神学大生、世界を行く

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神学生、考える

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日々考えることや、授業で学んで感じたことを書いていきます。
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        ちょっと前に、ぱっと思いついて流すように書いたものです。
 
     ―――――――――――――――――――――――――――――――――


   民族や歴史などの背景に横たわる思想の重要性を示す根拠として、韓国の儒教思想を用いて考えてみようと思う。


   韓国に儒教が入ったのは三国時代(高句麗、新羅、百済)の頃だといわれる。7世紀から8世紀にかけ、新羅において初めての儒学者が登場した後、高麗を経て朝鮮王朝においては、儒教は国家の支配理念になるまでに至った。そして今に至るまで、青年教育や民族啓蒙などのさまざまな面において、韓国を形作るのに、多大な影響を与えた思想こそ儒教なのである。
   余談だが、韓国の儒教に対する評価は、あるものを見て一目で知ることができる。紙幣だ。日本では紙幣の上に、福沢諭吉、樋口一葉、野口英世が載っている。米国では、リンカーン、フランクリン、ワシントン、ジェファソン他数種。などなど、いずれもその国を代表し、重要な役割を成した、もしくは最も尊敬を受ける人々だといえよう。その紙幣の人物として韓国が選んだのが、世宗大王、そして李退渓と李栗谷だ。世宗大王はハングルを制定したことで有名だが、一方では、儒教思想を根底におく王道政治を成し、人材排出などをとおして儒教発展に貢献した。李退渓と李栗谷はそろって、李氏朝鮮の儒学者であり、朱子学の二大家と呼ばれた。
   話をもとに戻すが、それほど韓国社会においての儒教浸透は根深い。そしてその儒教浸透が最も分かりやすく影響しているのが、上下関係だ。親は子にとって絶対であり、年下は年上に従う。年齢が一つ違っても、年下は‘兄’と呼び、敬語を使う。そんな社会だから、親や師は時として子や弟子に体罰も与えるし、それが当たり前だ。不条理な体罰はいけないことだが、必要な体罰もありうると考えるのである。
   日本のような国からしてみれば、それらは少し奇異なものとして目に映るかもしれない。しかし、そんな韓国に何年も住んで、儒教文化にも慣れてくると、今度は、親に平気で‘クソババア’などと怒鳴り散らす学生達や、学生や保護者を恐れて、まともに教育することを放棄した先生達、そんな子供たちに何も言えない親たちこそ、儒教が一番必要な人たちに思えてくる。


   家庭において親子の関係を通して、そこから得るべきであり、そこからしか得ることの出来ない非常に大切なものがいくつかあると思う。愛や情、善悪を分別する力など。特に、物事の善し悪しは、他人が教えてくれることなどそうそうない。おせっかい、あなたには関係ないといわれるのがオチだからだ。
これは家庭において親が子に教育しなければならないことだ。しかし、実際にこれができていない親が、日本に多いのではないか。
   親以外に、善悪を教えてくれるのは、あとは司法制度における法しかない。法は確かに物事の善し悪しを判断する。しかし、それを親が教えてくれる善悪の判断と比べると、その二つは明らかに異なる性質を持っている。言わばデジタルとアナログの違いのようである。時間を区切ることによって断続性が生まれ、1と2のあいだには必ず隙間が生じてしまうデジタルのように、世界にあらわれる事象を法でがんじがらめに防ごうとしても必ず隙間は生じる。デジタルな法は、社会の快適さの為に作られたものであって、人間の人格成長の為に必要なアナログ的な善悪判断力は与えてくれない。また、物事を割り切って合理性を追求し、権力と処罰による抑制を目的とする法は、デジタルであるがゆえに生じる隙間を縫って、
つまり法のめを縫って行われる悪事にはなんら抑止力を持たない。
   逆に、親は子を愛するがゆえに厳しくしつけ、アナログ的に善悪を教える。子が良い子に育つことを望まぬ親がいようか、少なくとも子が監獄に入れられ喜ぶ親はいない。子の人格形成を目的とするわけだから、これがダメとかあれがダメなどではなく、人としてこうあろう、お前がこんなことをしたら親である私は心が痛いんだよ、と教育すれば、善悪をしっかりと判断できる良心的な子を育てられると思う。
   そのような親が増え、そんな親に教育された子が増え、そんな家庭が増えれば、社会はもっと素晴らしいものになるのではないか。儒教は家庭がそのような機能を持つために、とても重要な役割を果たすことができると思うわけである。


