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日本には「日本精神」というべき独特の精神がある。しかし、この「日本精神」について、 あるのは分かっているけれども、それが何なのか自分たちではよく分からないところが ある。むしろ、外国人が考察してくれたほうがよく分かる。
アインシュタインも感心した日本の素晴らしさ
日本について外国人が語った資料としては、中世に日本にやって来た宣教師たちが書いたものが残っている。そして、明治時代になってから外国の公使や外交官が書いたものがある。
そうしたものを読むと、だいたいは日本に対して好意的に書かれている。それは、宣教師たちは骨を埋めるつもりで日本に来て、日本で暮らしながら日本を見たからだろう。
また明治時代の公使や外交官などは、任期が20年くらいあるのが普通だった。長く住むために、日本のことをよく勉強したという。だから好意的になったのだろう。
日本の江戸時代や明治時代に関して、当時の外国人が書いた資料を読むと、まず「あべこべ話」が面白い。例えばのこぎりは日本では引くけれど外国では押す、といったような話だ。
それよりもっと深く、「日本人の心の奥底はこうなのではないか」というところまで見ている資料もある。そうした資料には、たいてい「礼儀正しい」「相手のことを思いやる」「争いにならないように折り合いを付けて暮らす」「そういう暮らし方を全員が共有している」といったことが書かれている。そして「こんな素晴らしい国が世界の中にあったのか」と感心している。
後世では、「こんな素晴らしい国は世界にずっと永遠に残っていただきたい」とアインシュタインが語った話は有名だ。そんなふうに外国人が見た日本の精神を総合することで、日本がどういう国なのか見えてくる。
日本の歴史は世界に比べて長い
歴史の長短による対比もある。日本は外国に比べて、比較的歴史が長い。あまり日本人が気にしないことではあるが、自分たちと同じように世界中の歴史が長いと思い込むのは大間違いである。
コロンブスがアメリカ大陸の近くの島に到着したのは1492年であり、それは米国が独立宣言を公布して建国したわずか284年前のことだ。それがアメリカの歴史である。
フランスは、ケルトという民族集団が出来た後に、異民族の侵入を経て、現在のフランス人が形成されてきたが、16世紀以降も移民を受け入れている国である。フランス語はもともとは一部地域の方言のようなものだった。そのフランス語が標準語になってから、まだ数百年ほどしか経っていない。
英国はどうか。近代英語がいつ出来たかというと、だいたい400年ほど前に、現在の英語らしくなってきたという。それは、聖書を英語に翻訳して広めたから、英語が普及したのだ。
一方、日本語はだいたい2000年ほど前に成立したといわれている。そして、だいたい1万年前から同じ人たちが住んでいる。そうした観点でも、日本は歴史の長い国だといえる。
同じ場所に同じ人たちが居続けるという状態は、世界の中では珍しい。日本人は、自分たちの歴史は長く、外国はたいてい日本よりも短いということを、もう少し真剣に考えるべきだと思う。そのことが、日本の思想や日本精神の中に入っているからだ。
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私たち台湾人が「日本精神」と言うとき、それはもちろん戦後日本人の精神のありよう ではないし、戦前に日本の軍部が国粋的な意味で使った日本精神(にほんせいしん) でもない。 あくまでも台湾語で語られる日本精神(リッップンチェンシン)であって、かつて 台湾 ...
