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ロックがなくてもロールがあるぜ!って感じですけど(どんな感じじゃ)、「捨ててこそ」という言葉通り、死後はなんにも残さなかったというのもロック。そういう意味で上人と呼ばれるお坊さんの中では一番親近感があるお人です。
この本はその一遍上人の評伝。文章がまたロックでねえ、ロクでもないんですよ。
そのひらがなばっかな踊りくねった文章にはシビれました。
とりあえず手に取ってご覧くださいとしか言えないのですが(ちなみにワタシは作者のことなんにも知りません)、一番心を動かされたのは「おわりに」にある空也上人のお話でした。一遍じゃないんかい!
いや、一遍上人の評伝も凄く良かったんですけど、短いエピソードながら空也上人が踊り念仏を始めるきっかけとなった話が感動的だったので、そこを引用させていただきます。
しかし、このシカの角ってなんなんだろう。そうおもってると、かなりくわしく解説がかいてあった。みんなで食いいるようにむさぼりよんだ。こうかいてある。 ルイ先輩!!!
ルイ先輩は関係ないだろ。とまあ、こんな調子で一遍上人のことも描かれているのですが、一遍上人はお坊さんなのに余裕で厳島神社とか、お寺のみならず神社にもガンガン行ってきて踊り念仏しちゃう融通無碍さもまたすばら。廃仏毀釈クソ食らえ。中世はすげえやと改めて思う今日この頃です。終わり。
P.S.
この本は今年の6月に出たばかりですので、本屋さんに赴けば普通に新刊コーナーに置いてあります、すげえ! 流行に乗ってやったぜ!
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読み物部屋
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適当な時間潰しになれればいいなあと
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えー基本賽の目は漢字が大好きな人間でございまして、本当はこのブログも漢字だらけの記事を書きたいくらいなんですが、悲しいかな致命的に語彙が乏しいので叶わぬ夢なのです。なんもかんも高校の国語の教科書に載ってた山月記(中島敦)のせい。
そんなワタシですが、近頃 「たどたどしく声に出して読む歎異抄」(伊藤比呂美)という本を読み、ひらがなの底力みたいなものに今更ながら驚嘆してしまいました。
本のタイトル通り、歎異抄を口語訳したものですが、ひらがな主体で訳された言葉が、なんというんでしょうか、石のような物質性をもって心にぶつかってくる感じです。ひらがな凄いわー。
詩人だからこそ為せる業なのでしょうが、特に和讃の訳(うみのうた)が素晴らしかったです。原文の和讃は難しい漢字ばかりで歯が立たないのですが(本当に漢字好きなの?)、うん、これなら分かるぞ!
ということで、そこだけちょっと引用したいと思います。
和讃 うみのうた 「南無阿弥陀仏」と「なむあみだぶつ」はこんなに違うのだということに改めて驚いてしまうのですが、ひらがなにすると印象がだいぶ変わりますね。うーん平仮名を発明したご先祖様は偉いなあ。
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「この愛は、異端。」(森山絵凪)、面白いですね。「シノハユ」(五十嵐あぐり)10巻の特典ブックカバーもすばらでしたげど、それは今は関係なく、ブックオフで立ち読みしてたんですが、面白くて買ってしまいましたよ。
異端っていうタイトルと、すごい絵力の表紙だなあと、覚えず手に取ってみたのですが、大当たりでしたよ。まあ、内容はヤングアニマル増刊嵐で連載してるだけあって、一口に申し上げましてエロマンガなんですが、ヒロインと契約した悪魔との恋愛関係が展開が進むにつれてシリアスになってきまして(ネタバレ!)、こっからどうなるんだろうなあと惹き込まれていくばかりです。
同じく白泉社から出ている「あそびあそばせ」(涼川りん)も、エイちゃんっぽいキャラが出てくるというので(またかよ)、軽い気持ちで読んでみたのですが、2巻で香純さんの「ガ…ガッチンって…ガッチン…するんです…」で吹いてしまってダメでした。なんだよガッチンって! ええい立ち読みしてる場合じゃねえ! 賽の目手帖は下ネタNGの上品なブログです。
と、大変面白かったので感想書きたいなーとも思ってたのですが、これアニメ化されるほど人気作品だったんですよ、マジで!? 作風的に絶対人を選ぶ作品だから売れてるなんて予想もしてなかったですよ。これじゃ人気作品に便乗してるみたいじゃないの…! とヘンな自意識過剰でなかなか言えませんでした、やあねえ。
ええと、それはともかく、「この愛は、異端」はまだ2巻までしか出てなかったので、他になにか描いてないかなーと調べてみたところ、「モンテ・クリスト伯爵」をコミカライズされてたんですねえ。なるほどー、そういうのがお好きなんですなあ。
モンテ・クリストって作品は名前は知ってても未読で内容は全然知らなかったので、勉強になりました。なんか火曜サスペンス劇場を見てるような復讐劇でしたが、こういうのの源になってるんでしょうねえ。こちらも絵力が素晴らしかったです。
…と、ここまでが前フリです、長いわ! すみません、久々の更新で加減が分からなくて…。前回の続きと言うことで2ヶ月近く間が空いてしまいましたが、これはちゃんと感想を書かないと!
