」も、〈西瓜糖〉のレンズで見ることによって描かれた世界だ。

ブローティガンはその後、闇の世界に少しずつ引き込まれ、1984年にピストル自殺してしまった。
しかし彼が残した〈西瓜糖〉は今も世界をのぞき見るためのレンズとして生き続けている。
いわばそれはブローティガンが自分の命を削ることによって磨き上げたレンズなのだ。
ぼくはそのレンズのくもりをとるため、今もときどき「西瓜糖の日々」のページをめくる。

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これぞ知られざるフランス。
グルメとファッションとアートの国ではない、もうひとつのフランスがそこにある。

セリーヌはもちろんフアッションブランドのセリーヌではない。
本名ルイ=フェルディナン・デトゥーシュ(1894-1961)。
貧民街の無料診療所の医師をしながら小説を書き、1932年38歳で初めて出版した自伝的小説「夜の果てへの旅」がベストセラーになり、一躍注目された。
「なしくずしの死」は1936年に出た第2作で、これも自伝的要素が強い。
「夜の果てへの旅」が青春時代の話だとすれば、これは少年時代を描いている。

19世紀から20世紀初頭にかけて、科学と経済がどんどん世の中を変えていく中で取り残され、貧困にあえぐ平凡な民衆を、ビートたけしの数千倍の毒舌で切りまくりながら語られる少年時代。
言葉はどんどん切れ切れになり、心の奥底からの叫びとなってほとばしり、社会の矛盾と人間の醜さをあばきたてながら、どんな前衛文学もとらえられなかった真実を紡ぎ出す。

当時フランスの知識人の多くが左翼になったのに対して、セリーヌは貧困の正体を知り尽くしているがゆえに、彼らと正反対の方向に突き進んだ。
そのあげくナチスの反ユダヤキャンペーンに荷担し、第二次大戦末期、連合軍がパリに迫ったときはドイツ軍の敗走を追うようにドイツへ逃亡する。

その反左翼的、反進歩的思想のために、晩年はフランス文学界から無視され、孤独の内に死んだ。
しかし、左翼や進歩的思想が行き詰まり、社会主義政権が次々崩壊した後の現在から見れば、セリーヌの中にこそ、普遍的な真実がある。

セリーヌはその後再評価が進み、日本でも全集が出版されている。
戦後の作品、ドイツに逃げたときの体験をもとに書かれた「城から城」などは、「夜の果てへの旅」「なしくずしの死」の世界をさらに押し広げ、人間と社会、国家を自在に描き出した傑作だ。

村上龍はかなり前からセリーヌを評価する発言をしているが、彼なども近未来の動乱を古くさい物語手法で書かずに、セリーヌみたいに書けば、もっとすごい作品を生み出すことができるのにという気がする。

言葉と物

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 エイズで死んだ(たぶん)フランスの思想家ミシェル・フーコーが1966年に発表した大作。
 アマチュア小説家がこんな小難しいもの読まなくてもと思うのだが、つい四苦八苦しながら読んでしまった。というのも、言葉を使って何かしようとする人間(まあ、広い意味ではどんな人でもそうなんだろうけど)にとって、結構重要な作品なんじゃないかという気がしたからだ。

 具体的には17世紀から19世紀初め頃までのヨーロッパで、言葉の機能がいろんな分野で同じような変化をしていることを論証しているだけなのだが、その背景には現代の我々にも関わるような問題が隠れている。

 おおざっぱに言えば、言葉とそれが指し示すものの関係は時代によって変化するもので、つまりは人間は自分で思いこんでいるよりもうかつな動物で、自分で気づいてない法則みたいなものに縛られているのだよといったことが語られているのだ。

 ぼくはずっとフーコーを漠然と新しいけど保守的な思想家なんじゃないかと思いこんでいたので、若い頃、17〜18世紀ヨーロッパの精神病と精神医療について書いた「狂気の歴史」と、おそろしく難解な「知の考古学」を読んでみたことはあるのだが、それ以来なんとなく敬遠してきた。

 たぶん最初にこの「言葉と物」を読んでいれば、もっとわかりやすかったのかもしれないのだが、それでも若い頃にこれを読んだとして正しく理解できたかどうかはあやしい。
 
 ぼくみたいなミーハーに誤解されやすかった原因はフーコー自身にもある。
 フーコーは「言葉と物」で、進歩的知識人のヒューマニズムを嘲笑っているからだ。

「奇妙なことに、人間は(中略)おそらくは、物の秩序のなかのあるひとつの裂け目、ともかくも、物の秩序が知のなかでとった新しい配置によって描き出された、ひとつの布置以外の何ものでもない。新しい人間主義のすべての幻想も、人間に関する、なかば実証的でなかば哲学的な一般的反省と見なされる「人間学」のあらゆる安易さも、そこから生まれてきている。それにしても人間は最近の発明にかかわるものであり、(中略)知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり、力づけであろうか」
 (「言葉と物ー人文科学の考古学ー」ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳 新潮社刊の「序」から)

