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ここ安曇野では天武天皇に当たる人物を皇極の太子と呼んでいた。
皇極の太子・大海人皇子は多氏に養育された。
多氏の本貫地は大和国十市郡飫富郷(オブ)で神武天皇の子の末裔とされる。
九州を神武から与えられ、大分君、火の君、筑紫三家 など・・・は多氏の子孫である。
又、甲斐、信濃にも飯富氏もその一族とされる。
壬申の乱ではこの美濃大和国の古事記編纂で有名な太安萬鷺侶の父である多氏品治が兵を集め不破の関を封鎖した。
オオアマノオウジが育った場所へ逃げ込んだのだった。
大海人皇子が天智天皇の弟というように日本書紀では書かれているが
没年から計算すると622年の生まれとなり、ちょうど聖徳太子の没年になり
輪廻による生まれ変わりと言えなくもない。
書記には653年の皇極太后、間人皇后、弟皇太子らと共に飛鳥へ戻る。
と孝徳天皇を中大兄皇子が難波に置き去りにしたときに現れるが
これが大海人皇子に特定されるものなのかは不明瞭な言い回しである。
また、天武天皇と額田王との間に出来た姫が十市皇女である
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