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「リトビネンコ暗殺」
アレックス・ゴールドファーブ&マリーナ・リトビネンコ著 加賀山卓朗訳 早川書房
元ロシア連邦保安庁の工作指揮官リトビネンコ中佐が、組織の謀略を内側から告発してイギリスに亡命し、2003年ロンドンで何ものかに強力な放射性物質を盛られて殺された事件は、新聞でも報道されたので知っていた。
しかし、この事件がどれだけロシアの抱える政治的な問題と深く関わっているのかは、この本を読むまでわからなかった。というより、ソ連崩壊後のロシアで何が起きていたのかを、この本で初めて概観できたというべきかもしれない。
1人の秘密工作員の死に至るまでの半生と並行して、ソ連崩壊以後のロシアの混迷、突然開かれた市場経済に登場したオリガルヒと呼ばれる新興財閥の政治関与、チェチェン紛争のボスニア紛争やイラク紛争にも劣らない残酷なジェノサイド、エリツィン政権からプーチン政権への移行と、ロシア的強権政治の舞台裏などが浮かび上がってくる。
リトビネンコはソ連邦末期のKGBに入り、ソ連崩壊と共にその後継機関であるFSB(ロシア連邦保安庁)工作員になった。チェチェン紛争で工作指揮官として活動したほか、常に政権の中枢と密接につながる様々な工作活動に関与していた。
しかし、その過程でエリツィン政権でハト派・改革派の代表だったオリガルヒ、ポリス・ベレゾフスキーと親密になり、ベレゾフスキーが次第に政権と対立するようになると、矛盾した立場に置かれるようになる。
FSBがベレゾフスキー暗殺を計画すると、リトビネンコは同僚たちとその謀略をマスコミに告発。FSBから命を狙われるようになり、妻子とイギリスへ亡命する。
そのFSB長官が今のロシア大統領プーチンであり、共産党勢力の反撃に対抗するためプーチンを口説いてエリツィンの後継者に推挙したのがリトビネンコの保護者であり、改革派のオリガルヒだったベレゾフスキーなのだから政治は複雑だ。やがてそのベレゾフスキーもプーチンとの対立が鮮明になり、イギリスに亡命することになる。
リトビネンコは放射性の猛毒を盛られて死ぬ直前に、プーチンを犯人と名指しする声明を残し、これは彼の死後すぐに発表された。これに対して、プーチン政権はこの暗殺をベレゾフスキーがロシアに汚名を着せるために行った謀略だとの声明を出した。政権と対立する政治家やジャーナリスト、元情報部員などが次々と暗殺されている事実に対しても、プーチン側はいちいちベレゾフスキーの謀略説で説明しようとする。しかし冷静に眺めているかぎり、一連の暗殺がプーチン側の邪魔物ばかりを対象にしている印象はぬぐえない。
もちろん、だからといってプーチン政権と対立する側が正義の味方というわけではない。
リトビネンコはチェチェン紛争などロシアの様々な謀略を指揮してきた工作員だし、ベレゾフスキーに代表されるオリガルヒは社会主義体制崩壊の真空状態を利用して巨万の富を得た政商だ。オリガルヒが健全な資本主義・自由主義経済の発展を阻害したという、政権側の非難にも一理ある。
しかし、オリガルヒを駆逐したプーチンがしたことは、テレビなどマスメディアの国による独占であり、強権政治の復活だった。一国の経営とはそれほど難しいものだと言ってしまえばそれまでだが、ロシアという国は帝政期・社会主義時代から一貫して、独裁による強権政治でしかおさまらない国なのだなという印象を受ける。皇帝・書記長・大統領と、役職の名前は変わっても、その役割は同じなのだ。
この本はリトビネンコの妻と、彼の亡命を助けた人権活動家アレックス・ゴールドファーブの共著だが、ゴールドファーブの一人称で書かれている。
ゴールドファーブはソ連時代の科学者・反体制活動家で、アメリカに亡命し、ソ連邦崩壊後はジョージ・ソロス財団のメンバーとして、ロシア社会の自由化につながる様々な活動を行ってきた。ベレゾフスキーと知り合ったのもこうした活動を通じてだが、ソロスがベレゾフスキーと合わず、ロシアという国に失望して援助を縮小したのを受けて、ゴールドファーブはソロスと別れて今はベレゾフスキーのロシア自由化をめざす団体で働いている。
つまりこの本は著者が反プーチン側の人間であることを頭に入れて読まなければいけないのだ。しかし、それを計算に入れたとしても、この本はとてもエキサイティングだし、ソ連崩壊後のロシアを理解する上でとても有益だ。
興味深いのは、エリツィン政権で活躍した政商のベレゾフスキーがユダヤ人の数学者だということ。学者がどうして自由化のチャンスをつかんだとたんに次々と国営企業を手に入れて何百億ドルという大金持ちになれたのか、政権の中枢で政治家としても活躍できたのか。それが何事も極端に走るロシアという国の面白さでもあるのだが、同時に「やっぱりユダヤ人か」という感想も浮かんできてしまう。
ヘッジファンドで巨万の富を築き、一国の中央銀行を破綻させるほどの影響力を持つジョージ・ソロスもユダヤ人だ。この本の著者もユダヤ人だ。
古代から故国を失い、世界中にネットワークを広げながら生きてきたユダヤ人には、ひとつの国や分野の固定観念にとらわれず、時代の変化をいち早く見抜いて考え行動する人たちが多い。金融のロスチャイルドや、今のアメリカを支配するモルガン以外の金融グループの創設者たち、カール・マルクス、アインシュタイン、コンピュータの基礎理論を考えたジョン・フォン・ノイマンなど、世界を変えた偉人たちにはユダヤ人が多い。
だから「やつらは何かうさんくさい秘密結社を作って秘密を独占している」というねたみや憎しみを伴う偏見も根強いのだが、ぼくは色々な問題や業績の核心にユダヤ人を発見するたびに、素直に驚き、畏敬の念と好奇心をもって彼らが何を考え、どのように行動したのか、その背景・根拠は何だったのかを知りたいと思う。
日本人にとって一番欠けているのがユダヤ的な視野の広さと独創性だからだ。
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