 実存主義哲学者にして左翼だったジャン=ポール・サルトルはこの本を「ブルジョワジーがマルクスにたいしてつくりあげた最後の障害物」と批判した。

 しかし、ジョージ・ブッシュをはじめとして誰もがヒューマニズムに賛成しているはずの世の中で、相変わらず戦争による殺戮がなくならないのを見ていると、もしかしてフーコーのヒューマニズム批判にも一理あるんじゃないかという気がしてくる。

 少なくとも、人間が言葉で考え、話し、動く生き物である以上、もっと自分たちの考えの見えないからくりについて考えなければならないんじゃないかと思うのだ。

 ぼくより知的な人の中には、「そんなことずっと昔からわかってるんだよ。フーコーだけじゃなく、アルチューセルやラカンやドゥルーズやデリダもいろんなことを言ったけど、結局何も変わらなかったじゃないか。それが問題なんじゃないか」という人もいるだろう。

 そういう高感度人間はどうぞ先へお進みください。
 ただし、今度はお勉強するだけじゃなく、自分の頭で考えてね。

 ぼくはこの10年間、複数の価値基準をいったりきたりしながら進んでいく小説を書こうとしている。
 「文学」にしろ「エンターテインメント小説」にしろ、あるカプセルの中から外の世界をのぞくという仕組みでなりたっているものがほとんどなのだが、それがだんだん息苦しくなってきたからだ。

 現実の世界が複数の民族、国家、地方、企業、年代、性別によって、複数の価値基準で成り立っているように、ささやかでもいくつかの視点、価値基準を行き来する小説があれば、それはなかなか気持ちのいい読み物になるはずだ。
 残念ながら、そういう小説はまだ「実験的」な「文学」という特殊な分野にしか存在しない。

 そういうものを書いていると、フーコーを改めて読むことがとても新鮮に思えたりする。

You Bright and Risen Aygels

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 ウイリアム・ヴォルマンの、たぶんデビュー作か、あるいは処女長編。
 ぼくの知るかぎりでは、まだ翻訳は出ていない。ヴォルマンは10年以上前からものすごいパワーを持つ作家として噂が聞こえているのだが、マニアックな文学雑誌の特集号で断片的に翻訳が紹介されただけで、作品のまともな翻訳はひとつも出ていないんじゃないかと思う。

 中学程度の英語力しかないぼくとしては、論評するのも気が引けるのだが、このブログで紹介している「PELOTA」という小説を、この"You……"に刺激されて書いたくらいインパクトを感じたので、とりあえず紹介してみます。

 とにかくアメリカンコミックやらロールプレイングゲームっぽい世界を借りて、言葉の爆発力でつくりだしたなんでもありというのフィクションというしかない。
 登場人物たちは人間の若者なのだが、同時に虫のようでもあり、普通の学校に通ったり、仕事をしているかと思えば、RPGの登場人物みたいにSFっぽい世界に飛び出して冒険したりする。
 ヒーローやらヒロインやら悪党やら、キャラクター設定はあるのだが、それはただ展開を天衣無縫にするための仕掛けでしかない。いや、そんな仕組みすら逸脱して、この作品世界はひたすらめまぐるしく失踪し、拡大し、爆発する。
 こんなに自由奔放かつパワフルなのは、ぼくの英語力不足による読み間違いなんじゃないかと思ったほどだ(それはなきにしもあらずだけど)。

 「V」や「重力の虹」で巨大な権力機構とその影響力に翻弄される人間たちをものすごいスケール感で描いたトーマス・ピンチョンもぼくのあこがれだが、ピンチョンより20歳くらい若い1959年生まれのヴォルマンはたぶんピンチョンの影響を受けて成長した作家なのだろう。
 ピンチョンの世界が雄大な分だけ、広大で静的で硬質な未来の廃墟を思わせるのに対して、ポップ世代のヴォルマンにはもっと柔軟で快活な動きがある。

