イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

ドク書日記

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偏った趣味によるブックレビュー
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「未来は長く続く」 ルイ・アルチューセル著 宮林 寛訳 河出書房新社刊

アルチューセルはマルクスを新しい視点から読み返した「マルクスのために」で
世界的に有名になった思想家だ。

その視点はフーコーやジャック・ラカンやレヴィ=ストロースなど
他の分野の思想家たちと共通点があると見られ、
60年代にはたしか「構造主義四天王」みたいに言われていた。

のちにフーコーもアルチューセルも、
自分は「構造主義者」ではないと語っているが。

アルチューセルは共産主義者でありながら共産党を批判し、
68年のパリの五月革命の頃は、
新左翼のリーダー、教祖のように見られていた。
日本で言えば吉本隆明みたいなものだ。

吉本は安直に他人のテキストにコメントするだけで
思想家を気取っていたが、
アルチューセルはどうだったんだろう?
「マルクスのために」を読んでいないのでわからない。

しかしこの「未来は長く続く」を読むかぎり、
フランスの思想家はやっぱり本気の度合いが違うという気がする。

この本は彼の自伝だが、始まり方は普通の自伝とあまりにも違っている。
アルチューセルが妻を殺してしまったところから始まっているのだ。
1980年、彼が62歳のときのできごとだ。

アルチューセルはかなり前から精神病をわずらっていた。
妻の殺害は病気の発作によるものだった。
だから監獄ではなく精神病院に入れられた。

1990年に病死するまでほとんど病院生活を送りながら、
この「未来は長く続く」を書き続けた。

彼は妻の殺害からさかのぼって、自分の人生を子どもの頃から語っていく。
家族関係にそもそも精神異常の根があり、
それを引きずって母親代わりのような女性と結婚したことで、
心の奥底の葛藤を夫婦関係に転化してしまったと彼は語っている。

自分では出来の悪い学生だったと言っているが、
その経歴は学問のエリートそのものだ。

Ecole Normale Superieure(日本では高等師範学校と訳されているが、日本の教育大学とはまるでちがう人文科学の超エリート校だ)を出て、そこの教授として活躍する。
先輩・後輩・教え子たちは思想界のスーパースターだ。

若い頃から共産党員だが、独自の思想を掘り下げていくにつれて、
次第に党と対立していく。
その過程を語る部分などは、自分の精神分析を人生に重ねてつづっていく部分と同様、
これが病人かと首をかしげるくらい見事だ。

最後の記述は痛々しい。
襲ってきた死のために突然途切れているからだ。

「当然ながらそれはマルクスに精通していたとは言いがたいライヒの世界を遠く離れ……」

これが彼の辞世の句になった。

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「ロクス・ソルス」 レーモン・ルーセル著 岡谷公二訳 ペヨトル工房刊

この本をここで推奨すべきなのかどうか、ぼくはちょっとためらいを覚える。
なぜならぼくはこの本を読んで面白いと感じたのではなく、
この本を読んで首をかしげ、フランソワ・カラデックの「レーモン・ルーセルの生涯」や、
ミシェル・フーコーの「レーモン・ルーセル」を読んで、
さらに首をかしげながらもいくらかのヒントを見つけ出し、
この本の面白さを想像するようになっただけだからだ。

ロクス・ソルスとはある金持ちの科学者の別荘の名前だ。
そこには世界中から集められた珍しいものが展示されている。
この本はそれをだらだらと紹介していく。
物語を期待する読者はいらだちしか感じない。

そこには物事の脈絡などないからだ。
ルーセルは言葉遊びの手法で文をつむいでいったらしい。
ひとつの言葉の駄洒落によって導き出された言葉が次の物事を左右していく手法。
おかげで次々の脈絡不明の物事が語られ、話の展開はとんでもない方向へ転々としていく。

フランス語で読めばそこに読み込まれた言葉遊びを楽しむことができるのかもしれない。
しかし、本はまったく売れなかったし、
文学界からは嘲笑されたというから、
フランス人でも理解できなかったのだろう。

