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書庫聖徳太子

日本の国家体形を最初に指し示した偉人。
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京都府左京区八瀬近衛町にある妙伝寺本尊:如意輪観音菩薩半跏思惟像(高さ約50センチ)が、仏教伝来から間もない7世紀ごろに朝鮮半島で作られた金銅仏である可能性が高いと2017年1月13日、調査した大阪大の藤岡穣(ゆたか)教授(54)=東洋美術史=が発表した。
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如意輪観音と呼ばれるのは宝冠に如意宝珠と法輪をあしらってある事に由来している。如意輪観音の基本的特徴としては六臂、座像なのだが、八瀬妙伝寺の本尊は二臂の半跏思惟像である。宝冠正面に坐化仏を表しているので観音菩薩である事が分かる。細部にわたって造形は完成度が高く、形式を長い間踏襲してきて完成の域に達している。造仏された場所は百済旧都郊外扶余辺りだろうと思われる。

 長野県北安曇郡松川村にある観松院弥勒菩薩半跏思惟像も宝冠に如意宝珠と法輪をあしらってある。かつて1650年高辻組鑑に観音堂の記録が残っている。

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これを8年後久保田佐次兵衛が私有地に移動させて如意輪観音勧請奉祀したのが今の観松院の場所である。この如意輪観音(後に弥勒菩薩半跏思惟像に変更)も百済伝来の仏像であったが、倭の地に移りきて、蘇我氏の管理下に置かれていたであろうことが、法隆寺釈迦三尊像の脇侍の菩薩立像の宝冠のモチーフが一致していることから推断できる。(他に夢殿救世観音、法隆寺献納仏155号、166号、岡寺の半跏像他)

これらは蘇我氏のもとで造仏をしていた鞍作の止利が渡来仏をスケッチしてモチーフをトレースしたものではないか。

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ただ、観松院の弥勒菩薩は火中に置かれ、鍍金が剥がれ、細かいところが焼けただれてしまったが、八瀬妙伝寺の如意輪観音菩薩半跏像は災禍に会うこともなく無事今にその美しい姿を伝えている。

この八瀬近衛町妙伝寺の本尊如意輪観音像を作らせた百済国王は時代的には25代武寧王462年- 523年、26代聖王523年-554年、あるいは その子、27代威徳王554年-598年、29代武王600年−641年あたりに特定できる。この仏像が桓武天皇の母、高野新笠の所有物であったとしたら、これは武寧王が百済に召喚され、やむなく倭に残したわが子、淳陀太子 に直接渡した可能性がある。時代的には460年頃にまで溯ってしまう。

聖明王が一光三尊像と経論を献上したのが欽明天皇、蘇我稲目の時代、538年である。此の時すでに聖明王の兄、淳陀太子は亡くなっている(513年没)。百済からの聖明王の使者は当然淳陀太子の子孫のいるところを訪ねているはずだから、百済製作の渡来仏を渡している可能性は残っている。これが幾代か時代が下って、武寧王の末裔である高野新笠の手に届くということも可能性はある。

藤原氏が天皇の外戚の地位を争って次々に皇子を粛正してしまった結果、天武天皇の直系有資格者は皆無となり、天智天皇の孫に当たる高野新笠を夫人とする白壁王(後の49代・光仁天皇)が48代称徳天皇の後、即位(770年)することになった。高野新笠の子は50代・桓武天皇となるが、彼は実子を皇太子にするためにすでに皇太子であった弟の早良親王を謀反の罪に陥れた。この兄弟の骨肉の争いを母高野新笠はどうする事も出来ず、自分の子が幽閉され、死を賜るまでを見ていたのである。当時桓武天皇は天智天皇が残した 不常改典 に従って人事を動かしていた。「 皇位はわが子に授けることを規定している。」 弟、早良皇太子は廃太子させられる運命であったのだ。 藤原種継暗殺 事件は785年9月28日に起きた。早良皇太子は首謀者として逮捕され、幽閉された乙訓寺は高野新笠の本貫地から約10kmの距離にあった。この身の丈50㎝の如意輪観音の力にすがるため、高野新笠はこれを八瀬童子に運ばせた可能性はある。早良親王は淡路に引き立てられ、その途上で絶食衰弱死したように見えるが、幽閉され毒物を供されれば食を立つ以外にすべはないのである。主のいなくなった乙訓寺から八瀬童子達はこの仏像を主の形見として八瀬近衛町に辻堂を建て、永代供養を続けてきたかもしれない。

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天智天皇は弥勒信仰を強く抱いていた。自らも弥勒菩薩念持仏を持ち、衆生の救済や国家安寧を目指した改革にまい進した。天智天皇の自念仏は孫の大友与多王 が天武天皇の許可を得て三井寺(園城寺)を創建し弥勒菩薩を本尊としている。天智天皇のひ孫である桓武天皇はもちろん天智天皇意識し、彼の辿った道を突き進もうとしたのであった。

