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北斎肉筆白拍子
静御前が初冬の吉野で僧兵に拘束されたのは、義経と別れて間もなくの事だったが、しばらくは京に連行され北条時政(政子の父)に引き渡された。翌年3月に鎌倉に連行され、4月に頼朝から鶴岡八幡宮奉納の舞を命ぜられる。
静がその日の装束には、白き小袖一襲、唐綾を上に引重ねて、割菱縫いたる水干に、丈なる髪高らかに結ひなして、此程の嘆きに面痩せて、薄化粧眉ほそやかに作りなし、皆紅の扇を開き、宝殿に向ひて立ちたりける。さすが鎌倉殿の御前にての舞なれば、面映ゆくや思ひけん、舞かねてぞ躊躇ひける。二位殿はこれを御覧じて、「去年の冬、四国の波の上にて揺られ、吉野の雪に迷ひ、今年は海道の長旅にて、痩せ衰へ見えたれども、静を見るに、わが朝に女あり共知られたり」とぞ仰せられける。
その日は、白拍子多く知りたれども、殊にこころに染むものなれば、しんむじやうの曲といふ白拍子の上手なれば、こころも及ばぬ声色にて、はたと上げてぞ歌ひける。上下あと感ずる声雲にも響くばかりなり。近きは聞きて感じけり。声も聞えぬもさこそあるらめとてぞ感じける。しんむしやうの曲半ばかり数へたりける所に祐経こころなしとや思ひけん、水干の袖を外して、せめをぞ打ちたりける。静「君が代の」と上げたりければ、人々これ しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな |
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白河上皇の幼女で鳥羽天皇の中宮となり崇徳天皇と後白河天皇の生母
何不住なく育ち明るく奔放な性格だが後ろ盾だった白河上皇没後鳥羽天皇に疎まれ没落してゆく。鳥羽天皇の北面の武士佐藤義清(後の西行法師)は17歳年上の子の中宮に一目ぼれしてしまう。父と慕う鳥羽天皇とその中宮に恋慕してしまうこの罪悪感と当時の自領の荘園土地問題や親友の突然の死など、人の世の無常を憂い出家を決心して西行法師となる。そのきっかけを作った女性。歌は残さなかった。
待賢門院璋子を思って
さまざまに 思いみだるる こころをば
君がもとにぞ 束(つか)ねあつむる (あなたを思っては様々に乱れる心を、結局またあなたのもとに束ねて集めるのです)
今ぞ知る 思いでよと ちぎりしは
忘れむとての 情けなりけり (今やっとわかりました。思い出してくださいねと約束したのは、あなたは、若いから私がいつかこの日のことを忘れてしまうから、というその時のわたしへの慰めだったのですね。)
これとかの有名な
嘆けとて 月やはものを 思わする
かこち顔なる わが涙かな ( 「嘆け」と言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだ
ろうか? いや、そうではない。(恋の悩みだというのに)月の せいだとばかりに流れる私の涙なのだよ) 西行が待賢門院へのあふれ出る恋情を歌っていますね。
西行よりも17歳年上の高貴な上臈(じょうろう)女房殿。鳥羽天皇から疎まれて、法金剛院にて落飾(髪を切って)して住まうのですが、絶代の美貌を慕い、仕える女人も堀河のような有名な歌人など、多くの才女、貴人が集まっていたようです。 しかし3年後、疱瘡が原因で病勝ちとなり、長兄の三条高倉第にお移りになり、1145年8月22日、45歳でこの世を去ってしまいます。 |






