イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

スペイン紀行2001

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6月9日 コルドバ2

メスキータ

 橋を引き返して大聖堂を見物。「大聖堂」「カテドラル」と書くと、いかにも西洋的だが、建物自体は完全にイスラムのモスクだ。それも中東の丸屋根モスクではなく、モロッコで見たのと同じ、四角い建物にピラミッド型の瓦屋根。国土回復後にサラセン人が築いた巨大なモスクの内部を改装してカトリックの大聖堂にしてしまったらしい。だからスペイン語でモスクを指す「メスキータ」という俗称で今でも呼ばれている。

 マドリッドからトレド、メリダ、セビージャと移動してくるにつれて、町はだんだんイスラム色が強くなり、このコルドバの旧市街は僕の目から見ればほぼ完全にイスラム風の町だ。それだけイスラム教徒の支配が長かった町であり、一時は北アフリカから南ヨーロッパにまたがるサラセン帝国ウマイヤ朝の中心都市として栄え、人口は百万人を超えたという。ルネッサンス以前はサラセンの方がヨーロッパより先進国だったから、ヨーロッパ、北アフリカを含めたエリアの中心地がここにあったと言ってもいい。ギリシャの文献もここに集まり、アリストテレスの著作はここからヨーロッパに広まったという。

 それよりさらに前、ローマ時代にはネロの家庭教師だった哲学者セネカがこのコルドバから出ている。半世紀のちに皇帝を輩出するこのスペインは、すでにこの頃から文化においても本国ローマに負けない地域になっていたようだ。

 大聖堂=メスキータの門をくぐると、まずオレンジの木が並ぶ広大な中庭。セビージャの大聖堂にも同じような中庭があったが、それでもまわりの建物がかなり西欧的だったから、大聖堂としてそれほど不自然ではなかったが、このメスキータは建物全体がモスクそのものだ。中にはいるとそこは何百本もの柱と、赤白のアーチが果てしなくつづく広大な暗がりで、かつてはそこで膨大な数のイスラム教徒がメッカに向かって祈ったのだろう。周囲の壁に沿って歩いていくと、何十もの小礼拝室や宝物室が並んでいて、ここがカトリックの世界であることを思い出させる。

 広大な空間の中央には大きな祭壇。しかし、天井の高さがないため、セビージャの大聖堂のような迫力はない。あくまでイスラムの空間にリフォームを施しただけのささやかなカトリック世界。
 国土回復後、家臣にだまされて、このモスクのカトリック的改修を許可した国王も、このありさまを見て「せっかくの貴重な建築物にろくでもないものをとってつけやがって」と怒ったらしい。不寛容で独善的なカトリック教徒の中では、寛大で正常な感覚の持ち主だったようだ。このメスキータを見ていると、どこか救われた気がするのは、心の狭いキリスト教徒にもささやかながら異文化を受け入れる柔軟さがあったらしいことがうかがえるからだ。

 ウマイヤ朝時代、このコルドバにはイスラム教徒とキリスト教徒、そしてユダヤ教徒が共存しながら、都市の繁栄を謳歌していた。キリスト教徒は国土回復後、異教徒との共存を拒み、この町から追い出してしまったのだが、それでも美しいもの、優れた文化までは抹殺せず、その保存に努めたのだった。しかし異教徒が去った町は衰退し、一地方都市に落ちぶれ、現在でも人口は30万にすぎない。異質なものを拒む民族は発展しない。異質なものとの融合によってしか、新しい文化は生まれない。このコルドバはそうした歴史的真実のタイムカプセルなのだ。

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6月9日 コルドバ

カナリア化反対

 コルドバに意外と早く着いたのはいいが、週末ということで心配なのはホテル探しだった。セビージャほど大都市でもないし、グラナダほど有名な観光地でもないので、ガイドブックには数軒しかホテルが載っていない。しかもあまり馬鹿高くなくてエアコン、バス、電話付きという条件を満たしそうなホテルは一軒しかない。

 まず、駅からタクシーでそこに行き、満室なら観光案内所でリストをもらって探そうという作戦だったが、めざしたホテルは案の定一杯だったものの、そこは大聖堂のそばで、あたりにはホテルがたくさんあり、すぐ隣にやや高いけれども(それでも7500円だ)条件にかなった部屋が見つかった。朝から駅の中を歩いただけで、屋外はほとんど一歩も歩かずに移動完了。早速市内見物に出かける。

 まず目の前の川にかかった橋がローマ時代の橋だという。見ると車がびゅんびゅん走っている。さすがローマン・テクノロジーと感心したが、川を渡って橋脚をよく見ると、かなり修復されている。やはりローマ時代そのままでは無理なのだ。

 川を渡ったところに建っているのはイスラム教徒が築いた見張りの塔。市内側にはローマっぽい石の門が建っている。最初に訪ねたホテルの名前が「エル・トリウンフォ」(英語的に言うとトライアンフ)だったから、たぶん凱旋門なのだろう。

