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高向神社由来
今より千四百年前武内宿弥六世の孫高向氏此の地一帯を統治し高向の郷と稱す 後の 高椋村は之による 其の本拠は高田村に在り 高向氏の一女振媛命近江長浜に在住の応神天皇 五世の孫彦主人大臣に嫁す 三児をもうけたるも夫君に先だたれ児を伴いて母在ます 高田村に帰る 第一皇子男大迹王尊長ずるに及び九頭龍川の治水農耕の開発等越前に治績多 し第廿四代武烈天皇没後嗣子なく中央より大連大伴金村物部鹿々火等に迎えられて第廿 五代の皇位につく 後に継体天皇と諡す 御陵は大阪府攝津市藍野に在り当神社は振媛命と夫君祖応神天皇を祀る 。 以上は福井県にある高向氏の由来だが、河内長野にも高向という地名が残っている。
もうちとつ、用明天皇が犯した斎王の子が高向であったような気がする。
なぜ皇極天皇(宝姫)は田村の王子と再婚したのだろう
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おはようございます。
なぜか古代史学者があまり触れていませんが、
「なぜ皇極天皇(宝姫)は田村の王子と再婚したのだろう」、
日本書紀を理解する上で、最大のポイントの一つだと思います。
[ 記紀いっぱつ ]
2015/12/29(火) 午前 7:41
歴史書古事記を残そうとした大海人皇子は田村の王子の子ではない、ということをぼやかしたのが持統天皇と藤原不比等が残した日本書紀や続日本記ということなのでしょうか。
2015/12/29(火) 午前 9:56
持統の父親である天智を舒明の子としたのが、
藤原不比等のアイデアだったのではないかと思います。
古事記序に天智の影すら全く出てきません。
天武にとってすでに天智はノーカウントだったようです。
[ 記紀いっぱつ ]
2015/12/29(火) 午前 11:36
中大兄皇子はいったい何者だったのでしょうか。中のというのはどういう意味なのでしょう、大兄の皇子ではないと言いたいのでしょうか。
2015/12/29(火) 午後 1:19
舒明の子に古人大兄がいて、もうひとり大兄がいるのは不自然です。
大兄皇子でなかったので即位に時間がかかったのではないでしょうか。
[ 記紀いっぱつ ]
2015/12/29(火) 午後 3:05
> 記紀いっぱつさん
舒明の皇子古人大兄の皇子ともうひとり宝の皇女の連れ子がいたとしたら、それは大兄の皇子とは言わないでしょうね。古人王子が乙巳の変で「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」と叫んだそうですが、カラヒトというのは誰を指していったのでしょう。
2015/12/31(木) 午前 9:40
横からすみません、推測なのですが、中大兄が雇っていた、暗殺実行部隊が韓人だったのではないかと個人的に思っています。皇子もおそらく剣をお持ちだったでしょうが、彼お一人でかかっていくとは思えないので、暗殺は数人で行われたのではないかと 古人大兄が現場を目撃されたとするなら、実際入鹿を刺したのが韓人(外国人)いう気がします。
[ きゃてい ]
2019/3/4(月) 午前 1:38
> きゃていさん
壬申の乱で大友皇子を加勢したのが辛人でした。百済人の集団です。最後まで頑張ったんですが彼らは痛手を負ったと思います。光仁天皇が生れるまで。
2019/8/22(木) 午後 0:48