イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

スペイン紀行2001

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6月10日 コルドバ2日目続き

アンダルシアの犬

 ユダヤ人街を抜け、コルドバの街を歩く。案の定、空にはたくさんの綿菓子型の雲が浮かび、ときどき日差しを遮ってくれる。スペインで初めての涼しさ。

 日曜日なので観光エリアの土産物屋やレストラン以外はほとんど休みだ。「ドンキホーテ」に出てくるという宿屋があるポトロ広場に出た。なんの変哲もない建物に、「セルバンテスうんぬん」という能書きをタイルに書いて壁にはめ込んである。建物の中庭に面してコルドバ美術館があった。いわゆるコルドバ派の絵を集めているというのだが、たいした特色もない宗教画を見てもなんのコメントもできない。やはり自分は少年時代に見た名画でなければ知性も感性もはたらかない素人なのだなと実感した。

 さらに街をうろついていると、いたるところに小さな広場があり、オレンジの木が茂っていたり、小さな噴水があったり、ベンチが置いてあったり、それぞれ特色を出している。広場によっては近所の家族が集まって椅子にすわり、ビールを飲みながら喋っていたりする。ちょっとお洒落して、町を散歩している家族もある。

 スペインに来て初めて犬を見た。町のあちこちで犬を散歩させる人を見かけるのは日曜日だからだろうか? アンダルシアの犬はおとなしい。しつけがきびしいのか、鎖をはずしている人が多いのだが、決して主人から離れないし、通りかかった他人にまとわりついたり吠えたりもしない。ファシスト政権に対しておとなしかったスペイン人のように、人間に対しておとなしいアンダルシアの犬。

 かなり前に見た若い頃のサルバドール・ダリとルイス・ブニュエルの共作「アンダルシアの犬」は犬が出てこない短編映画だ。その代わりに蟻や、陰毛の生えた手のひらや、かみそりで切られる眼球などが出てくる。20世紀初頭の、無邪気なシュールレアリスム。

 そういえばダリはピカソとちがってフランコ政権に背を向けず、スペインに暮らしたのではなかったか? 有名人だから特別扱いだったのかもしれないが、ニューヨークやパリにも住みながら、たしかフランス国境近くの町に広大な屋敷を構えていたはずだ。ファシストと仲良しのシュールレアリスト。

フランスのシュールレアリスト、特に詩人たちにはリベラルな人が多いが、不健康なアントナン・アルトーの作品などを読むと、この流派の人たちが内面の解放をめざしながら、無意識の領域に潜む魔物を解き放ってしまったことがわかる。

 20世紀の初めに、パリやベルリンでダダイズムが生まれたとき、既存の価値観の破壊、既存のルールからの解放はたしかに現実世界とつながりを持っていた。人々は互いにコミュニケーションを保ちながら、現実を変えようという健全な意識を共有することができた。

 ところが、ダダイズムの派生物として生まれたシュールレアリスムは、内面に向かうあまり、他者とのコミュニケーションを失い、人間を解放するどころか、深層心理というパンドラの箱を開け、人間のダークサイドに潜む抑圧的なシステムを解き放ったのだった。シュールレアリストは内面から出てきたものとして、幻想上の悪魔や神々をあがめた。それは一見目新しい芸術的な世界にも見えたが、実は人間の深層心理に潜むゆがみや傷の表現にすぎない。

スペイン紀行36

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ソロス

 インターネットで朝日新聞のサイトを見ていたら、ジョージ・ソロスがファンドの運用から引退するらしいというニュースが出ていた。

 ソロスはハンガリーが生んだ伝説的ユダヤ人のひとりだ。現在のコンピュータの基本構造を体系づけたジョン・フォン・ノイマン(ドイツの貴族みたいな名前を名乗っているが、彼の家系はブダペストの銀行家で、ロスチャイルド家が王家に金を貸した功績により爵位を授かったように、ハンガリー王家から貴族に列せられていた)や整数・素数の大家エルデシュをはじめとする数多くのハンガリー/ユダヤ系数学者たち、科学者たち。

 「回転ドアの後ろから入ってきて先に出ていけるのはブダペスト出身者だけだ」というジョークがある。また、「実は宇宙人の地球侵略はすでに始まってるんだ。彼らはハンガリー人になりすまして世界中で暗躍している」というジョークもある。こうしたジョークの根拠は、ハンガリーが世界に送り出したおびただしい天才ユダヤ人たちにある。

