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片岡の飢人伝説 613年
この中でカミツノミヤが歌った歌:
道に飢えて死のうとしている 伏せるこの旅人哀れ
この親も彼に食べ物を与えることができない お前は親は無いというのか
大和の大君(天皇)さえもだが この旅人哀れ
為政者としてどうしようもない無力感に襲われたかみつのみやの心境である。
食事を与え自ら絹衣をかけてあげたというのはまだ良いが
その尾ひれとして翌日その屍を葬ったが
更にある日使いを出し、墓を訪ねさせ、
すると絹衣はたたんであり、柩は空だった事
だるまの化身だったこと、太子が飢え人にかけた絹頃もを羽織ったこと。
(この復活の部分はだるまが片方の靴を残して墓から消えた故事がある画像) などなど
真人は真人を見抜く心眼があるというくだりなどはまさに尾ひれというしかないのである。
維摩経義疏を書き上げ達成感に浸って、遊行に出かけた時に飢饉でもないのに税を納めに来た旅人が帰路に飢えて倒れ、死にかけている状況に遭遇したということなのである。
為政者として、仏教を第一義に掲げ、施政を施したとしても、仏教という教義ではこうした哀れな人を救うことができないのだということを知ってしまった瞬間だったのだと思う。
百済の聖明王は仏教の無力さを知り、自ら戦いの地へ出向いて死を受け入れたように
長い平和の先に、結局部下の反乱によって殺された有徳の皇帝 梁の武帝にみるように
かれは現実の世界と仏教の示している世界との乖離に苦しんだのではないかと思う。
このことは、彼が摂政になった時に、政治は太陽のように万民に隔たりなく恩恵を浴びせるように
地から湧き出る温泉のように弱者をいたわるものでなくてはならないと
伊予の碑文に残した漢詩のように決意して始まった政治の帰結と言えるだろう。
カミツノミヤは実際に存在した為政者だと思うのはそういった数十年の心の推移が彼の残した遺物の中から伺えるからである。
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