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小柄について
日本美術刀剣保存協会東京都支部「刀都たより」4号
「小柄」と呼称するのが現在は通例となっていますが、後藤家では、折紙を見てもおわかりになるように「小刀柄」と称しています。室町期には「大内問答」にもあるように「小刀小柄」と呼ばれていたようです。
現在、室町以前の生ぶの笄は多数残っているのですが、生ぶ小柄は数も少なく、笄直しや地板嵌め込みに直されたものが残されている程度です。このことをもって、桃山以降に小柄は通常的に作られ、それ以前の小柄は特殊なもので、例外的に作られたとする説が長い間認められていました。
しかし、多数残されている室町期の鐔の小柄櫃を見ても生ぶのものが多数あり、すべてが後開けというのは無謀な説だと思います。
それでは、何故こんなにも小柄が残っていないのでしょう。笄は拵の表側に付けますが、小柄は裏側に付けます。このために、目貫と笄は豪華なものにしても、小柄は簡素なものでも差し支えないと考えられたのではないか。また、笄よりも小柄のほうが遥かに使用頻度が高いので実用性を第一に考えた、と思うのが素直な見方ではないでしょうか。
法隆寺西円堂の奉納武器のうちの小柄の中には、木製に針分を巻いたものや、薄板に簡素な毛彫のもの、
無紋の薄板を巻いただけのものがあります。また、発掘品で南北朝期のものといわれる銀製の薄板の小柄が
あります。
上杉景勝所用の長光の打刀拵には、梅花を透し彫りにした鉄製の共小柄が付いています。厳島神社の談義所西蓮打刀拵の小柄は、赤銅の薄板に桐唐草紋を毛彫した簡素なものです。徳川家康所用と伝えられる長光の打刀拵の小柄は、鑢目のみの棒小柄です。 このように裏差しであり、実用頻度が高い小柄は、桃山以前においては、特別な拵を除いて実用性を第一に考えた刀装具であったと思われます。
江戸時代になりますと幕藩体制も完成し、式制の拵も家格・身分を表す三所物のひとつの小柄として高級化しました。元禄以降は町人階級から豪商の台頭があり、町彫の金工が繁栄し、多数の小柄が製作されました。
現存する小柄で最も占いのは、箱根神社にある曽我五郎所持の伝来がある赤木柄の腰刀拵に付いている柄と全く同様の造りで、赤木に胴金を付けた格調高いもので、平安末から鎌倉初期の様式を伺うことができます。
次に、鎌倉末期といわれる毛利博物館の菊造腰刀拵に付いている菊図の小柄があります。赤銅魚子地に枝菊を彫り、銀の消し鍍金をかけた作で、通常の小柄よりも短くなっています、足利尊氏所持と伝来がある梨地桐紋造腰刀拵に付いている桐紋図赤銅魚子地高彫銀消し鍍金の小柄も、通常の小柄よりも短く、また先の菊法の小柄よりも短くなっています。
室町期のものでは、加賀前田家の牡丹獅子造腰刀拵があります。後藤祐乗の作と伝えられる金魚子地・金
丸彫の七所物が付いています。この小柄には戸尻寄りに環が付けられています。
この環については諸説ありますが、元来足利将軍家のものであり、他には家康所持の名物盲亀浮木図小柄
の戸尻寄りに小さな孔が開いており、環が付いていた名残と思われます。置金の金の亀が手擦れのために彫
が全く然くなり、故に盲亀と呼ばれたのでしょう。この手擦れた小柄が名物として犬切にされているのは、
家康が持っていたこともありますが、その家康は、足利将軍家旧蔵の小柄である故に所蔵していたのではないかと思われます。環の付いた小柄は、室町初期の姿というよりは、足利将軍の持ち物としての特徴なのだ
と、私は思っています。
桃山以前の腰刀拵に使用された小柄は寸法に定め加がなく、拵に合わせた長さ・幅の小柄が製作されたよう
です。
軍陣用や打刀拵、鐔刀拵に使用された小柄は、共小柄や銀などの薄板一枚張りの小柄、棒柄に毛彫や鑢を施しただけの簡素なものが主流であったと思います。
天下統一が成った桃山時代になりますと、上級武士たちも打刀拵を差すようになり、後藤家も小柄を通常的に製作するようになったのだと思います。
そして、江戸時代になると戦も無くなり、幕藩体制が確立したことにより、格式を表す道具として実用から離れた小柄が多くなります。
町彫金工の台頭以後は、多くの名人・上手が現れ、自由な発想の小柄が生まれています。黒船来航以後の幕末には、世情不安の世の中になり、実用を考慮した小柄が多く作られるようになりました。
※本稿は平成十四年十月十九日に開かれた鑑賞研究会の講義を抄録したものです。
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