 80年代の終わりにスワップやオプションなど、デリバティブと呼ばれる新しい金融商品が知られだしたとき、僕は初めてジョージ・ソロスの名前を聞いたのだが、この「ソロス」というちょっと変わった名前、ゲルマン系でもスラブ系でもラテン系でもない独特の響きを持つからすぐにユダヤ人を連想した。
 
 こう書くとまるでナチスの残党みたいだが、もちろん別にユダヤ人に対してなにかふくむところがあるわけじゃない。ただ、アメリカの主要な金融資本のルーツがモルガンを除いてすべてユダヤ系だというのは、ちょっと経済に興味がある人間なら誰でも知っていることだし、なぜユダヤ人がこのように金融を支配できるのかについては誰でも興味を持っていると思う。

 デリバティブはもともと為替や金利の変動などの金融リスクをヘッジ(埋め合わせ)するために考え出された手法だが、ソロスはこれを積極的な投機に利用し、ヘッジファンドという名前で投資課から莫大な資金を集めて運用した。その額があまりに大きいため、一時はソロスの読みが当たるのか、ソロスが投じる巨額の資金の後を相場が追随してしまうのかわからないくらいの影響力を持っていた。そのためソロスは金融の妖怪と呼ばれるようになった。

 彼がナチスの手を逃れてハンガリーからイギリスに渡り、さらにニューヨークに移って証券会社のファンドマネジャーとして成功し、独立して独自のファンドを運営するようになったいきさつは、日本の雑誌にも紹介されたことがある。ちょっとグルジアのシュワルナゼ首相(元ソビエト外相)に似ているソロスは、母国ハンガリーの子供たちのために学校や教育基金を設立するなど慈善活動に熱心な人でもある。今回の引退も、慈善活動に専念したいためだそうだ。

 こんなことをわざわざ書くのは、ここコルドバにもイスラム教徒が支配した時代に多くのユダヤ人が住み、市の中心部に大きなユダヤ人街を形成していたからだ。トレドにも同じようなユダヤ人街があった。パリだろうがアムステルダムだろうがローマだろうが、かつてヨーロッパの大都市でユダヤ人街を持たなかった都市はない。どこにでも住み着き、しかもその土地に溶け込まず、自分たちの宗教と伝統を守り、固い結束によって生きるユダヤ人。

 彼らが最初に祖国を失ったのは紀元前7世紀(くらいだったかな?)、バビロニアのネブカドネザル二世によってイスラエルが滅ぼされ、ユダヤ人がバビロンに連行されてからだ。世界史の教科書にも出てきた(今はどうか知らないが、やはり今の中東情勢を見ていると、これは重要な史実だと思う)いわゆるバビロン捕囚。

 これを高校時代に習ったとき、僕はバビロンの強制収容所みたいなところに押し込められているユダヤ人を想像したのだが、実際には幽閉されていたわけではない。彼らはバビロニア国内の都市に自由に暮らし、商売することを許されていた。約50年後にこのバビロニアがペルシャに滅ぼされたときには、国中に支店網を持つユダヤ系の銀行が2つもあったという。恐るべきジューイッシュ・バンカーたち。彼らは昨日や今日金融商売を始めたわけじゃない。そのノウハウは筋金入りなのだ。

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6月10日 コルドバ2日目


雲とフラメンコ(続き) 

 歌はどこかイスラム諸国の宗教歌謡を思わせる。僕が愛してやまないパキスタンの歌手ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの神々しさには遠く及ばないものの、異なる宗教、異なる民俗の出会いから生まれた歌は、ひたすら力強く、のびやかで心地よい。芸術の条件が固有の独創性だとすれば、このフラメンコショーは芸術ではなく芸能にすぎないということになるのだろうが、別に芸能が芸術より劣るとはかぎらない。

 ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンが、伝統的な宗教歌謡を歌い続けながら、なぜイスラムの無数の歌手の中から突出して世界的な名声を獲得できたのかは、東アジアの無宗教男の僕にとってはひとつの謎だ。ヌスラットには芸術的な独創性があったのか? ほかのイスラム歌謡を数えるほどしか聴いていない僕にはそれすら判断できないのだが、知り合いの事務所で初めてヌスラットの歌を聴いたときの衝撃は、少年時代にジミ・ヘンドリクスのライブ・アルバムを聴いたときのそれに匹敵した。

