ここから本文です

書庫読み物部屋

適当な時間潰しになれればいいなあと
記事検索
検索

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]

イメージ 1


一遍上人って言いますと、踊り念仏の人で、人々を救うために踊って踊って踊りまくったというイメージで、なんというかロックですよね

ロックがなくてもロールがあるぜ!って感じですけど(どんな感じじゃ)、「捨ててこそ」という言葉通り、死後はなんにも残さなかったというのもロック。そういう意味で上人と呼ばれるお坊さんの中では一番親近感があるお人です。

この本はその一遍上人の評伝。文章がまたロックでねえ、ロクでもないんですよ。
そのひらがなばっかな踊りくねった文章にはシビれました。

とりあえず手に取ってご覧くださいとしか言えないのですが(ちなみにワタシは作者のことなんにも知りません)、一番心を動かされたのは「おわりに」にある空也上人のお話でした。一遍じゃないんかい!

いや、一遍上人の評伝も凄く良かったんですけど、短いエピソードながら空也上人が踊り念仏を始めるきっかけとなった話が感動的だったので、そこを引用させていただきます。

 しかし、このシカの角ってなんなんだろう。そうおもってると、かなりくわしく解説がかいてあった。みんなで食いいるようにむさぼりよんだ。こうかいてある。
空也は九〇三年うまれ。醍醐天皇の第二皇子としてうまれ、出家して、念仏をお寺のなかや貴族のためだけでなく、衆生にひろめるために全国をわたりあるいた。金持ちだけじゃない、貧乏人もみんなすくわれないとダメなんだと。
とちゅうから、京都の街なかに的をしぼって、念仏をひろめはじめた。もちろん念仏をとなえたって、さいしょはいまいち衆生につたわらない。意味がわからないのだから。無視されたか、あるいは、あたまのおかしい乞食坊主あつかいだったろう、トホホ。
 そんな空也が中休みのために、鞍馬山にひきこもっていたときのことだ。野山にでて、念仏をとなえていると、シカがよってきて気持ちよさそうに念仏をきいてくれた。
おお、オレのことをわかってくれるのか。人間すらわかってくれないのに。うれしくなって、ひたすらナムナムと念仏をとなえた。すると、シカもシカで、フオオオ、フオオオオオオ!!! と、全力で鳴き声をあげてくれる。
いいよ、いいよ、山河草木、ふく風たつ波の音さえも、なむあみだぶつともうしけり。畜生の鳴き声だって、念仏だ。空也は毎日、シカの鳴き声をきくのが楽しみになった。なんかさとった気がする。
 でも、ある日のことだ。シカがばったりとこなくなる。夕方になっても、夜になっても、鳴き声さえきこえてこない。どうしたことだろう。
村人にきいてみると、衝撃の事実がわかった。猟師の定盛というやつが、弓矢で射殺して食ってしまったというのである。ああっ、ああっ。空也はショックで嘆きかなしんだ。元気がなくて、もう死にそうだ。
すると、そのはなしをきいた定盛もびっくりしてしまう。ガーン。オレはなんてことをしてしまったんだ。お坊さんの友だちをぶっ殺してしまうなんて。やっちまったなあ。
それで食ってしまったシカの皮をキレイにはぎとり、ついでに角もきりとって、空也のもとにやってきた。定盛はその皮と角をさしだすと、空也にむかってこういった。スミマセンでした、オレ、出家しますと。それをきいて、空也は感動してしまう。
おお、すげえ。シカが人間を得度させたぞ。オレがいくら仏のおしえを説いても、人間にはぜんぜんつたわらなかったのに、それをシカがやってのけたのだ、命を賭けてやってのけたのだと。
 これで空也もすくわれる。そして、あらためて決意したのだ。オレも死を賭して、すべてをなげ捨てて、衆生をすくうのだと。地位も名誉も財産も、人間であることさえも捨ててしまえ。
そうやって、自分の身なんてどうなってもいいから、ひとになにかしてあげたいとおもうことが慈悲なんだ。というか、そういう無償のこころをつたえましょうというのが、念仏じゃないか。捨ててこそ。
シカだ、シカになれ。オレもおまえもシカになれ。空也は定盛からもらったシカの皮を身にまとい、手には角をつけた杖をもって、京都の街なかにやってきた。フオオオ、フオオオオオオ!!! 
シカのように鳴きさけび、とびはねながら念仏をとなえた。全身で念仏を表現したのだ。気づけば、町じゅうの貧民が続々とあつまって、空也といっしょにおどってる。


ルイ先輩!!!