理解できなかったというのは、ルーセルの手法がどういうものかわからなかったというのではなく、
そんなことに何の意味があるのかわからなかったということだ。
もちろん文学界の方が正しい。
そこには意味などないからだ。

ルーセルは言葉遊びがもたらす自由奔放な物事のつらなりを無邪気に楽しんだだけのように見える。
彼のアイドルはジュール・ヴェルヌだった。
SFの先駆者の奇想天外な冒険をルーセルはさらに推し進め、
言葉の作用だけでなしとげようとしたのだ。

おかげで血の汗をかく小人や血文字を書く雄鶏が登場したり、
タロットカードが音を奏で、
空飛ぶ水球の影が殺人をおかしたりする。

「アフリカの印象」という別の作品では「子牛の肺臓レール」などという、
どうイメージしていいかすらわからないものが登場したりする。

ミシェル・フーコーやミシェル・レリスなど、
言葉の達人たちはルーセルの言葉の威力を楽しんだ。
しかし、ルーセル自身はそれをただの言葉の作用で終わらせようとは考えなかった。
彼は「アフリカの印象」と「ロクス・ソルス」を演劇として上演している。

もちろん舞台化を引き受けてくれる業者はいなかったから、
莫大な経費を彼は自分で支払った。
プルースト同様、大金持ちの息子だったのだ。

劇はどちらも悪評と無視で迎えられた。
舞台の上にはカーニバルや見せ物小屋のような、
おかしな恰好をした人物たちや大道具・小道具があふれていたが、
言葉の洒落から生まれたそれらおとぎの世界を、
誰も面白いとは思わなかった。

言葉と物や現実世界がどんどん乖離していく現代ならまだしも、
まだ言葉と物が対応していることを疑わなかった時代の人々に、
言葉が物事を動かしていく手法を具現化した演劇は悪い冗談としか思えなかっただろう。

現代人のぼくでも「ロクス・ソルス」の翻訳されたテキストだけでは楽しめないのだから無理もない。

しかし、ぼくは気がつかないうちに自分がそれに近いことをやっていることに、
最近になって気づいた。
「PELOTA」のジェットコースターのような展開は、物事のなりゆきを追いかけていくのではなく、
ただ言葉を追いかけていくことで生まれた。
まだ書かれていない部分では、
たとえば江戸時代末期のペリー提督による日本征服という架空の日本史と、
コルテスによるアステカ帝国征服という歴史を、
ひとつのストーリーの展開が同時に兼ねているような話が出てくる。

ビートルズの「ノルウェーの森」Norwegian Wood の歌詞が、
ノルウェー産の木材の内装・家具でできた部屋に住んでいる女の子の話と、
ノルウェーの森に住んでいる鳥の話を兼ねているようなものだ。

こうした言葉の力だけによる奇想天外な小説を書こうと、あれこれ試しながら、
ぼくは本当はとても偉大らしいレーモン・ルーセルのテキストを、
ときどき首をかしげながら読んでいる。

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「夢をみた」 ジョナサン・ボロフスキー著 金沢一志訳 イッシ・プレス刊

ボロフスキーは東欧系(たしかポーランドかどこか)アメリカ人のアーティストだ。

1980年代に東京都美術館を借り切った大規模な個展が開かれた。
現役のアーティストとしては破格の待遇。

作品はノートにひたすら数字を書き連ねたのが
1メートルくらいの高さまで積み重ねられていたり、
エア・ホッケーの台や板でできた人形だったり、
木でできたダチョウの卵みたいなのがそこらに転がっていたり、
とにかく決まったジャンルのない、
自由奔放な表現の氾濫だった。

作品ひとつひとつに通し番号がついていた。
ノートに書き連ねた数字も、それ自体通し番号兼作品らしかった。
偏執狂的なカウントもある種の表現なのだ。

白い壁に手書きの文字と簡単な挿絵で、
様々な夢のことが語られているコーナーがあった。
夢のひとつひとつにも通し番号がついている。

すべて自分の見た夢らしい。
特にすごい夢というのはない。
たとえば「時計に文字を書き入れている夢を見た」というのがあり、
白い円盤に筆で5の文字を書き入れている挿絵が描かれている。