 ヌスラットやジミ・ヘンドリクスは芸術なのか、それとも芸能なのか? そんなことはどうでもいい。ヌスラットの声が作り出す音の宇宙には1400年にわたって織りなされてきた無数のイスラム教徒たちによる生命の営みが凝縮されている。少なくともイスラム教となんの関わりもない人間にも、その壮大な宇宙は容易に感じ取れる。たぶん他のイスラム歌手とヌスラットの違いは、イスラム的なところにあるのではなく、宗教や風俗の壁を突き抜ける普遍性にあるのだろう。

 ジミ・ヘンドリクスのライブ演奏は、ときとしてあまりにたくさんのミスや凡庸なフレーズに満ちているし、音楽的な複雑さ、豊かさがあるわけではない。しかし、彼の演奏は、他のミュージシャンが作曲した曲でさえ、彼ならではの音楽に変えてしまう。

 それは1960年代のアメリカやイギリスの若者がほんの一瞬本気で信じた、人類の新しい可能性の象徴だったのだ。マーチン・ルーサー・キングの有名な「私には夢がある。私の子供たちと白人の子供たちが一緒に遊ぶという夢。かつての奴隷の子孫がかつての支配者の子孫と和解する夢__」という演説が、黒人だけでなく、多くの白人たちの心の壁を打ち砕く合い言葉になったように、ジミ・ヘンドリクスの演奏は人種差別撤廃とベトナム戦争反対を訴える当時の心ある人々にとって、今日では気恥ずかしくて誰も口にしなくなった愛や自由や平和をうたうテーマ曲だった。

 それは黒人として初めて「おれは最強だ、おれは美しい!」と叫んだカシアス・クレイ、のちのモハメド・アリの華麗なボクシングスタイルが、「おれは白人には文句があるが、ベトコンには文句はないぜ」と言って徴兵・ベトナム戦争参戦を拒否し、逮捕され、ボクサーとしての全盛期を監獄で過ごした彼の生き方と同様に、人々の心を揺り動かすシンボリックな力になったのとおなじだ。

 バラバラな人間の心をひとつの美しい方向へ結束させる力を、ほんのわずかな時期にせよ創り出すことほど価値のある仕事はない。60年代に少年時代を送った僕は、いまだにそう信じている。その後、誰もが自分のことしか考えない時代になり、金を稼ぐことと使うことしかしない社会の中にあって、それはもう一種の宗教的な信念みたいなものかもしれない。

 芸術ができあがったかたちそれ自体を鑑賞するだけのプログラムにすぎないとしたら、僕はあまり芸術というものに興味を感じない。僕がただ絵を見るだけでなく、その絵が生まれた時代の歴史に興味を持つのは、キング牧師が演説する映像やジミ・ヘンドリクスの演奏や、モハメド・アリのボクシングと饒舌なトークの背後にある、民衆の息づかい、その芸術を生み出した時代の鼓動を聞き分けることができるからだ。

 そうした土壌ぬきにして存在する純粋な芸術表現など、僕には何の役にも立たない。逆に、それを生み出す人間の生命力を垣間見せてくれるものなら、どんな大衆芸能だろうが、ある種の暴言だろうが、僕は理屈抜きで惹きつけられる。

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6月10日(日)

 雲とフラメンコ

 昨日の午後、スペインで初めて雲に太陽が隠れるのを見た。
 小さな雲だったが、ちぎれた綿菓子のように漂いながら、ほんの一瞬だけ太陽を隠した。初めて地面から、建物の凹凸から影が消え、すべてが黄土色のやわらかな光の中にくるまれた。

 色で言えばスペインは黒の国だ。建物の白や空の青や女のドレスの赤も、分厚い黒にふちどられて初めてスペインらしくなる。グレコやベラスケスやゴヤの絵も基調は黒だ。それは強烈な太陽の光が生み出す真っ黒な影のせいなのかもしれない。しかし、スペインにも曇りの日がある。太陽が隠れると黒は消え、やさしい色合いに満ちた別のスペインが現れる。

 ゆうべ初めてフラメンコを見た。
 夕食をとろうとレストランらしい建物の中庭に入っていったら、そこには小さなステージがあり、濃いブルーのテーブルクロスをかけた小さな丸テーブルと、木の枠に太い縄を張った小さな椅子がびっしり並んでいた。中庭の入り口にポスターが貼ってあり、フラメンコをやるらしい。引き返そうとしたら、事務室のような部屋にいた男に英語で声をかけられた。
「夜十時半からフラメンコをやるんです。席は予約でほぼ埋まってますが、ちょうどひとつだけいい場所に席があいてますよ。ひとつのテーブルに4人なんですが、そこは3人のグループがとっていて、椅子がひとつあいてるんです」
 そういえば、美術館と遺跡ばかり見て歩いて、闘牛もフラメンコも見てなかったなと思い、予約することにした。

