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チャート
画像の中央の山肌があらわになっている箇所がチャートの露頭である。 この山は雨引山の麓にあるが、城山から大洞山、そして雨引山に至る一連の尾根を形成している屏風が全てチャートで構成されている。これより西側は花崗岩によって形成されている。 チャートは石英が地下でゆっくりと熱変成されたもので、主成分は酸化ケイ素(SiO2)である。 縄文人がここからチャートの塊を抱き抱えていって、すり鉢で細かく砕き、さらに水に流しながら石英の子なの粒度を分離して研削剤や粒度の細かい研磨剤を作...
人生は人の役に立つものでもあり、みずから楽しむものでもある白楽天
2014/12/12(金) 午前 10:42
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仁品王の建築した御所の位置
仁科氏の 政庁 居館 「館を建てさせ賜わんとて 地理を見立て四神相応の地理に叶えリとて城館を築かせ、仁品親王入城御なり賜ひ、御所と奉称、臣下は築地の外面に居舎を建て住居し勤仕せり、亦御所の門外に一宇の会社を建て止歩可見庁と号(なづ)け衆臣の事を論ぜんとなり。」 この現在の大町市の中心街となっている十日町の天正寺界隈の建物群を仁品王城と呼び、その館外もすべて王町と言われていた。 以上地図は仁科宗一郎氏が現地に残る地名と仁科濫觴...
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2014/2/3(月) 午前 10:54
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高瀬川の褐鉄鉱が沈着した石
今日は高瀬川を歩いてみる。 水酸化鉄を含んだ石がところどころにあって それを割ってみた。 高瀬川の支流の石が混じっている事を示している。 以前乳川(ちがわ)の語源は血ではないかと書いたことがあって どうもかつて太古、乳川は高瀬川と合流していた可能性がある。 他にも赤い川があったならその川を探索してみたい。 これが、伽耶の人々がこの地に移り住んだ可能性を示しているからである。 水酸化鉄...
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2013/10/26(土) 午後 5:14
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定恵 653年遣唐使船に乗る
孝徳の治世白雉4年(653)5月 この時わずか11歳であった学問僧 定恵は遣唐使船に乗って唐へ旅立った。この時の学問僧の顔ぶれは 道厳・道通・道光・恵施・覚勝・辨正・恵照・僧忍・知聰・道昭・安達・道觀・知辨、学生の巨勢臣薬・氷連老人・坂合部連磐積である。 この後、私の注目するのは道昭である。 またその翌年2月、矢継ぎ早に遣唐使が送られ、その船には高向玄理がいた。 定恵の師である志賀の漢人慧穏(しがのあやひとえおん)と高向玄理は608年遣隋使小野妹子
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2013/10/24(木) 午後 3:52
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ある人が云う 大海人皇子は漢皇子の事か
天智天皇大海人皇子間人皇后は皇極天皇の子であると書紀では言っているが 敢えて、宝姫王(皇極天皇)は一度高向王に嫁いだが 蘇我蝦夷によって田村の皇子(舒明天皇)の后となった。 という再婚歴を載せている。 宝姫王は蘇我氏系の王女で用明天皇の末弟である桜井皇子と吉備姫との子である。 高向王は小野妹子と共に唐に渡り608年、640年帰朝し僧旻と共に大化の改新以後、国学士として 活躍した。654年再び唐へ押使として派遣され客死している。 しかし...
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2013/10/20(日) 午後 5:32
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土師氏と仁品王陵
常盤西山地区に仁品王の家臣であった土師氏を祀った土師神社という杜がある。 景行天皇の時代、仁品王の側近・穂高見熱躬(ほたかみのあつみ)との不和により 仁品親王の懊悩と死があって、 仁品親王の墓は「宝祚谷の西の山奥 清浄なるところに陵を築き奉り、神送廟廊を建て喪を勤めしとなり」と仁科濫觴記にある。 古代においては死は忌むべきことであった。 これを護る家系もはしべ、泥部、土師、ハシタとしての身分があった。 その身分は仁科神明宮の中に...
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2013/9/26(木) 午後 6:11
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定恵
定恵は性は聡明にして学を好みました。 父鎌足は定恵は鍛えることによって美しい青年となる事を期待して唐へ送り出そうとしました。 書記によると 孝徳4年(648)の遣唐使一行として道昭と共に渡唐し17年後の天智4年(665) 9月23日に劉徳高らの船にのって帰国しました。 そして、『藤氏家伝』によると、665年秋9月を以て、百斉を経て京師に来る。とあります。 定恵が百斉に留まっていた時に詩一...
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2013/7/24(水) 午後 6:04