ルイ先輩は関係ないだろ。とまあ、こんな調子で一遍上人のことも描かれているのですが、一遍上人はお坊さんなのに余裕で厳島神社とか、お寺のみならず神社にもガンガン行ってきて踊り念仏しちゃう融通無碍さもまたすばら。廃仏毀釈クソ食らえ。中世はすげえやと改めて思う今日この頃です。終わり。


P.S.
この本は今年の6月に出たばかりですので、本屋さんに赴けば普通に新刊コーナーに置いてあります、すげえ! 流行に乗ってやったぜ!

ひらがなっていいな

えー基本賽の目は漢字が大好きな人間でございまして、本当はこのブログも漢字だらけの記事を書きたいくらいなんですが、悲しいかな致命的に語彙が乏しいので叶わぬ夢なのです。なんもかんも高校の国語の教科書に載ってた山月記(中島敦)のせい。

そんなワタシですが、近頃 「たどたどしく声に出して読む歎異抄」(伊藤比呂美)という本を読み、ひらがなの底力みたいなものに今更ながら驚嘆してしまいました。
本のタイトル通り、歎異抄を口語訳したものですが、ひらがな主体で訳された言葉が、なんというんでしょうか、石のような物質性をもって心にぶつかってくる感じです。ひらがな凄いわー。

詩人だからこそ為せる業なのでしょうが、特に和讃の訳(うみのうた)が素晴らしかったです。原文の和讃は難しい漢字ばかりで歯が立たないのですが(本当に漢字好きなの?)、うん、これなら分かるぞ!

ということで、そこだけちょっと引用したいと思います。

和讃 うみのうた

  十八
ありとあらゆる
生きものたちのために
仏さまがたのめぐみを
あつめてくださる
アミダさまのお誓いは
広くて大きな心の海よ
たよりなさい

  一二五
生死(しょうじ)の海は
苦しみだらけの海
岸にたどりつけない海
わたしたちは
ずっとおぼれておりました
アミダさまのお誓いのふねだけが
かならず岸にわたしてくださいます

  一三一
アミダさまのお誓いに
であうことができました
わたしたちはむだには生きません
ゆたかな海には
めぐみがみちみち
迷いだらけの濁り水も
なにへだてなく流れ入る

  一五九
「なむあみだぶつ」は
不思議な海水
悪人たちの死骸は
ただよいながら
一つのところにはとどまりません
さまざまな悪が何万と
川のように流れこんでいきますと
めぐみの潮が
たったひとつの水にしてくれます

  一七七
濁った世界で生きるとは
悪を起こして罪を造るということ
吹きすさぶ風や
降りしだく雨の
ただなかで生きるということ
仏さまがたがあわれんで
念仏をすすめてくださいます
浄土にかえそうとしてくださいます

  二三七
なむあみだぶつととなえれば
海水のように
善がなみなみ
おしよせてきます
きよらかな善を
この身にいただきました
今はみんなにわけあたえます

  二七七
アミダの誓いは
ひろくておおきな海のよう
ちっぽけでつまらないわたしどもの
善い心や悪い心
そのなかに流れこめば
そこで
大きな慈悲の心になる

  二九〇
アミダさま
観音ボサツさま
勢至ボサツさま
お誓いを
ふねのようにうかばせて
生死の海にこぎい出し
おぼれる人々を呼びあつめ
ふねにのせてくださいます

「南無阿弥陀仏」と「なむあみだぶつ」はこんなに違うのだということに改めて驚いてしまうのですが、ひらがなにすると印象がだいぶ変わりますね。うーん平仮名を発明したご先祖様は偉いなあ。








イメージ 1

「この愛は、異端。」(森山絵凪)、面白いですね。

シノハユ」(五十嵐あぐり)10巻の特典ブックカバーもすばらでしたげど、それは今は関係なく、ブックオフで立ち読みしてたんですが、面白くて買ってしまいましたよ。

異端っていうタイトルと、すごい絵力の表紙だなあと、覚えず手に取ってみたのですが、大当たりでしたよ。まあ、内容はヤングアニマル増刊嵐で連載してるだけあって、一口に申し上げましてエロマンガなんですが、ヒロインと契約した悪魔との恋愛関係が展開が進むにつれてシリアスになってきまして(ネタバレ!)、こっからどうなるんだろうなあと惹き込まれていくばかりです。