 少し離れたところに手頃なレストランを見つけ、夕食をとっているあいだ、空を見ていると鱗雲が藍色の空を覆っているのが見えた。明日はついに40度の酷暑ともおさらばできるかもしれない。スペインにいるのはあと2日だけなのだが。この10日間、炎熱の中を夢遊病者のようにさまよってきたような気がする。アフリカと隣り合わせのスペインらしい天気を体験できたのはよかったのかもしれないが、さすがに体力は限界に来ている。

 フラメンコをやる中庭に戻ってみると、客が続々と入ってきて席を埋めているところだった。席の隙間をウエイターが飲み物の注文をとって歩く。1ドリンク付きで2800ペセタ、約1800円のフラメンコショー。

 観光地にありがちな、くたびれた芸人たちが惰性でやっているショーかと思ったら、予想に反してなかなかパワフルだ。ギター2人、歌手2人の歌と演奏に合わせて、女性ダンサー5人男性ダンサー1人が入れ替わり立ち替わりステージに上がっては踊り、約1時間半のあいだまったく飽きさせない。

 フラメンコを見るのは初めてだし、特に興味もないのだが、そんな僕でも思わず体が動き出しそうになるほどだった。芸術にとって肉体こそ最高の素材という感じがする。言語によるプログラムにすぎない文学は、それにくらべてなんとまあまだるっこしい表現様式だろう。
 この中庭でたぶん毎晩のようにやっているこのフラメンコは、特に独創的でもないのだろうが、それでも舞踊だけでなくギターや歌もふくめ、生身の体が本気で生命を絞り出す芸というのは、やすやすと民族の違いを超えて人の心をゆさぶるものだ。

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6月9日 コルドバ3

(またまたスペイン旅行記から脱線して、ポーランドや古代ローマの政治のことを語っています)

スッラ

 これまでフランコ=独裁者、ファシスト、極悪人みたいに単純な構図で語ってきたが、現実がそう単純でないことはよく知っている。フランコは一時ナチスと手を組んだし、内乱の際にゲルニカの町に無差別爆撃を行なったのもドイツ空軍だったが、第二次世界大戦では中立を守り、戦後はヨーロッパの中で孤立しながらも内政と経済を安定させた。

「もし、あのまま共産主義者がスペインを牛耳っていたらどうなっていただろうか?」とフランコ支持者は言うだろう。1936年に政権を握った共和派は必ずしも共産主義者ではなかったし、レーニンや毛沢東のように武力で権力を奪ったのでもなく、民主的な選挙で選ばれたのだが、たしかにあらゆる人間、あらゆる党派に自由を保証する民主主義という政体が、未成熟な社会を混乱させ、経済の衰退を招いたり、結局は共産主義者か軍国主義者に制圧されててしまうといったケースを、我々は歴史でたくさん目撃している。

「民衆派」として出発しながら結局は内乱の末に実質的な皇帝になってしまったローマのカエサルや、フランス革命軍の一下士官から成り上がって皇帝になってしまったナポレオン。軍閥から共産党まで包み込もうとして革命の混迷をどうすることもできなかった孫文と、この混乱をおさめようとした中国のフランコにあたる蒋介石、そして最終的に権力を握り、革命の名の下に数千万人を餓死させた毛沢東。

 古代ローマやフランスや中国など世界史の中枢をなす国々が、激しい混乱を避けにくいのに対して、スペインのような辺境の小国は、フランコのファシスト党のように厳格ではあるが凶暴ではない軍国主義者によって、混乱を最小限にくい止めたのだと保守的な人は言うかもしれない。たとえ混乱しようと、人間は自由であるべきであり、道を自ら選び、その責任を負うことで初めて本当に生きていると言えるというのが僕の考えだが、人生をパッケージツアーのように送りたがる人々がいるかぎり、これからも人間は自由をおびやかされつづけるだろう。

 70年代末、まだ社会主義政権下のポーランドで「連帯」の民主化運動が起こったとき、これを弾圧したヤルゼルスキは当時西側諸国から左翼ファシズムの権化のように非難されたが、ソビエトが崩壊し、「連帯」の議長だったワレサが大統領になった後も、ポーランドの経済・社会が混乱し、生活が少しも豊かにならないという不平不満が聞こえる中、ヤルゼルスキを再評価する意見も出てきている。

