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  • チャート

    画像の中央の山肌があらわになっている箇所がチャートの露頭である。 この山は雨引山の麓にあるが、城山から大洞山、そして雨引山に至る一連の尾根を形成している屏風が全てチャートで構成されている。これより西側は花崗岩によって形成されている。 チャートは石英が地下でゆっくりと熱変成されたもので、主成分は酸化ケイ素(SiO2)である。 縄文人がここからチャートの塊を抱き抱えていって、すり鉢で細かく砕き、さらに水に流しながら石英の子なの粒度を分離して研削剤や粒度の細かい研磨剤を作...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2014/12/12(金) 午前 10:42

  • 祈りの国

    日本国は多くの神々に守られた祈りの国とは言えないだろうか。 家族の中で死者が出ると、翌年のお盆にはその魂を迎え入れる。 死者はいずれ神となって我が家族を守る事となる。 太平洋戦争で戦死した人々も、また戦火の犠牲になった人々も同様であろう。 今靖国に祀られている200有余万のみ柱のすべてがその数倍の家族の守り神となっているのである。 人々が、もちろん国の為に戦った兵士に哀悼の意をささげるのも 遺族として我が身を守ってくれるように

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2014/8/21(木) 午前 9:16

  • 仁科濫觴記の信憑性

    仁科家に伝わる仁科濫觴記は「第10代崇神天皇の子」という所からその家伝は始まっている。 この歴史書がまだ日本に文字があったかどうか判らない時からのもので さらに安曇平の北部、高瀬川水系を開墾した歴史でる。 一体誰がこの歴史書を文書にしたのだろうか   複数の人の筆致と複数の時代の書き足しによって完成しているため 何処から何処までが何時書かれたかという事を分析する必要があるが   ただはっきり言えることはこの地には仁科神明宮が残り...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2014/2/23(日) 午前 11:08

  • 仁品王の建築した御所の位置

    仁科氏の 政庁 居館 「館を建てさせ賜わんとて 地理を見立て四神相応の地理に叶えリとて城館を築かせ、仁品親王入城御なり賜ひ、御所と奉称、臣下は築地の外面に居舎を建て住居し勤仕せり、亦御所の門外に一宇の会社を建て止歩可見庁と号(なづ)け衆臣の事を論ぜんとなり。」   この現在の大町市の中心街となっている十日町の天正寺界隈の建物群を仁品王城と呼び、その館外もすべて王町と言われていた。    以上地図は仁科宗一郎氏が現地に残る地名と仁科濫觴...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2014/2/3(月) 午前 10:54

  • 皇極の太子

    仁科濫觴記に白雉5年の春の事が書かれています。 白雉5年というのは孝徳天皇が崩御した年(654年)に当たりますが その前年の白雉4年書記では中大兄皇子が難波から孝徳天皇の皇后間人、大后・斉明弟皇子を引き連れて飛鳥へ戻ってしまったという事件が記録されている年です。 この年に皇極の太子は安曇の地をおとずれ 穂高神社を郡宮として建てさせたという。   つまり、盛んに孝徳天皇の意志の下仕事に励んでいる様子が分かります。   そしてその翌...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2013/11/13(水) 午後 6:25

  • 高瀬川の褐鉄鉱が沈着した石

    今日は高瀬川を歩いてみる。 水酸化鉄を含んだ石がところどころにあって それを割ってみた。 高瀬川の支流の石が混じっている事を示している。   以前乳川(ちがわ)の語源は血ではないかと書いたことがあって どうもかつて太古、乳川は高瀬川と合流していた可能性がある。   他にも赤い川があったならその川を探索してみたい。 これが、伽耶の人々がこの地に移り住んだ可能性を示しているからである。   水酸化鉄...

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    2013/10/26(土) 午後 5:14

  • 定恵 653年遣唐使船に乗る

    孝徳の治世白雉4年(653)5月 この時わずか11歳であった学問僧 定恵は遣唐使船に乗って唐へ旅立った。この時の学問僧の顔ぶれは 道厳・道通・道光・恵施・覚勝・辨正・恵照・僧忍・知聰・道昭・安達・道觀・知辨、学生の巨勢臣薬・氷連老人・坂合部連磐積である。 この後、私の注目するのは道昭である。 またその翌年2月、矢継ぎ早に遣唐使が送られ、その船には高向玄理がいた。 定恵の師である志賀の漢人慧穏(しがのあやひとえおん)と高向玄理は608年遣隋使小野妹子

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2013/10/24(木) 午後 3:52

  • ある人が云う 大海人皇子は漢皇子の事か

    天智天皇大海人皇子間人皇后は皇極天皇の子であると書紀では言っているが 敢えて、宝姫王(皇極天皇)は一度高向王に嫁いだが 蘇我蝦夷によって田村の皇子(舒明天皇)の后となった。 という再婚歴を載せている。   宝姫王は蘇我氏系の王女で用明天皇の末弟である桜井皇子と吉備姫との子である。 高向王は小野妹子と共に唐に渡り608年、640年帰朝し僧旻と共に大化の改新以後、国学士として 活躍した。654年再び唐へ押使として派遣され客死している。 しかし...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2013/10/20(日) 午後 5:32

  • 土師氏と仁品王陵

    常盤西山地区に仁品王の家臣であった土師氏を祀った土師神社という杜がある。   景行天皇の時代、仁品王の側近・穂高見熱躬(ほたかみのあつみ)との不和により 仁品親王の懊悩と死があって、 仁品親王の墓は「宝祚谷の西の山奥 清浄なるところに陵を築き奉り、神送廟廊を建て喪を勤めしとなり」と仁科濫觴記にある。   古代においては死は忌むべきことであった。 これを護る家系もはしべ、泥部、土師、ハシタとしての身分があった。 その身分は仁科神明宮の中に...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2013/9/26(木) 午後 6:11

  • 定恵

    定恵は性は聡明にして学を好みました。   父鎌足は定恵は鍛えることによって美しい青年となる事を期待して唐へ送り出そうとしました。   書記によると 孝徳4年(648)の遣唐使一行として道昭と共に渡唐し17年後の天智4年(665) 9月23日に劉徳高らの船にのって帰国しました。   そして、『藤氏家伝』によると、665年秋9月を以て、百斉を経て京師に来る。とあります。   定恵が百斉に留まっていた時に詩一...

    人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天

    2013/7/24(水) 午後 6:04

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