   もちろんこの世の他の学問と同様、儒教にマイナスな部分も存在する。時には儒教を利用し、師弟関係や親子関係において、上の立場が不条理を働くこともある。しかし、これは儒教自体の問題というより、個人々々の人格の問題と考えるべきだろう。年功序列が生産性を落とし、経済発展に障害となりうるという人もいる。しかし善悪の判断を通じた社会安定という大きな役割を考えるとき、上のようなことでもって儒教が否定されるにははるかに足らぬ根拠と言えるだろう。また、儒教批判において、儒教は歴代の為政者に群集支配のために利用されたというが、この世のどの歴史に、利用されることを避けることが出来た思想があっただろう。これは思想の云々以前に、思想を利用しようとする為政者達の問題だと考える。


   結論としては、一つの思想が歴史や民族に与える影響というのは多大であり、だから、今の我々の社会に影響を与えている思想をしっかりと見いだし、果たしてそれが正しいのか間違っているのかを知る必要があるだろうし、また逆に、今我々の社会にとって必要な思想とはどんな思想なのか、しっかり考えて、皆で議論し、取り入れることが出来る必要があると思う。


     ―――――――――――――――――――――――――――――――――

        読み返してみるとずいぶんと硬く長い文章になってしまっています。
        最後まで読んでくださった方、ありがとうございます^^

目の中の砂

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日曜の午後、気持ちよく晴れた空の下で学校の友人たちとサッカーをしました。

自分のいる学科ではサッカーがさかんで、
冬やすみを終えて久しぶりに会うと、まず一言目で‘早いうちサッカーしようぜ’と挨拶し、
年末、当分会えないだろう友人への別れ際にも‘またサッカーしようぜ’と握手を交わす、
そういう、サッカーを媒体にした友情というものが存在しているわけです。
変にあらたまって挨拶するより、体をぶつけ合っていつの間にか仲良くなってる、
そんな感覚が、すでにみんなの中に共通のものとして出来上がっているのかなと思います。


そのサッカーの時間、普段のようにコンタクトレンズをはめていたわけですが、
終わる間際、目に大量の砂が入ってしまいました。
瞬きというものは不思議なほど早くて、ふだんなら砂などは目に入ろうとする直前に
まぶたにシャットアウトされてしまうものですが、その時はどうしてか、直に入ってしまいました。
試合は止まるは、学校の水道まで走っていくは、チームは土壇場で負けてしまうはで、散々でした。

週明け、大学の医務室に行くと、眼科病院に行くといいということで行ってきました。
それから言われたとおり目薬をさしたり、乾燥しないように気をつけたりして、
今ではずいぶんと治ってきていますが、一昨日やその前日などは大変でした。
目がチカチカゴロゴロするので、勉強にも集中できず、ストレスを多少なりとも受けていたと思います。


そんな中でふと、いつか読んだ本の内容を思い出しました。
手元に本もなく、うろ覚えですが、その本には、
      
       一つのくくりの中で自と他が別々に存在するとき、そこに苦痛が生じる

といったことが書いてあった気がします。

自分の中にある何かを、自分の一部として認識する場合、何の問題もありませんが、
それを他として認識した瞬間、そこに苦痛や嫌悪といった不和が生じるということです。

たとえば、口のなかにある自分の唾液が、地面に吐いた瞬間汚くなったり、
排水溝にたまった髪の毛や、落とした垢に嫌悪感を感じるような、そんな感じのことだと思います。

自分の中だけに限らず、夫婦の間にあっては自分と相手が別々の思いを持っているとき、
社会の中にあっても個人対個人や集団対集団でたがいを認め合えないとき、
世界の中でも国家と国家が自分たちの利益のためだけに行動するとき、
そこには平和などありえるはずもなく、不和、不調和、苦痛が存在せざるをえない。
逆に考えて、一つのくくりの中で自と他をできるだけ一つにさせると、
そこに平和や調和が生じ、人はそこから幸福を得ることが出来る。
自分のことばかりを考えず、相手を理解し、他を自のなかに受け入れる、
心の中に他を入り込ませる隙間が必要だ。


