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仁品王の御所の館建て替え増築の負担増に対する寵臣穂高見の熱躬の諫奏したことが
仁品王の逆鱗に触れ、竹の鞭で熱躬を打った事で主従の関係を熱躬は絶つことになった事件は
おそらく入植から20年程は経っている事だろうと思う。
仁品王は40代後半になっていただろう。熱躬も50代か・・・・
 
その事件を綴った章の前に以下の文章がある。
一、河西の山に一殿を築かせ給う此の山常に仁品王御所に居て今上皇帝宝祚長久を祝賜ふ時向わせ給う山なるに依宝祚谷の館と号け給えり麓に居舎を建て鑑を置き給により居舎坪鑑広表など云地名起る。
イメージ 1
 
 
  仁品の「御所」の地名が残る天正寺から伊勢内宮までの直線図:  http://yahoo.jp/oFXl5z
この南南西25度振れ角方向 250km先に伊勢神宮内宮へピンポイントでたどり着く。
 
この今上皇帝のいやさかを祈るのは日常であっただろうが、仁品王が居住する御所は十日見町は今の竈神社の東北の位置にあったと思われるが、ここから仁品王が望んだ方角には今の大洞山(宝祚谷館のある山)と雨引山を重ねて見ることが出来る。
そしてなぜ仁品王が此の方向を望んだかはその延長上に伊勢神宮内宮があるからであった。
謎の4世紀において、この方向のはるか彼方に伊勢神宮の内宮があるという事を仁品王はどのようにして知ることが出来たのだろう。 今のように正確な地図の無い時代であった。しかし位置はピンポイントでは分かるのかもしれない。星の運行を読み取る事と、それよりはるか昔からの言い伝えによって・・・・。
 
崇神天皇は即位して間もなく疫病飢饉が起こり、それを鎮めようと従来宮中に祀られていた天照大神三輪王朝を宮中から宮外へ祀る事になった。三輪山の神を太田田根子を神主にして祀る事になった。天照大御神は豊鍬入姫に託し檜原神社に鎮座したが、垂仁天皇の時代に伊勢へと移された。
仁品王は垂仁天皇の弟に当たる。

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