 彼が権力を握り、「連帯」を弾圧しなかったら、60年代末のプラハの春のようにソ連軍の介入を招き、事態はもっと悪くなっていただろうという。90年代に入って新聞のインタビューに応じたヤルゼルスキの話を聞くと、彼が軍国主義者でもファシストでもなく(少なくとも今は)、けっこう聡明な理性の人らしいことがわかる。新しい可能性を追求するイマジネーション豊かな人ではないのだが……

 フランコやヤルゼルスキのことを考えていて、古代ローマにもスッラという人物がいたことを思い出した。
 紀元前百年頃、ローマに民衆派というのが出てきて、元老院派と対立していた。貴族の合議機関である元老院に対して、民衆の権利を守ろうという動きはローマの歴史の中で何度も起きるのだが、そのつど元老院は制度の改革に応じたり、民衆派を暗殺したりして生き延びてきた。

 「民衆派」もローマの名門貴族だったりして、この対立が近代以降の民主化と必ずしもうまく重ならないので、いまひとつぴんと来ないのだが、とにかく従来の政体を守ろうとする元老院派の反発は強烈で、内乱を勝ち抜くため元老院派の頭目スッラは全会一致で独裁官に就任し、全権を掌握して民衆派のマリウスとその軍をうち破る。それだけでは安心できないので、スッラは民衆派の政治家たちをしらみつぶしに逮捕・処刑していった。

 若い頃のカエサルも民衆派の一員で、スッラの処刑リストに載っていたのだが、元老院派の中にカエサルを擁護する有力者が多く、スッラもしぶしぶ逮捕を見送ったという。そのとき彼がカエサルを指して「諸君には見えないだろうが、この若造の中には百人のマリウスが隠れているんだぞ」と言ったという話は有名だ。優れた人間は優れた才能を見抜くものだ。

 しかし、のちに軍事や政治や文学でその天才をいかんなく発揮するカエサルも、スッラが生きているあいだは身動きがとれず、ギリシャに逃げたりしてほとぼりをさましている。彼が歴史の表舞台に登場するのは、スッラが死に、執政官、スペイン総督を経て、ガリア(今のフランス)を征服してローマの英雄になってからだ。このときすでにカエサルは頭のはげあがった老人になっていた。

 スッラが守り抜いた元老院体制はカエサルの手によって骨抜きにされ、ローマは帝政に移行していく。初代皇帝はカエサルの養子アウグウトゥスだが、実質的な帝政の基礎は彼が築いたと考えていい。今でも英語の「シーザー」はローマ皇帝の別名であり、ドイツ語の「カイザー」もそこから来ている。「民衆派」が帝政を築いてしまう皮肉。

 カルタゴを滅ぼし、地中海世界の支配者となったローマは、かつてのような元老院による合議制による政治では効率が悪くなっていた。複数の国家の複合体である「帝国」には、ひとりで全権を握り、すべてをすばやく判断し、必要なら即座に軍事行動に移れる独裁官が必要だった。
 エンペラーの語源であるラテン語の「インペラートル」は、元々軍司令官にすぎない。現代から見れば過去の遺物にすぎない帝政だが、当時のローマでは時代の変化が求めた新しいシステムだった。

 貴族階級の既得権益に固執する元老院体制に対して、帝政は拡大する帝国の市民すべてに直接皇帝が責任を持つシステムでもある。あくまで皇帝が立派な人間であることを前提にしての話ではあるが、この意味で帝政は元老院体制より普遍的なシステムであり、ある意味で民主的というか、少なくとも元老院よりは民衆擁護的なシステムだったのだろう。すぐれた政治家だったスッラも、そうした新しいビジョンを持つだけのイマジネーションには恵まれていなかった。保守派とは常に想像力に欠ける人たちだ。

 しかし、歴史を読むかぎりスッラはなかなか魅力的な人物でもある。私利私欲を持たず、あらゆる政治闘争、軍事闘争を勝ち抜き、内乱がおさまると即座に独裁官の地位を元老院に返上し、一市民に戻った。密かにスッラを恨む人間も多かったが、彼は護衛もつけず、町中を友人たちと肩を組んで歩き、ちょっとでも悪態をつく人間がいると、その恐ろしい顔でにらみつけ、「おまえは誰にものを言っとるんじゃ?」とすごんだ。その長身と般若みたいな顔つきですごまれると、誰も二の句が継げなかったという。

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