理想論だと言われるかもしれませんが、性善説を信じるなら、
決して不可能な状況ではないのではないかと思います。少なくともそう努力することが出来ると。。。


とはいえ、いくら自分の一部と思って頑張っても目の痛みは取れそうにありません。
精神的に自と認識することによって、痛みは少し和らいだけど、
肉体的に他と認識してしまっているということで。。。

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時事問題に手を出す、なんて不慣れなことを今日はしてみようと思います。

世間を揺るがす様々なニュースが日々飛び交いますが、
その内の一つ、〔東横イン不正改造問題〕に最近は意識を奪われ気味です。

とうとうトリノも幕を開け、期待度注目度ともに史上ダントツに高い今大会ということもあり、
ここ1,2ヶ月のあいだ日本中を騒がせたライブドア事件や耐震偽装問題、
そのほか諸々の事件もオリンピックが運んできた活気に気配を薄めてきているようです。

しかし、そんな中でも「2006年というとしのスタート」というものをイメージしてみるとき、
〔東横イン不正改造問題〕を頭から拭いきれない理由には次のようなものを提示できると思います。

まず、なんといっても先月末、不正改造が指摘されたホテル東横インの西田社長の登場の仕方が衝撃的でした。
ホテルの障害者用スペースを、許可なく違う目的を持つ空間に作り変えてしまったという事実をマスコミに指摘されても、平然と「(障害者客は)年に1〜2人しか泊まらないし、通常の客には使い勝手が悪い」などと返す始末。

そしてそれとは一転した今月6日の記者会見での西田社長。
頭を何べんも下げながら「すみません、すみません」と連呼。
社長が申し訳ないと本当に思ってるだろう確率である1%にかけてみるとして、
何を聞かれても謝るだけの西田社長に誠意を見出す人がどれくらいいるかっていう話も面白いは面白いでしょうが、
それをさておいても、この社長の二大パフォーマンスには、ただただ驚かされるばかりでした。

あの開き直りを通り越した態度に世間の人たちがどんなことを感じたかとか、
東横インという会社の体質を見て企業倫理・社会モラル云々と話す専門家や、
障害者の気持ちを踏みにじる違法行為そのものに抗議を行う団体の方々の話をする立場に自分はいないので、
そういう問題はさておきますが、

やはり、この問題で気になるのは、これからの「東横インに対する社会による認識性」という部分です。

言ってみれば、東横インの西田社長という人は、
会社としても個人としても『社会暴力』といわれておかしくない行為を充分に働いてしまったわけです。
東横インといえば起業以来短期間で急成長し、アイディア面にしてもビジネス面にしてもなかなか考えられた、
成功した企業と言うことができると思います。
事業の性質上、消費者利用の背景には特化した利便性ともうひとつ経済的だという大きなメリットがあると思います。

こういう点を踏まえ、ミクロ経済という視点から「これからの東横イン利用」という側面を考えてみるときに、
個人の中において東横インのもつ利便性と自分の中の倫理観が戦うことになると思います。
自分は東横インのようなものを積極的に利用する立場にはいないので細かいことはいえませんが、
もし自分がサラリーマンだったりしたら迷うと思います。
「悪いことしてたけど、自分には関係ないし、便利だからこれからも利用しよっかな」っていうのと、
「あんなことやってる会社使うなんて非常識だ。頼まれてもとまるもんか」っていうのがぶつかるんじゃないかと。

ともかく、こういった意味で、これからの東横インの進退、未来像には興味津々といったわけなのであります。
正直な話、これから西田社長が非倫理的な思想を捨て去って会社を続けていくとするなら、
「せめても社名くらいは変えてください」って感じです。
図々しくも、社名すら変えずに今後も継続して会社を運営していこうとするなら、
「この会社には未来がない」と言いたいです。

もしも、万に一つでも、「東横インが社名すら変えずに、それでもビジネス展開ができる状況」になるとすれば、
こんどは、
「日本という国家自体からの倫理観の欠如」というものを考えなければならなくなるでしょう。



   ※ 上のイラストは本文とは関係ありません。
     見てて気に入ったので、Ushikai and Icon's Roomさんからいただきました。

届かない手紙

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この記事は、いつもこのブログを訪れてくださる、韓国好きのクマさんに捧げます^^