 川の岸壁には、

RIOS VIVOS
NO CANALIZATION

とペンキで書かれている。1行目は「川は生きている」、2行目は「カナリア化反対」ではなく、たぶんカナル=運河で、「運河建設反対」なのだろう。この国に来て政治的スローガンらしきものを初めて見た。

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6月9日 セビージャ〜コルドバ2

ビバ!マリア

 スペインではバスの窓から、あるいは町の近郊を歩いているときに、たびたび線路を目にしてきたが、列車が走っているのを見たのはメリダの町はずれだけだ。線路はほとんどが単線で、地方の駅は公衆トイレのような駅舎があるだけ。1日数本しか列車が通らないんじゃないかという感じのところが多かった。

 トレド−メリダ間は線路が通っていなくて、鉄道を利用するとなると、一度マドリッドに戻ってかなり遠回りをしなければならない。近代化が遅れたスペインでは、インフラ整備が手軽な長距離バスの方が普及しているようだ。

 スペインの鉄道といえば、ロジェ・バディム(フランスの映画監督)の「ビバ!マリア」を思い出す。ジャンヌ・モローとまだ若い頃のブリジッド・バルドー演じるふたりのマリアが、酒場の女だか旅のサーカス団の女だかで、ひょんなことから革命騒ぎに巻き込まれ、列車に乗って移動しながら、町を次々と圧制者から解放していくという物語。

 すっかり有名になったふたりの女が機関車の先頭に立ち、民衆の歓呼に迎えられながら進軍していく場面が印象的だ。この革命運動がいつ頃の話で(機関車のデザインからすると、19世紀末から20世紀初頭じゃないかと思うが)、どのくらい史実に基づいているのかわからないが、メキシコの1915年の革命では、実際にパンチョ・ビジャひきいる革命軍が列車でメキシコ北部を移動しながら戦闘を繰り広げている様子を、ジョン・リード(ロシアの10月革命をリポートしたジャーナリスト)が「反乱するメキシコ」で描いている。

 映画「ビバ!マリア」とこのルポルタージュ「反乱するメキシコ」のおかげで、スペイン、メキシコの鉄道と革命軍というイメージが僕の頭の中ですっかりできあがってしまっている。
 フランコ政権下で鉄道が発展しなかったのは、もしかして革命を伝播する手段としての鉄道という歴史と何か関わりがあるのだろうか?

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6月9日 セビージャ(セビリア)〜コルドバ


(スペインの新幹線AVEでセビージャからコルドバに向かいます。2001年の旅なので通貨はまだペセタです)

新幹線

 今朝、ホテルの部屋に貼ってある料金表をなにげなく見ていたら、セビージャの大祭がある4月末から5月初旬が一番高いのは当然として、一番安い期間は2月、7月、8月となっている。どうも真夏がハイシーズンというわけではないようだ。まあ、6月上旬でこの暑さだから、真夏になったらとても外を歩けないのかもしれない。どうもセビージャの旧市街に白人の観光客、特にスペイン人があふれていると思ったら、彼らにとってはバカンスシーズンに海外から観光客が押し寄せてくる前に旅行しようということなのだろう。あちこちの町でホテル、特に安くて設備が充実しているところが満室になっているのは、そういう国内旅行組向けのホテルから埋まっていくということか。設備はそれほどでもないのにちょっと高めの三つ星ホテルに行くと、案外あっさり部屋がとれてしまうのはそのせいだろう。

 ホテルで9時までに朝食をすませ、9時半にチェックアウトし、大聖堂横のタクシー乗り場でタクシーに乗り、国鉄の駅に9時45分に到着。切符売り場でコルドバに行きたいのだけどと言ったら、10時のAVE(新幹線みたいなもの。「アヴェ」と発音する)があると言われ、120kmくらいの距離で2800ペセタと少々高めだが(バスの3倍くらい。でも日本円で1800円くらいと考えればまあ安いか)、時間の節約になるのでこれに飛び乗る。10時41分にはコルドバに着いてしまった。電光石火の移動。トレドからタラヴェラ、トルヒージョ、メリダ、セビージャのもたもたしたバスの旅がはるか昔のように感じられる。

 AVEは1992年、バルセロナオリンピックの年に開通した超特急で、今のところマドリッド−セビージャ間しか走っていない。どうせならバルセロナの方が町としては大きいし、せっかくオリンピックを開くのだからマドリッド−バルセロナに通せばいいのだが、国としては独立色の強いバルセロナおよびカタルーニャ地方(このエリアはギリシャ人の植民地を起源としていると言われ、勤勉な土地柄もスペインの中では異色で、独自の言語を持ち、独立運動も根強い)よりは、いかにもスペインらしいセビージャ、コルドバおよびアンダルシア地方の方が可愛いということかもしれない。

 しかしまあ、日本の新幹線もしばらくは東京−大阪だけだったのだし、フランスのTGVも、70年代にはパリ−リヨン−マルセイユくらいしか走っていなかったのが、90年代にはフランスの主要都市すべてを結ぶようになったのだから、AVE網もそのうち広がるのかもしれない。なにせフランコが死んだのが1975年で、民主化・近代化が始まったのが70年代末から80年代だから、インフラの整備にもう少し時間がかかるとしても無理はない。