何本もの剣を突き立てられて死んでいる男の挿絵(なぜか男の体にはサンドイッチがのっていて、剣で串刺しにされている)には、
「寝ているあいだにこんなイメージが浮かんだ」とある。

「エリザベス・テーラーとうまいことやってる夢を見た」とか、
「ピカソより背が高いという夢を見た」とか、
「教会でマリファナを吸う夢を見た」とか、
ごく簡単なのも多い。

「赤いルビーをみつける夢を見た」というのもある。
ルビーはボロフスキーにとって重要なモチーフらしく、
この本の表紙になっている。
もちろんボロフスキーの絵だ。
展覧会にも巨大なルビーのオブジェが、特等席みたいな場所に飾ってあった。

だからなんだ?
と言いたくなるような表現ばかりだが、
ロマン主義とか写実主義とか印象はとかキュービズムとかフォービズムとか表現主義とか、
運動でくくれるような、
時代の動き、人間社会の反応が死に絶え、
人間もアーティストも孤立している今、
それでも何かを他人に伝えるとしたら、
こういうのもありなのではないか。

そんなことを考えながら、ぼくはときどきこの「夢をみた」を開く。

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「悲しき熱帯」 クロード・レヴィ=ストロース著 川田順造訳 中央公論社刊 上下2巻

構造人類学の始祖であり、構造主義の思想家でもあるレヴィ=ストロースが書いた構造人類学入門。
ソルボンヌで哲学を学んでいたレヴィ=ストロースが、どのようにして民族学者になっていったかを回想する自伝であり、地球上の様々な地域を訪れることで獲得した独自の視点に関するエッセーでもある。

人類社会の頂点に先進国=欧米の近代社会があり、それ以外の地域は白人に導かれる未開地域であるという、価値観の大前提を覆し、どの社会にもそれぞれのシステムが存在すること、異なる価値体系を比較したり、ひとつのシステムから別のシステムへと行ったり来たりすることによって、人間ははじめて地球レベルでの視座が獲得できることを教えてくれる本。

80年代あたりからのエスニックブームを経た我々には、けっこうしっくりくる考え方なのだが、今でも米英のイラク侵攻や、それと関連して聞こえてくる欧米中心的な意見などを見聞きしていると、まだまだ人類の道は険しいなという気がする。

それだけこの「悲しき熱帯」は、読むべき価値があるということだ。

レヴィ=ストロースという人は、自分が書いたものを一切読み返さない/読み返せない人だったらしく、原文はけっこう荒っぽいらしいが、川田順造の名訳のおかげもあって、読み物としても感動的な作品になっている。

上巻の表紙に使われている、頭に子猿をのせた少女(少年かもしれないけど)が可愛い。

パリ燃ゆ

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「パリ燃ゆ」大佛次郎著 朝日新聞社刊(朝日選書全4巻)

1870年、普仏戦争の敗戦をきっかけにパリで生まれた、史上初の社会主義政権パリ・コミューンの物語。

ノンフィクションだが、ナポレオン三世の大統領就任から近代パリ誕生のきっかけとなった市街地整備、プロシャとの確執から戦争に突入していく過程が克明に描かれ、政治家・軍人・芸術家・無名の市民・社会主義者たちなど、膨大な数の人物が躍動する一大絵巻になっている。

この本を読むと、現在のフランス社会、パリという都市がどのような紆余曲折を経て誕生したかを知ることができる。

モンマルトルの丘が当時は防衛軍の大砲が置かれた高台だったとか、目からウロコの事実もたくさんある。パリ・コミューンが鎮圧されたあと、そこには虐殺された人々の死体の山ができた。サクレクール寺院は彼らを弔うために建てられたごく新しい教会なのだ。

フランスを訪れたことのある人、これから訪れる人、行く予定がなくてもフランスに興味がある人にとって必読の書。
今新刊で手にはいるかどうかちょっと心配だが……。


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