先日、荷物などを整理していたら、その中から数年前につけていた日記がでてきました。

さっそく横道にそれて、パラパラと頁をめくりながら、懐かしさに浸っていたら、
2003年10月頃、自分が韓国で勉強していたときに記した頁に目がとまりました。
そこに記されていたのは、ある小さな、しかし偶然に溢れた出来事についてでして、
その内容のことや、それについて思ったことを書いていきますね。

ある日、友人に頼まれた用事を済ませるために、出かけついでに郵便局へ寄ったのですが、
その日は、郵便局の隅のほうで、ささやかな展示コーナーが設けられていました。
少し面白そうだなと思い、用事をさっさと済ませて、その展示を眺めてから帰ることに。

展示物の内容というのは、色とりどりの珍しい切手や、それらが貼られた古い封筒などで、
板状のプラスチックの透明ケースに、ずらーっと300点くらいが飾られています。
それにしても昼すぎ頃の郵便局は、訪れるお客さんも皆忙しそうにしていまして、
誰もその展示を気にする様子もありません。

しかし個人的にはなかなか魅力的なものでして、切手のデザインとかを一つ一つ注意深くみて回ってました。

そうやっているうちに、一枚の手紙に目がとまりました。
きれいな日本らしい切手が三枚ほど貼られている封筒で、気になって送り主な名前をみると、日本の女性。
そして驚いたことに、自分の日本の実家の近所、歩いて5分くらいのところの住所が書かれていました。

送り先はソウルの工場で、韓国人の男性の名前がありまして、日付は1969年の10月17日。
この10月17日というのが、自分のごく親しい人の誕生日だったこともありまして、
この二つの偶然により、その日はこの手紙のことが頭から、ずっと離れませんでした。
送り主の日本人女性と、送り先の韓国人男性は、一体どんな関係だったのか。

そもそも、この一通の手紙は、なにを伝えるために書かれたものだったのか?

どんな事情や経緯によって、この手紙がここに飾られるようになったのかは、定かではないし、
どんな内容の手紙であるかについては、封筒をどれだけ見てみても、知ることもできませんが、
結局のところ、開封された様子がありませんから、この手紙は届くことがなかったのでしょう。
そう考えると、とても残念なことに思えるし、なにかもどかしくも感じられます。

それにしても、手紙というものは、なかなか情緒のあるものです。
相手のことを思って、時間をかけて言葉を選び、暗示によってそっと伝えることもでき、
言葉で伝えようとすると、思わす溢れてしまうような感情を抑えながら丁寧に綴る事も、
心を整理して、何枚も書き直すことによって、伝える相手への配慮が生まれることも、
また、そうやって書き上げた手紙には、意図せずにでも様々な想いが慎ましく潜むようになり、
たとえばそれは、筆跡や行間の余白により、相手に何気なく伝わるものなのかもしれません。

女性の手紙には香りがあると言われるのは、そういう想いが潜んでいるからなのでしょうか。

そして、なによりもその手紙に想いを寄せながら、ふと思ったことは、
この届かない手紙が、その中に相手への何かしらの愛情や、慈しみを含むものであすとすれば、
それはあまりにも、いや、これこそが「祈り」というものではないか、ということです。

感覚的な印象ではありますが、それは相手に届くことがなくても、確かに存在しているもの。

祈りというものには、様々な性格があり、種類があるのでしょうけど、少なくとも自分は、
誰かのために、その人を想って祈るという種の祈りについての、何かとても美しいものを、
その手紙と出会うことによって、信じることができるようになった気がします。

そして、それからは自分も、このような手紙をよく出すようになりました。

また、自分はこう考えています。

この世界は、そんな手紙で溢れていて、その中にはあなた宛の手紙も間違えなくあることでしょう^^。

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他愛ない雑談にしばし時間をお貸しくだされば幸いに思います。


人間は五つの感覚を持っていると教えられた記憶がある。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。

視覚は、光を媒介として色を区別したり、近いものと遠いものを見分けて3次元の現実世界を認識する感覚。
聴覚は、空気を媒介として伝わってくる振動を音の高低及び強弱として認識する感覚。
味覚は、舌の上にある味覚受容体で、口に入れたものの化学的特性を認識する感覚。
嗅覚は、同じく鼻の中にある嗅覚受容体で、吸ったものの化学的特性を認識する感覚。
触覚は、体表つまり皮膚に働くさまざまな種類の外的要因を認識する感覚。