 AVEの車両は白にブルーを基調としていて、鼻先はどちらかというとあひるのくちばし型の新幹線に似ている。座席は左右2列ずつだが前後が狭く、やや窮屈な感じがする。ところどころ向かい合った席があり、日本の列車のように回転するのか、それとも最初からそういう造りなのかよくわからないが、電気スタンドのついたテーブルがセットされていて、おじさんおばさんのグループがわいわい騒いでいて実にうるさい。そもそもスペイン人はわめくように喋るし、8人いるとそのうち常時6人くらいが同時に喋っているので、あれでよく話が通じると感心する。
 AVEの乗り心地はまるでゴムのタイヤをはいているようにスムーズで、線路の継ぎ目をまったく感じさせないのだが、せっかくの静かな走りも、前にいるグループの大騒ぎで台無しだ。

(昨日アップした「ハンニバル」に関する補足。帰国後判明した細かい間違いの修正など)

ハンニバルの末路

 カルタゴのザマでスキピオに破れたハンニバルが、その直後に国外に逃亡したように書いたのはまちがいで、彼は敗戦後6年間カルタゴに留まり、祖国の経済復興の指揮をとったらしい。ザマの敗戦にもかかわりずハンニバルがカルタゴの指導者であり続けたのは、彼の人望が厚かったからでもあるだろうが、軍略家としてはともかく政治家としての実績があったわけでもないのだから、カルタゴにはほかにたいした人物がいなかったのかもしれない。

 ハンニバルがカルタゴを逃げ出したのは、彼の政策に不満を持ったカルタゴの政治家たちが、「ハンニバルはシリア王と内通している」とローマに訴え、ローマ側が調査団を派遣してきたためだった。このとき彼はシリアに逃げている(日記には「パルティアかな?」と書いたが、これもまちがい)から、内通は事実だったのかもしれない。
 ハンニバルはこのとき51歳になっていた。

 それからの5年間、彼はシリア王アンティオコスに抱えられ、雇われ将軍として過ごす。
 シリアはこの時期、ギリシャのマケドニアとのもめごとに介入してきたローマと戦争状態にあったが、ハンニバルは過去の実績を買われて、司令官として雇われたのだった。
 しかし自分の独創的なアイデアを自由に活かすことができたイタリア時代と違って、彼の提案は凡庸だったシリア王に理解されず、あまりいい条件で戦えなかったため、戦績はぱっとしない。

 ロードス海戦の指揮を任されたものの、海戦に慣れていたかったためか、部下が彼のいうとおり動いてくれなかったためか、あっさり負けてしまった。
 続いておこなわれた陸上での戦闘は、ローマ側の司令官がスキピオで、名将どうしの対戦が久々実現するところだったが、健康を害していたスキピオは結局戦場に出られず、ハンニバルもアンティオコスの信頼を失って司令官の任を解かれてしまったため、お流れになった。
 結局、軍略家として無能なアンティオコスはローマの倍以上の軍勢を投じながら、スキピオのいないローマ軍に破れ、東地中海における覇権を失ってしまう。
 勝ったローマ側がアンティオコスに示した講和の条件には、危険人物であるハンニバルの引き渡しが含まれていた。それを見越していたハンニバルは、黒海沿岸の小国ビティニアに逃亡する。そこで彼がどんな暮らし方をしたのかはよくわからない。つまらないことでも長々と書き連ねる塩野七生でさえ書いていないのだから、きっと資料に残ってないのだろう。

 ハンニバルの死に方だけはわかっている。ローマ軍の一隊長が、本国から命令を受けたわけでもないのに、手柄ほしさにビティニア王にハンニバルの引き渡しを要求した。小国の王はローマに逆らうわけにもいかず、困り果て、それを察したハンニバルは若い頃から肌身離さず持っていた毒をあおって死んだ。享年64歳。

 同じ年、イタリアでスキピオも死んでいる。ハンニバルより一回り年下だったというから52歳。
 ハンニバルからローマを守り、英雄となったスキピオも、後半生は不幸だったらしい。それほど丈夫な体質でなかったためか、40台から病気がちだったし、ローマでは貴族たちから成功をねたまれ、ささいなことで言いがかりをつけられて裁判にかけられてしまう。
 怒ったスキピオは「誰のおかげで今のローマがあると思ってるんだ!」といった趣旨の演説をぶちあげて、なんとか窮地は脱したが、政治に嫌気がさして引退してしまう。政治の舞台ローマから離れた別荘で、スキピオはさみしく息を引き取った。

 歴史を面白くいろどるのは英雄たちだが、最後に生き残り、英雄がもたらした恩恵を享受するのは、いつも凡庸な一般人たちだ。それが現実というものだし、そうした現実を受け入れるのはとても大切なことだと思う。


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