同じく白泉社から出ている「あそびあそばせ」(涼川りん)も、エイちゃんっぽいキャラが出てくるというので(またかよ)、軽い気持ちで読んでみたのですが、2巻で香純さんの「ガ…ガッチンって…ガッチン…するんです…」で吹いてしまってダメでした。なんだよガッチンって! ええい立ち読みしてる場合じゃねえ! 賽の目手帖は下ネタNGの上品なブログです。

と、大変面白かったので感想書きたいなーとも思ってたのですが、これアニメ化されるほど人気作品だったんですよ、マジで!? 作風的に絶対人を選ぶ作品だから売れてるなんて予想もしてなかったですよ。これじゃ人気作品に便乗してるみたいじゃないの…! とヘンな自意識過剰でなかなか言えませんでした、やあねえ。

ええと、それはともかく、「この愛は、異端」はまだ2巻までしか出てなかったので、他になにか描いてないかなーと調べてみたところ、「モンテ・クリスト伯爵」をコミカライズされてたんですねえ。なるほどー、そういうのがお好きなんですなあ。

モンテ・クリストって作品は名前は知ってても未読で内容は全然知らなかったので、勉強になりました。なんか火曜サスペンス劇場を見てるような復讐劇でしたが、こういうのの源になってるんでしょうねえ。こちらも絵力が素晴らしかったです。

…と、ここまでが前フリです、長いわ! すみません、久々の更新で加減が分からなくて…。前回の続きと言うことで2ヶ月近く間が空いてしまいましたが、これはちゃんと感想を書かないと!


イメージ 2



江戸時代といえば、パックス・トクガワーナが実現し、対外戦争を二百数十年間に渡り絶えてなくなった偉大な時代とも言えますが、その平和な時代にあって、果たして「兵学」は、いかなる存在理由を見出せるのか、という大変興味深い内容となっております。



こちらの記事の続きみたいなものです。

「言われる」ことの正しさではなく「言う」ことの正しさを、というテーゼに深く心を動かされたのですが、前者はつまるところ「揚げ足取り」というもので、そんなのはどうでもよく、後者の正しさをこそしっかりと問うていかなければならない、そういうことだろうと、やや牽強付会な解釈をしました(笑)

「言う」ことの正しさは論証不能であり、その根拠は自身の裡にある。そこだけを見つめれば良いのであって、それ以外は余計だ。
論語にある「一を以って之を貫く」というのはそういうことじゃないかなと。「」がなんなのかというのは問わなくていい。ただそれが在ることを信じて貫けば良い。

こう、言葉にしてしまうとどうしようもなく薄っぺらくなってしまうのは、ひとえにワタシの人間の浅薄さゆえなのでございますが、上野修さんの「スピノザ『神学政治論』を読む」を読んで、今まで漠然と思ってた正しさというものの正しい追い求め方と言うのでしょうか、こういう道筋でいいんだみたいな、眼前の景色がぱあっと明るくなる思いでした。

結局、こういうのは自分自身がひとつずつ納得して押し進めていくしかないんだなあと。これ以上言葉にすると果てしなくチープになっていくばかりですので、もう止めます〜。



イメージ 1

 あらためて、われわれの問いを定式化してみよう。 
 スピノザの「神即自然」は啓示宗教の語る神ではない。その哲学者スピノザが、「無知な」預言者の「真理ならざる」啓示の教えを、「心的確実性」において、「真なるもの」として受け入れる、とは、いったいどういうことか?
  (中略)
 「真なるもの」として受け入れるとスピノザが言うのは、それゆえ<言われていること>の真理性ではない。とすれば何か。われわれはすでにそのヒントを考察から得ている。それは集団的な言語実践態における<言う>ことの正しさである。

 スピノザは、証明不可能な教義を受け入れるのは「盲目的な理性を欠く」行為ではないかという疑問に答えて、こう言っている。たしかに証明不可能である。だがそれにもかかわらず、「われわれは啓示されたこの基礎をいま、少なくとも心的確信において受け入れるために、自分自身の判断力を用いることができる」。いかなる判断か。

 それは預言の倫理的な正しさに関して預言者たちの得た、その確信についての、われわれの側からする判断である。預言者たちは「愛と正義とを何ものにもまして薦め、これ以外の何も意図していないことをわれわれは見ている」。

