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観勝院の弥勒菩薩半跏思惟像は手のひらを正面に向けています。

特に印を表すような指の表現はありません。

これは何者かによってこの手をもぎ取られた結果

昭和に入って木を削り右手を後補したもので、その時点では右手の印は不明だったのです。

この弥勒菩薩を模写したと思われる奈良神野寺の菩薩半跏像の右手の印は

薬指と小指を折って、中指と人差し指を頬に当てています。

観勝院の弥勒菩薩はこの手印ではなかったかと想像します。



弥勒菩薩というのは釈迦入滅後56億7千万年後に下生し、凡夫を救済する救世主のことで

インドではマイトレーヤと呼ばれ、慈しみを意味します。

インド宗教と兄弟関係にあるゾロアスター教ではミトラ神に対応する。

聖徳太子が摂政をしていたころは飛鳥地方はシルクロードの終点という位置づけだった。

側近の秦の河勝率いる月弓族末裔達は新羅の弥勒を与えられ

これを蜂岡寺に祭ったといいます。

この弥勒菩薩は赤松で造られたものですが

韓国国宝83号とよくよく見比べると

もっとも重要な右手の印が異なることに気づきます。

さらに表情などを見ても広隆寺の弥勒菩薩の方が完成度が高く

どちらがどちらを模写したのかと問われれば

私なら広隆寺の弥勒菩薩の方が先にあったという事が見て取れます。


仏師が宗教心があってある弥勒菩薩像を模写したとしたら

もっとも重要な部分はその像が表している右手の指ではないかと思われます。

広隆寺弥勒菩薩の右手指先の印ですがこの場合薬指と親指が接触しています。

この手の形をすると親指と薬指と手の平で三角形ができます。

これは景教では父と子と聖霊の三位一体を表す形となります。
 
つまり、広隆寺の弥勒菩薩像は、右手でキリスト教の三位一体を表しながら思惟にふけっているということになります。

何故どのような経緯で韓国にこの金銅弥勒菩薩半跏思惟像があるかは不明です。

また東京で発見されたこの韓国国宝83号模写の8.5cmの小さな念持仏も

何故東京にあったか、骨とう品市に出回っていたのか 不明です。

秦の河勝は新羅の帰化人(秦氏と同属のペルシャ人か)に造仏させ

聖徳太子にそれを見せて、蜂岡寺に安置する事の許しを得た

というのが真実かもしれません。検証はこれから という事になるでしょうが・・・・。


ドイツの実在哲学者カール・ヤスパース(1883〜1969)の評。

「私は今まで哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴として、いろいろのモデルに接してきました。

古代ギリシャの神々の彫刻も見たし、ローマ時代に作られて多くのすぐれた彫刻も見たことがあります。

しかしながらそれらのどれにも、まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なものの臭みが残っていました。

理智と美の理想を表現した古代ギリシアの神々の彫像にも、地上的な汚れと人間的な感情が、まだ残されていた。

キリスト教的な愛の表現するローマ時代の宗教的な彫像にも、人間存在の本当に浄化されきった喜びというものが完全に表現されてはいないと思います。

それらのいずれも、程度の差はあっても、まだ地上的な感情の汚れを残した人間の表現であって、本当に人間実存の奥底にまで達し得た者の姿の表徴ではないのです。

然るに、この広隆寺の弥勒像には、真に完成されきった人間の実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽くしています。・・・・・」

と絶賛しています。

この記事に

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    父(ちから)と 子(ことば)と聖霊(愛)
    これが神とイエスと教え という風に捉えることが出来ます。景教は聖徳太子の時代に日本へ入ってきました。厩戸で生まれた聖徳太子は救世主として信仰を集めてゆきます。

    kuu

    2012/8/29(水) 午前 7:35

    返信する

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