 若いうちから作家として成功したらしいヴォルマンは、作家としての人生経験しか持てないことに危機感を抱いたらしく、異常者たちがひしめくサンフランシスコの裏町で暮らしてみたり、戦時下のアフガニスタン(といっても、今回のアメリカではなく、ソ連に侵略された頃の)に潜入してみたりしている。島田雅彦や小林恭二が中年になっても、勉強部屋から出ないで書いているような感じがするのを見てもわかるように、どれだけ頭がよくて、文学的才能があっても、世界や他人との接触によってしか作家は書く動機を補充できないのだろう。

 "You……"以後のヴォルマンは、ヘンタイたちの生態を描いた短編集などを書いたあと、"Ice Shirts""Fathers and Crows"という、氷河期からはじまるアメリカの歴史みたいなものの連作を書いていたらしい。実を言うとずいぶん前からこの2冊はうちの本棚にあるのだが、2冊合わせて1200ページもあるので、なかなか読めないでいる。
 偶然なのだろうが、ピンチョン親方も同じ頃、"Mason & Dixon"という、アメリカ史をベースにした長編を書いている。これもしばらく前から本棚に鎮座ましましているが、そのうち翻訳が出たらそっちをまず読み、それから挑戦してみようなどと甘いことを考えているうちに、どんどん時がたってしまった。

 ピンチョンの場合、「重力の虹」と「ヴァインランド」を翻訳が出る前に英語で苦労して読み、さすがにむずかしくてよくわからんと思ったのが、翻訳が出て読んでみたらもっと茫洋とした印象で、ますますわからなかった覚えがある。
 たぶんこの手の言葉の喚起力で世界をでっちあげるタイプの作家は、翻訳が難しいのだろう。
 つまり翻訳など待っていないで、さっさと読むべしということだ。

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 「さようなら、ギャングたち」は高橋源一郎のデビュー作だが、「ジョン・レノン対火星人」はそれよりも先に書かれたらしい。当時としてはあまりに過激というか刺激的というか前衛的だったので、出版社に嫌われ、代わりに「ギャングたち」を書いて「群像」長編小説新人賞に応募し、めでたく受賞ということになったらしい。

 ぼくも1980年代にはあちこちの出版社に持ち込んだり、新人賞に応募したもので、そのうち数社からは「ここを直せ」「今度はこっちを直せ」とか、「ヘンタイが出てこないのはないのか?」「プロになりたかったら、まずセックス抜きで書けなきゃだめだ」とか、いろんなことを言われて、編集者たちの気に入るようなものを書いたり、彼らの言われるままに書き直したりしたのだが、結局どう書いても彼らを納得させることはできなかった。

 その点、高橋源一郎はさすがその後日本文学の新しい流れをリードする作家になるだけあって、そうした出版社の注文にも作品の質を落とさずに対応できたのだろう。

「火星人」はいわゆる文学性などかけらもない、ひたすらパワフルな言葉とイメージの祝祭だ。その奥には作者の学生運動とその挫折という経験から生まれた現実世界の過酷さ、理不尽さ、その呪縛から自由になるための苦闘が垣間見える。

「ギャングたち」はブローティガンの「西瓜糖の日々」を思わせるファンタジー的世界の日常生活を描いている。夢の世界はやさしさに満ちているが、同時に死と隣り合わせの危うさも秘めている。舞台装置の向こうには、「火星人」と同じ現実世界の過酷さ、理不尽さが口を開けて待っている。

 最近の文庫版の序文を読むと、作者としては「火星人」の方に愛着があるように思えるが、どちらも間違いなく日本の文学を変える力を持っている。

 この2冊の小説によって、日本人は初めてかっこいい国産の小説を手に入れたのだ。
 デビュー当時の石原慎太郎だってファンにはかっこよく見えたのかもしれないが、それはファッションの話だ。村上春樹も新しくておしゃれな小説で若い読者を魅了したが、これもファンの閉じた世界での話だ。ファンの数は村上春樹の方が高橋源一郎より圧倒的に多いかもしれないが、「ギャングたち」「火星人」には、独特の「なんとかワールド」とか「なんとか文学」を形成せず、ひたすら読み手の逃げ場を破壊し、現実世界に向き合わせるメカニズムがある。
 
 もちろんぼくは小説を娯楽読み物であると思っているし、村上春樹の小説もなかなか好きだ。
 少なくとも最近の若い作家たちの純文学や、文学っぽいエンターテインメントより読んでいて面白いと思う。
 しかし、ぼくが求める娯楽はあらかじめ決められたルールに基づくゲームではなく、こちらの存在を危うくするような仕組み、安全圏に逃げ込むための既成概念を破壊して、世界や他者と向き合わせてくれるような装置なのだ。

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