と簡単にまとめてみたが。やはり物事はそう簡単にはいかないらしい。


一昔前、古典物理学を創り上げた秀逸な学者達が、その存在の影すら見出すことも出来なかった、
量子力学というものが、現代の科学の常識となっているように、

この五感と説明されていた感覚についての事実も、やはり現代という強力な時の流れから、
真実というか弱き塔を守っておくには、あまりに弱い地盤に建っていたようだ。

まず、現代科学においては、触覚という単語はもはや本来の意味では使えないという。
生理学的には体性感覚と呼ばれるらしいが、その分類として表在感覚・深部覚・皮膚性感覚として分かれており、
またさらに下位概念として8+種類に分かれているらしい。

味覚も現代の科学においては、ただ味覚だけで食べ物の化学的特性を認識しているのではないという。
つまり味と感じるものには、視覚(見た目)、嗅覚やら記憶やらが大幅に影響するという。

それ以外にも感覚には内臓感覚、平衡感覚などが存在する、と何かに書いてあった。
人は五感を持つなどと言うのは、説話の域にとどまる。


そんなこんなだが、実際のところ、世界を知ろうと躍起になって考え続けた星の数ほどの優秀な科学者達が、
未だに世界の真実を見つけ出せずに、ああではないか、こうではないかと、
仮説ばかりを量産し続けているのだから、上であげたものなど、些細な内容なのだろう。


そう、事実(科学の常識)なんて、時代によって変わり続ける。


そこで、ふと、考えた。
・人間なんて、世界について知ってることよりも知らないことのほうが断然多い。
・人間自体についてだって、知らないことのほうが多い。
この二つを大前提として、先ほど批判したかもしれない仮説と言うものを一つ創り上げてみると、こうなる。


‘人間が気付いていない感覚世界が実在するのではないか’

人間の体には器官があって、その器官を使ってさまざまなものに対する認識を行う。
逆に言えば、人間が器官を持っていなければ、それについての認識は行えないのである。

例えば、人は耳があるから、音というものがどういうものかを理解し、それを聞き取る。
しかし、耳が聞こえない人は、音というものがなんなのかを理解することさえ難しいだろう。

さらに言えば、人間が器官を持っていなくて感じられないからと言って、他の認識世界がないとは言えないのだ。

北極圏に生息するデザトという動物はナタという器官とそれによって認識できるココ覚というものを持っていて、
耳で音を聞き取るように、ナタでココというものを吸い取れるという。
彼らはそれによってココ波動というものを感知し、その場所にどれだけココが溢れているかを知ることが出来る。

なんて事実があったとしても、誰も否定することは出来ないだろう。

冗談はそろそろ終わりにして、さらに仮説遊びを続けてみると、こんなことも言えるかも知れない。


‘人間が気付いていない感覚世界が実在し、
 人間は自分でも気付いていないけど、その感覚世界を認識できる器官を、実はどこかに持っているのではないか’

話の流れを変えるつもりはないが、
ここで天国(想像しにくい方は死んだ後の世界と考えてください)の話を出す。

天国の存在が前提となってしまって申し訳ないが、天国で、人間はどのように存在するのか? 
天国で人間が住むとして、今の体のままで天国にいると想像するのは無理があるような気がする。
しかし、どこにいようとも感覚世界を認識できる器官が必要であろう。
つまりは、いくら天国にいるとしても、周りを見る必要があるし、聞いたり嗅いだり触ったり味わったりする必要があるだろう。
たとえ、今我々が体にある器官を使って行っている方法とは違うにしろだ。むしろ違っていて当たり前だが。

天国に行ってから、見たり聞いたり、その他もろもろをできないならば、そういった器官がないならば、どんな具体的な幸福がありえよう。
かといって、天国に行った瞬間にそのような今持っているものとは別の感覚器官を手に入れられると考えるのも無理がある。

こう考えると、我々の体からはっきりとした証拠を見つけるのは困難だろうが(天国で使うのなら体についていないだろうから)、
やはり我々は今持っている感覚器官とは違うものを、現在も自分という存在のどこかに持っている可能性があるのではないか。

人は音波を耳で認識する。決して目では見えなくとも、その実在を疑う人はいない。
同じように、目には見えない感覚世界とそれを認識する感覚があろうと、誰がその可能性を否めようか。
今の科学では、それがどこにあるのかは分からなくても、
もしかしたら500年後の世界では、人間は十感を有している、なんて事実が生まれているかもしれない。

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