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鞍作止利の祖父、司馬達等は522年來朝した帰化人である。
倭への仏教公伝は538年だから、それに遡ること16年にして、既に熱心な仏教徒であったと思われる。高市郡坂田原に住み、草堂を立てて本尊を祀っていた。
扶桑略記には大唐漢人案部村主司馬達等入朝と書かれている。
時は継体天皇の御世である。
これより遡ること約100年、425年、倭の五王のうち履中天皇の時代に大和朝廷は宋に司馬曹達を遣使している。
421年には履中天皇は既に文帝より安東将軍の叙綬の詔をうけている。
大和朝廷が宋への遣使に対する礼儀作法等を司る高官として司馬氏一族は大和朝廷に帰化していたと思われる。司馬氏は後漢、三国時代、曹操の配下で殷王の名門の家系であった。
そこへ司馬氏を頼って大陸から達人が入境したと考えられる。
しかし達等と名乗るだけあって、それなりの司馬氏直系の血統であっただろうと推定できる。達の字を名前に入れることは司馬氏にとってはなかなか許される事ではなかったはずなのである。
この鞍の透かし彫りは鞍作止利で、587年に馬子によって殺された穴穂部の王子の為のものではないかと言われている。聖徳太子の叔父にあたる。
鞍作止利は法興寺の大仏を鋳造した仏師として有名だが、これ以降王家お抱えの仏師として富と名声を得てゆく。馬子が法興寺の大仏を発願したのは605年である。この時初めて彫金師であった止利は造仏に取り組んだ。
年齢が不詳なのでいつ生まれたかもわからないが、祖父が522年に来朝している。その子多須奈は590年出家して徳斉法師として坂田に寺を創建している。多須奈の妹は善信尼として最初の尼となり、百済に留学し戒律を学んでいる。善信尼が仏教迫害にあって海石榴市で物部守屋に鞭打ちされたのを止利は見ていたであろう。
止利はロウによる鋳物師でもあり、彫金などの技術も持っている。藤ノ木古墳の遺品の中にある鞍などはこの司馬達等の孫である鞍作止利が制作したものではないかとも思える。
藤ノ木古墳の遺体は穴穂部皇子と宅部王子だと言われている。587年、用明天皇崩御直後に蘇我馬子によって誅殺されている。
聖徳太子の母は穴穂部の間人である。殺された王子の姉に当たる。
587年の頃、聖徳太子も間人も飛鳥から姿を消していて、丹後の間人(たいざ)岬に居た。丹後半島は九州の豊後との繋がりが強く、新羅の影響が強く、また安曇族など、海部の地でもある。
止利は聖徳太子の叔父である穴穂部の王子の為の遺品を製作した。
かれは、他にも法隆寺の本尊や、聖徳太子が亡くなった時に、救世観音を製作している。秦氏に近い関係が見え隠れする。
この司馬氏は大化の改新以降、仏師として主流派ではなくなってゆくのである。
この時を境に、王辰爾の子供たちである船氏が歴史の表に出てくるのである。
王辰爾、司馬達等の両氏は蘇我氏の庇護の下、力を蓄えてきた帰化人であった。
しかし、大化の改新以降、蘇我氏が没落するとそれに寄り添うように鞍作村主(くらつくりのすぐり)は姿を潜め、船氏は天智天皇の庇護の下、力をつけてゆくことになる。
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