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三日町と借馬遺跡

 
イメージ 1大町古墳群は三日町の旧道を挟んで南北に方形墳が14基と借馬遺跡の傍に大型円墳が2基と方墳が1基ある。
赤く鳥居のあるところは現在蚕玉(こだま)神社となっていて、この神社がこれらの古墳群を護っているかのようだ。
地名の大笹とは大陵(おおささ)のことではないかと思う。
 
またこの大町古墳群の北3kmに平(たいら)古墳群がある。この古墳群はほとんどが円墳で横穴式積石塚古墳が6基ある。この特徴は朝鮮半島伽耶の墳墓形式で、鉄を採取するために集められた人々ではないかと思う。長野県では千曲川に多くの積石塚があって、時代は古墳時代中期〜後期。
中でも新郷1号墳は大きさ南北12m東西10m高さ2mの円墳で横穴式石室は8m高さ1.5m幅1.5mで4体の人骨が発見された。
出土品に轡(くつわ)がある事から馬を管理していたことがわかる。副葬品はもちろん太刀5振り鉄鏃50本など、戦に係る兵器があった。これは6世紀後半のモノだとの事。いわゆる欽明時代に大伴の金村が任那の統治に失敗して新羅に伽耶は併吞された事件があって、多くの伽耶の人々が亡命した可能性があり、平にもそういった人々が入植した可能性がある。
この頃ようやく日本でも鉄の自給が可能になって、大伽耶の滅亡をきっかけに、多くの鉄に係る技術者の流入があった。
以前から気になっていたのだが、木崎湖から流れ出る川を農具川と呼ぶ。何故農具川か。妙な名前を付けたものだ。農具を洗ったのか、と連想される。しかしよく考えてみると、木崎の平地区の遺跡が積石塚であったとしたら、伽耶人が鉄で農具を造った場所だから農具川とよぶようになったのかもしれないという事に気づく。この時代の鉄の刃先が装着された農具は非常に貴重で、一般の人が所有することなどできなかっただろうと考えると、この地の有力者がこれを管理し、農地の開墾や田の耕耘に使わせていたと考える方が妥当かも知れない。
 
仁科濫觴記によると仁品王には馬飼部として海川求馬(もとめ)という家臣がいた。仁品王が平地区の源及(げんきゅう)地籍の追い出し放し場を視察したことが書かれている。大町温泉郷から北1.5kmに源及神明社があり、小熊山南の麓に沿って流れる鹿島川を下り、東へ行くと平(たいら)の古墳群に当たる。

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