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2009-12-12 撮影:ONnoji ニコン COOLPIX P50
東海館の玄関を後にして、アンジンへ戻る途中、三浦按針メモリアルパークへ立ち寄りました。
三浦按針メモリアルパークは、バイパスを隔ててアンジンの目の前にありますよ。
ここで写真を撮っている時、居合せたオバ様達に記念写真のシャッターを押すように頼まれました。
「ハイハイ」とOKして、手渡されたカメラには液晶ディスプレイがありません。
アレレ?、と思いました。
よく見るとなんと!、フィルムコンパクトカメラだったんですよ。
ファインダーを覗いて、フレームを決めて「ハイ、チーズ!」。
静かにシャッターボタンを押し込みましたが、シャッターが切れません。
内心「オカシイナ??」と思っていると、
カメラの持ち主が「このカメラは古いのでシャッターは思い切り押してください!」と言います。
そうか!、シャッターボタンのストロークが深いのであったか?。すっかり忘れてたぁ〜!。
というわけで、思い切りシャッターボタンを押しましたが…。
後で思い返すと、手ぶれしたかな??。と反省しています。
もしも、手ぶれしていたらゴメンナサイね。
※伊東温泉 アンジン( http://angine.jp/ )
【引用】ウィリアム・アダムス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月26日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。
■日本漂着、家康の引見
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。
■三浦按針となる
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。
この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。
【引用】ロドリゴ・デ・ビベロ 提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ人貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、ドン・ロドリゴの名で知られる。
■日本との関係
フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まる。
1609年次期総督と交代のため召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は難破、9月30日に 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される。なお僚艦の「サンタ・アナ号」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し[2]、もう一隻の「サン・アントニオ号」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。
地元民に救助されたロドリゴ一行は、時の大多喜藩主本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。
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おはようございます。
素敵なオブジェですね。
帆船と空の雲の様子がぴったりです。ポチ!
2010/1/11(月) 午前 10:31
不思議な空間ですね。
伊東という感じがしません・・・
って、伊東のイメージは温泉街!(^^;
2010/1/12(火) 午前 9:53
ONnojiさんでも手ぶれする事があるのですね。
2010/1/12(火) 午前 10:08
おもしろいオブジェ
おんのじさん楽しいものみつけるの得意ですね
ポチン
2010/1/12(火) 午後 3:58
けろけろさん江>ポチありがとうございます。
2010/1/14(木) 午後 11:44
pigletさん江>伊東にはオブジェやモニュメントが多いですよ。
2010/1/14(木) 午後 11:46
GigaOnoさん江>いつまでたってもシャッターが切れないので、思い切り押しちゃいました!。ハハハha。
2010/1/14(木) 午後 11:47
セーラーさん江>ポチありがとうございます。
2010/1/14(木) 午後 11:48