西の正倉院 『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は
西の正倉院西の正倉院(にしのしょうそういん)は、宮崎県東臼杵郡美郷町にある正倉院のレプリカ建築。門外不出とされていた奈良の正倉院原図を元に樹齢400〜500年の木曾天然檜を使って忠実に再建したもので、正倉院内部を見学することもできる[1]。
概要正倉院南倉の銅鏡唐花六花鏡と同一品が同町に保管されていることから計画され、宮内庁が所蔵する正倉院図を元に、細部まで忠実に再現されている。百済王伝説との関係を指摘される祭師走祭りの紹介と、銅鏡の展示などが行われている。1996年完成。
参考文献
神門神社
概要『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は神門の地に落ち着き、福智王は現在の木城町に住んだとされる。「益見太郎」または「益シ見ル者」の援助があり、父子はこの地で崇敬され、死後は神として祀られたという(詳細は後述)。
『三国史記』によると、756年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後に災害が続き民が飢えたことが記されている[1]。 日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九月四日(759年)条に、以下のように記されている[2]。 「近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。 彼らは租税や労役の苦しみを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。 その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。 それらの人々に再三質問して、帰国したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように。」 4つの異なる伝承以下の四書において、伝承が異なる。
①『神門神社縁起』(宝暦五年六月,源光章)[3] ②『比木大明神縁起』(宝暦五年七月七日,源光章)[4] ③『日向旧跡見聞録』(宝永九年閏七月,笠原道順)[5] ④『筑紫日記』寛政四年閏二月十九日条[6] ①②は甲斐州山梨郡山王社神主である源光章によって作成されたものである。
それぞれ前半部分は佐土原町上田島にある仏日山大光寺拙堂禅師が持ち込んだ『比木祠旧記』の写しで、後半は源光章による考証である。 『比木祠旧記』文中では、天平勝宝八歳を「天平勝宝八年」と誤記している。 また、文中には1580年代に開始された[7]唐津焼が登場する[8]。 ①では、源光章による考証部分で「孝謙天皇時、百済王子金泰廉等朝貢事」と百済と新羅を混同している(②では「新羅」と修正されている)[9]。 『比木祠旧記』の内容も、①②間で異なる。
③は笠原道順が現地古老に取材して実見するところをまとめたものである[10]。
本書では百済関連の伝承は語られない。比木神社に祭られているのは福智王とせず、「異国の大将軍」であると地元民は述べる。 著者はそれを誤りとし、祭神である大己貴命が、国譲りの後にこの地で蟄居したためであろうと論じる。 神輿の巡行については、大己貴命が独り日本国に留まって経営を続けたことに由来するという[11]。 ④は高山彦九郎の巡遊日記である。神門神社の祭神について、「百済王とも源頼朝の子供ともいう[12]」と述べる。 王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っている。神社の近くの国道446号線沿いに「百済王貞嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられている。標柱の南約50メートルほどのところの畑の中に、封土の大部分が削平された塚ノ原古墳がある。本殿の屋根裏には、千点以上の鉄鉾や鉄鏃などの武器類が保管されており、地域の武器庫とのかかわりが考えられる。さらに、須恵器の大甕や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。
文化財
☆『日本書紀』推古天皇三十一年七月条 百済は是(これ)多反覆(かへかへ)しき国なり。道路(みち)の間(あひだ)すらも尚(なほ)詐(あざむ)く。凡(おほよ)そ彼(そ)の請(まう)す所、皆(みな)非(よくもあら)ず。
訳):百済は、嘘の多い国だ。人を騙す。 百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く。凡そ彼の請す所、皆非ず。 百済は裏切りの多い国だ。道の間すら尚も欺く。彼らの言葉は信用できない ☆東国通鑑巻六、唐貞観十六年条 「百済反覆之国、不可信也。」 訳):百済は、裏切りの国だ。信じる事は出来ない。 ☆『朝鮮民族は極めて猜疑心が強く、恨み言を常に抱き、陰謀詐術を得意としている。
上国にはおもねるが下国と見なすと非礼を重ねる。(事大主義)』 中国正史「宋書」 ☆『日本書紀』推古天皇三十一年七月条 百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く。 意訳):韓国は裏切りと嘘の国だ。 ☆東国通鑑巻六、唐貞観十六年条 「百済反覆之国、不可信也。」 意訳):韓国は、裏切りの国だ。信じる事は出来ない。 百済高句麗と百済の戦争 漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。
369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[2]。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
中期:熊津時代(475–538年)南朝・倭国との外交関係新羅の台頭と遷都 しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[誰?]。
後期:泗沘時代(538–660年)新羅との対立聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。
倭国・高句麗との同盟 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
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好太王碑文(414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建立)
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
2016/11/26(土) 午後 3:47 [ 世界は仲良く ]
秋に渤海使節団105人を乗せた本船はポシェット湾を出港し、7〜10日後に越前〜能登に入港した。
その内20人位だけが都に上り、残った人たちは福良津 (現在の福浦港) で船を陸揚げして点検・修理し、冬を越してから帰国した。(推測)
福良は次の理由から渤海交流の中心となった。
・ 良港であり、海流の関係から渤海から来易い
・ 白山、高爪山など目印になる山がある。
・ 船を修理する大木が背後に多くあった
ポシェットと福良はどちらも袋に通じ、自然の良港はどの国も同じイメージなんでしょうね。
交易品
渤→日;毛皮、蜂蜜、薬用人参、三彩陶器、シルクロードを通じた品々など
日→渤;絹、綿、黄金、水銀、扇など
毛皮は朝廷の儀式に使われた。虎とヒョウの毛皮は武官の用品として使用された。
2018/7/19(木) 午後 9:24 [ 食品汚染がカネカ油症を生じた ]