そこから「彼らは人々が服従と信仰とによって幸せになるということを、欺瞞によってではなく、本心から教えたのだとわれわれは結論する」。

それに彼らは「そうした教えをしるしによって確信した以上、ただわけもなしにそんなことを言ったのではないし、預言しているときに気が狂っていたわけでもないとわれわれは納得する」。

要するに、かく<言う>ことが倫理的に正しいと預言者自らが確信せざるを得なかった、その同じ正しさを、同じ確信の程度において受け入れるとスピノザは言っているのである。

実際、その正しさは、<経験の言語ゲーム>における集団的な使用そのものによって、あらゆる改竄に抗する力を持ってきた。あらためて引用する。

 聖書そのものからわれわれは、何の困難も曖昧さもなしにその主要教義を把握できる。すなわち、神を何ものにもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛するということ、これである。そしてこれは改竄の結果でもありえないし、また性急な・誤りがちな筆の所産でもありえない。じっさいもし、聖書がひとたびこれと違ったことを教えたとしたら、他のすべての事柄も必ず違ったふうに教えていたはずである。なぜなら、これこそ宗教全体の基礎であり、これを取り去れば全機構が一瞬にして崩壊するからである。だからこれを教えぬ聖書があるとすれば、それはわれわれがここで語っている聖書とは同一のものでなくて全く別な書なのである。ゆえに、聖書が常にこのことを教えたこと、したがってまたここには意味を変質させうるようないかなる誤謬も忍び込まなかったこと――そうした誤謬が入り込めば誰からもすぐに気づかれたであろうから――さらにまたなんぴともこの教えを曲げることができなかったこと――そうした悪意図はたちどころに人々の眼に明らかになったであろうから――、そうしたことが揺るがぬものとして残る。

「神を何ものにもまして愛し、隣人を自己自身のごとく愛する」。
かく<言う>ことの抗しがたい正しさ。伝承と解釈・編纂の長い歴史のなかで、その集団的使用が意味の改竄を許さなかった<言う>ことの正しさ。
まさにその正しさを「真なるもの」として「健全な判断によって受け入れる」。これがスピノザ預言論のロジックに他ならない。

 それゆえ、預言者たちの<言う>ことの正しさについて、スピノザは心から受け入れる。理性なしに盲目的にそうするのではない。
スピノザは哲学者として、その正しさ、すなわち正義と愛を薦める正しさが理性にかなっていることを知っている。「彼らが教えた道徳的事柄で理性にまったく一致しないようなものは何もない」。

たしかに『エチカ』の賢者も、自らの「真の倫理学」に基づいて同じ正しさを、今度は「数学的確信」でもって把握するだろう。しかしだからといって、哲学者の理性的確信が預言の正しさを証明したり、根拠づけたりするのではないし、またそうすべきではない。

その根拠や証明は、預言者の預言的確実性を支えているものとは別だからである。スピノザの言う「一致」は、われわれがかつて別の機会に論じたように、預言と哲学的理性という互いに見知らぬ者どうしの遭遇、妥協も照応関係もない外的な一致にすぎない。
  (中略)
 こうして哲学者は、啓示が語る救いの真偽については一切口を出さず、しかも「心的確実性」においてそれを「真なるもの」として受け入れる。
それは、多くの論者たちが想像したような用心や策略からではないし、またキリスト教的ヒューマニズムからでもない。

「真なるもの」を根拠付けなしに循環させる「群集」の言語的実践の実定性が(言い換えればスピノザの絶対的な自然としての神の力能が)、そうするように命じ、義務づけるのである。

このような受諾によって、哲学者は自らの真理への愛を放棄しないで<敬虔の言語ゲーム>のなかに身を置き入れるだろう。そこは理性の教えと預言者の教えが、<言う>こと(愛と正義をなせ)の正しさにおいて一致する場、<言う>ことの「真なるもの」が証明抜きで一致し続ける場である。

 スピノザに関する伝記的資料のひとつは、こうした哲学者の一面を伝えている。いま一度引用しておこう。

 家の主婦にかつて、彼女が自分の宗教にそのまま留まっていても、救われると思うかと尋ねられたとき、彼はこう答えた。「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、救われるために何もほかの宗教を求めるには及びません」。



イメージ 1


第二部第2章「預言の確実性をめぐって」からの引用です。
論証部分を大分端折ってますので、上記の本を読むことをお薦めします(笑)

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

検索 検索

ブログバナー

sighnome
sighnome
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(2)
  • ナオ
  • nama‐k1
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン

みんなの更新記事