台湾は戦前は日本領でしたが、昭和20年(1945年)、日本の敗戦後、中華民国国民党(外省人という)が入り込んできました。その所業は酷いもので、公的資産の私的占有、窃盗、恣意的な朝令暮改、賄賂政治、縁者登用、終身議員、一党独裁などなど挙げられます。
例えば、日本時代はタバコは専売制でしたが、大陸ではそのような制度がありません。それで大陸産のタバコが露天販売されるようになりましたが、それは"密輸品”とみなされ、違法行為とされました。それで没収されるのですが、その没収タバコを外省人がまた販売するのです。お酒も同じで販売していると没収され、外省人によってさばかれたといいます。彼等には罪悪感はありません。
本省人(もとから台湾にいた元日本人)は日本時代を懐かしみ「犬(日本人)が去って豚(支那人)来たり」と吐きました。犬はうるさいが守ってくれる。しかし豚は働かずにただむさぼるだけという例えです。
そんな中で生まれたのが「日本精神」(リップンチェンシン)という言葉なのだそうです。
台湾では「あの人はリップンチェンシンだから」というと真面目で勤勉で堅物の人を指し、「あの店はリップンチェンシンだから」というと信用を重んじて約束を守る人という意味になるそうです。この対語として「中国式」という言葉があり、これは「ルーズ」「無責任」「欺瞞的」「金が万事」という意味になります。
『
台湾人と日本精神』(たいわんじんとリップンチェンシン)は、
2000年に
日本教文社から出版された
蔡焜燦(さいこんさん)の著書である。
概要
1927年、
日本統治下の台湾に生まれた蔡の日本に対する思いがつづられている。当時の台湾において、教育・社会的インフラ・法律等が急速に近代化され台湾に恩恵をもたらした。その中で活躍した日本人で、いまだに多くの台湾人に尊敬されている者も数多くいる。
太平洋戦争後に占領した
国民党は、日本が残していった数多くのすばらしい遺産を台湾人から奪いさり私腹を肥やしただけであると、自らの戦前・戦中・戦後史と共に述べられている。また、
司馬遼太郎との関わりや、
小林よしのりの『
台湾論』出版が台湾にもたらした影響等が述べられている。
- 第1章 台湾の恩人・司馬遼太郎
- 第2章 台湾近代化の礎を築いた日本統治時代
- 第3章 「二つの祖国」―「戦争」そして「終戦」
- 第4章 "祖国"の裏切り
- 第5章 日本人よ胸を張りなさい
- 第6章 『台湾論』その後
詳細
- 台湾は日本の植民地ではなく内地の延長・領土であった。植民地という言葉は戦後に出てきたものである(文庫・P52)。
- 戦前の日本の教育水準は非常に高く、教師達は情熱と愛情を持って台湾に教育を普及させていった(文庫・P80)。
- 台湾では、いまでも「日本精神」=リップンチェンシンは、「勤勉で正直で約束を守る」事を意味する(文庫・P86)。
- 日本統治時代、台湾籍児童が通う「公学校」と内地籍児童が通う「小学校」の違いは、差別ではなく日本語能力にハンディキャップがあったためであり、日本語が達者な子供は台湾籍であっても「小学校」に通うこともできた(文庫・P87)。
- 台湾では創氏改名は許可制であった。また、日本名でなくてもなんの不自由もなかった(文庫・P118)。
- 現在語られているような慰安婦の強制連行は無かった(文庫・P138)。
- 戦後、台湾帰国直後に中華民国軍を見た時、その軍紀の悪さに驚いた(文庫・P149)。
- 中華民国接収後、台湾社会は急速に腐敗した(文庫・P161)。
- 中華民国統治後の地獄のような時代は、つい最近までの40年間続いた(文庫・P183)。
- 小林よしのりの『台湾論』に対する台湾での批判は、主要マスコミを牛耳る外省人の情報操作である(文庫・P269)。
騒動
小林よしのりの『台湾論』騒動の余波を受け、販売が好調であったにもかかわらず日本教文社から発行中止となった。その後、文庫化・大幅加筆して小学館より再出版された。親日的かつ台湾の日本統治に対する肯定的な内容のため、一部の親中派論陣より激しい批判を受けている。
出版
外部リンク
大和魂(やまとだましい)は、外国と比して
日本流であると考えられる
精神や
知恵・才覚などを指す用語・概念。
大和心。
和魂。
儒教や
仏教などが入ってくる以前からの、
日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である
[1]。「漢才(からざえ)」に対比して使われ、
江戸後期からは
日本民族特有の「清らかで死を恐れない気概・精神」の意味にもなった
[1]。
要旨
平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。
江戸時代中期以降の
国学の流れのなかで、「
漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった
[1]。
近世までの日本では主に「大和魂」とは以下のような事柄を意味していた。
- 世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
- 特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。
- 中国などの外国文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。
- 知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。
- 複数の女性を同時に愛してしかもすべてを幸福にしうる、艶福とそれを可能にしうる恋愛生活での調整能力。いろごのみ。
- 以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。
- 日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)
歴史
大和魂の語の初出は、『
源氏物語』の『
少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、
漢才という語・概念と対のものとして生まれた
[1]。
和魂漢才とは、漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである
[2]。『源氏物語』が生まれた平安中期は、
国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。
江戸時代中期以降の
国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は
本居宣長が提唱した「
漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「
もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「
仏教や
儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られる。
江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、
遣唐使廃止を建言した
菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。このような傾向は、儒学の深化と
水戸学・
国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。
明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、
岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに
和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。
日露戦争戦勝以降の
帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・
拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。