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 天智天皇即位から2年後の670年に世は乱れ、火付けが横行し、いかるが寺も全焼してしまいました。
唐は高句麗を滅ぼしました。次は倭国か という緊張した時代ではあります。
しかしこの年、既に法隆寺の金堂は建築に着手されていたようです。
それは聖徳宗の門徒衆の民間の力で進められていたものでした。
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完成したのは690年頃となるでしょうが、天智天皇が672年に崩御し、
壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都し翌673年天武天皇として即位しました。

法隆寺金堂にて持統7年(692年)仁王会が行なわれたという記録があることから
この頃には金堂は出来上がっていた模様です。

 橘の三千代は665年生まれといいますから仁王会の時(692年)は27歳です。
683年生まれの軽皇子(文武天皇)の乳母として9年目を迎えていたわけです。
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        三千代が所持していた伝橘夫人厨子              阿弥陀如来像

 この時が橘の三千代が聖徳太子とはどのような人だったかを知るきっかけになった日ではなかったでしょうか。
694年に三千代の亭主美奴王が大宰師として九州大宰府に赴き、三千代(29才)は多分持統天皇の指示で軽の皇子11歳の乳母として宮に残され、そして彼女は藤原不比等に寝取られてしまいます。
701年36歳にして後の聖武天皇の后となる光明子を産むことになるのです。

この頃、持統天皇は藤原不比等を引き上げて、軽の皇子を15歳にして697年8月文武天皇として即位させています。
同時に不比等の娘宮子を后にしています。
持統天皇は夫であった天武天皇の血を引く王子を継続させる使命を藤原不比等に課して、その代わり藤原一族から皇后を立てる事を命じます。おそらく藤原不比等は持統天皇の父天智天皇の子供であることを知っているかのようです。
持統天皇は自分が生んだ草壁皇子とその子軽皇子の血を残すために大津皇子に死を賜り、長屋王を讒言で誅し、多くの王族を滅ぼしました。これを直接手を汚しながら実行したのが藤原不比等だったのです。

かつて、蘇我入鹿が皇極天皇の命令でカミツノミヤの嫡子山背大兄皇子一家を自殺に追い込んだように、女人とは我が子の末を守るためにはどんな手段も厭わずに取ったということでしょう。
藤原不比等の心の痛みは夫人である橘三千代が一番よく理解していたあと思われます。
それが、彼女が法隆寺の再建にのめり込んでいった一番大きなきっかけではなかったでしょうか。

彼女の子、光明皇后がその思いを引き継いで、聖武天皇のために法隆寺にそっと百済観音を北向きに配置したのも
聖武天皇が人知れず法隆寺金堂に向かって手を合わせることができるように取り計らった可能性があります。

中宮寺には弥勒菩薩の彫像がありますが
寄木を彫刻して、その上に漆を使って盛り上げて彩色を施す手法ですが
この目元を見ると、このまぶたの膨らみなどはまさに橘三千代の念持仏阿弥陀像にそっくりです。
また同時に百済観音も同様の目元をしていたと思われます。

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