江戸時代といえば、パックス・トクガワーナが実現し、対外戦争を二百数十年間に渡り絶えてなくなった偉大な時代とも言えますが、その平和な時代にあって、果たして「兵学」は、いかなる存在理由を見出せるのか、という大変興味深い内容となっております。
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こちらの記事の続きみたいなものです。
「言われる」ことの正しさではなく「言う」ことの正しさを、というテーゼに深く心を動かされたのですが、前者はつまるところ「揚げ足取り」というもので、そんなのはどうでもよく、後者の正しさをこそしっかりと問うていかなければならない、そういうことだろうと、やや牽強付会な解釈をしました(笑)
「言う」ことの正しさは論証不能であり、その根拠は自身の裡にある。そこだけを見つめれば良いのであって、それ以外は余計だ。
論語にある「一を以って之を貫く」というのはそういうことじゃないかなと。「一」がなんなのかというのは問わなくていい。ただそれが在ることを信じて貫けば良い。
こう、言葉にしてしまうとどうしようもなく薄っぺらくなってしまうのは、ひとえにワタシの人間の浅薄さゆえなのでございますが、上野修さんの「スピノザ『神学政治論』を読む」を読んで、今まで漠然と思ってた正しさというものの正しい追い求め方と言うのでしょうか、こういう道筋でいいんだみたいな、眼前の景色がぱあっと明るくなる思いでした。
結局、こういうのは自分自身がひとつずつ納得して押し進めていくしかないんだなあと。これ以上言葉にすると果てしなくチープになっていくばかりですので、もう止めます〜。
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あらためて、われわれの問いを定式化してみよう。
スピノザの「神即自然」は啓示宗教の語る神ではない。その哲学者スピノザが、「無知な」預言者の「真理ならざる」啓示の教えを、「心的確実性」において、「真なるもの」として受け入れる、とは、いったいどういうことか?
(中略)
「真なるもの」として受け入れるとスピノザが言うのは、それゆえ<言われていること>の真理性ではない。とすれば何か。われわれはすでにそのヒントを考察から得ている。それは集団的な言語実践態における<言う>ことの正しさである。
スピノザは、証明不可能な教義を受け入れるのは「盲目的な理性を欠く」行為ではないかという疑問に答えて、こう言っている。たしかに証明不可能である。だがそれにもかかわらず、「われわれは啓示されたこの基礎をいま、少なくとも心的確信において受け入れるために、自分自身の判断力を用いることができる」。いかなる判断か。
それは預言の倫理的な正しさに関して預言者たちの得た、その確信についての、われわれの側からする判断である。預言者たちは「愛と正義とを何ものにもまして薦め、これ以外の何も意図していないことをわれわれは見ている」。
そこから「彼らは人々が服従と信仰とによって幸せになるということを、欺瞞によってではなく、本心から教えたのだとわれわれは結論する」。 それに彼らは「そうした教えをしるしによって確信した以上、ただわけもなしにそんなことを言ったのではないし、預言しているときに気が狂っていたわけでもないとわれわれは納得する」。
要するに、かく<言う>ことが倫理的に正しいと預言者自らが確信せざるを得なかった、その同じ正しさを、同じ確信の程度において受け入れるとスピノザは言っているのである。
実際、その正しさは、<経験の言語ゲーム>における集団的な使用そのものによって、あらゆる改竄に抗する力を持ってきた。あらためて引用する。
「神を何ものにもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛する」。
かく<言う>ことの抗しがたい正しさ。伝承と解釈・編纂の長い歴史のなかで、その集団的使用が意味の改竄を許さなかった<言う>ことの正しさ。
まさにその正しさを「真なるもの」として「健全な判断によって受け入れる」。これがスピノザ預言論のロジックに他ならない。
それゆえ、預言者たちの<言う>ことの正しさについて、スピノザは心から受け入れる。理性なしに盲目的にそうするのではない。
スピノザは哲学者として、その正しさ、すなわち正義と愛を薦める正しさが理性にかなっていることを知っている。「彼らが教えた道徳的事柄で理性にまったく一致しないようなものは何もない」。
たしかに『エチカ』の賢者も、自らの「真の倫理学」に基づいて同じ正しさを、今度は「数学的確信」でもって把握するだろう。しかしだからといって、哲学者の理性的確信が預言の正しさを証明したり、根拠づけたりするのではないし、またそうすべきではない。
その根拠や証明は、預言者の預言的確実性を支えているものとは別だからである。スピノザの言う「一致」は、われわれがかつて別の機会に論じたように、預言と哲学的理性という互いに見知らぬ者どうしの遭遇、妥協も照応関係もない外的な一致にすぎない。
(中略)
こうして哲学者は、啓示が語る救いの真偽については一切口を出さず、しかも「心的確実性」においてそれを「真なるもの」として受け入れる。
それは、多くの論者たちが想像したような用心や策略からではないし、またキリスト教的ヒューマニズムからでもない。
「真なるもの」を根拠付けなしに循環させる「群集」の言語的実践の実定性が(言い換えればスピノザの絶対的な自然としての神の力能が)、そうするように命じ、義務づけるのである。
このような受諾によって、哲学者は自らの真理への愛を放棄しないで<敬虔の言語ゲーム>のなかに身を置き入れるだろう。そこは理性の教えと預言者の教えが、<言う>こと(愛と正義をなせ)の正しさにおいて一致する場、<言う>ことの「真なるもの」が証明抜きで一致し続ける場である。
スピノザに関する伝記的資料のひとつは、こうした哲学者の一面を伝えている。いま一度引用しておこう。
第二部第2章「預言の確実性をめぐって」からの引用です。
論証部分を大分端折ってますので、上記の本を読むことをお薦めします(笑)
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