ひょっとすると桓武天皇は曽祖父のご落胤が仁品氏を継いでいることを知っていたのかもしれない。天平神護2年4月(766年)、かのご落胤、仁品高明王は逝去して、その第1子・美濃守の子が31歳となり、和泉の守を名乗っていた。早良親王が憤死したのが785年、此の時、天智天皇のご落胤・高明王の孫・和泉の守50歳だった。延暦8年(790年)桓武天皇の「八面大王追討」の宣旨が下り、仁品氏が京から差し向けられた坂の上田村麿の援護によって安曇氏残党の壊滅を図った。此の時仁品の里の和泉の守55歳、長岡京の桓武天皇53歳である。
 桓武天皇は終生怨霊に悩まされた。怨霊は自らの心の中に住んでしまった鬼の事でもある。権力をかき集める為粛正を繰り返したことが、自らの良心に攻められる結果となったわけである。イメージ 5

 桓武天皇の近親に祟りが起こり始めます。まず、 夫人の藤原旅子が病死788年5/4。続いて生母の高野新笠が死亡790年1/21。ついには、皇太子の安殿親王までもが重病となってしまいます。その間、長岡京は2度の洪水に襲われ、飢饉や疫病が発生。さすがに、ここまで不幸が続くのはおかしい。これが早良親王の怨霊が起こした事であると信じ、怨霊封じのために亡骸を大和に戻し、様々な鎮魂を行いました。

高野新笠の地、旧高野村にも祟導天皇を主祭神とした祟導神社があります。

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この字神社の裏には小野妹子の墓があるというのも何かを暗示しているのかもしれません。他に、この神社に合祀されている神があります。伊多太(イタタ)大神です。これはタタラという鉄の神です。

 諏訪にも美鈴があるように褐鉄鉱を還元して粗鉄を生産する技術が八瀬の鬼衆にはあったと考えます。八瀬が奥の大原と同様に薪炭の生産地でもあり、京都の町中を薪炭を頭に乗せた売り子小原女(おはらめ)が売り歩き御所の竈の燃料を供給していました。イメージ 7
旧山城国八瀬郷、今の京都府左京区 八瀬近衛町の如意輪観音があえて名有る寺の本尊ではなく、長い間念仏堂に祀られていて、平成4年に妙伝寺に収まったという経緯から考えても、八瀬童子が天皇の亡骸を運ぶ役割を古くからになってきたことを考えても、どうも悲運に亡くなった天皇や后、王子たちの亡骸と共に彼らの祈りの対象であった自念仏を運ぶこともあったのではないだろうか。
太古の時代から鬼と呼ばれ、伊吹山では日本武尊を殺し、比叡山では最澄に追い出され、 麓に住み着いて延暦寺に仕えていた八瀬童子 は実は山の民、縄文人の直系ではないかといわれている。
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この鬼ともいわれている八瀬童子は壬申の乱では大海人皇子の傷を癒し、後醍醐天皇が足利尊氏に追われた時も比叡山に匿った。天皇の棺を背負ったり、大嘗祭の輿を背負ったり、御幸の際の雑務をこなす皇室の私的機関の任を背負っていた。



以下は美智子妃殿下が八瀬の民に贈った歌一首である。

大君の御幸(みゆき)祝ふと八瀬童子(やせどうじ)
       踊りくれたり月若き夜に     皇后美智子
歌意  :天皇陛下の行幸啓をお祝いする爲に、三日月の夜に
遙か古へより御輿を担ふお役目 であつた八瀬童子の方々が
踊りを披露して下さいました。
皇室が親しみと尊敬を込めて八瀬童子衆の好意を受け止め
ているのがよくわかる。我々が歴史では学ぶことがなかった、
裏の真実がここから垣間見えるようになるだろう事を期待する。
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 天智天皇即位から2年後の670年に世は乱れ、火付けが横行し、いかるが寺も全焼してしまいました。
唐は高句麗を滅ぼしました。次は倭国か という緊張した時代ではあります。
しかしこの年、既に法隆寺の金堂は建築に着手されていたようです。
それは聖徳宗の門徒衆の民間の力で進められていたものでした。
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完成したのは690年頃となるでしょうが、天智天皇が672年に崩御し、
壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都し翌673年天武天皇として即位しました。

法隆寺金堂にて持統7年(692年)仁王会が行なわれたという記録があることから
この頃には金堂は出来上がっていた模様です。

 橘の三千代は665年生まれといいますから仁王会の時(692年)は27歳です。
683年生まれの軽皇子(文武天皇)の乳母として9年目を迎えていたわけです。
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        三千代が所持していた伝橘夫人厨子              阿弥陀如来像

 この時が橘の三千代が聖徳太子とはどのような人だったかを知るきっかけになった日ではなかったでしょうか。
694年に三千代の亭主美奴王が大宰師として九州大宰府に赴き、三千代(29才)は多分持統天皇の指示で軽の皇子11歳の乳母として宮に残され、そして彼女は藤原不比等に寝取られてしまいます。
701年36歳にして後の聖武天皇の后となる光明子を産むことになるのです。

この頃、持統天皇は藤原不比等を引き上げて、軽の皇子を15歳にして697年8月文武天皇として即位させています。
同時に不比等の娘宮子を后にしています。
持統天皇は夫であった天武天皇の血を引く王子を継続させる使命を藤原不比等に課して、その代わり藤原一族から皇后を立てる事を命じます。おそらく藤原不比等は持統天皇の父天智天皇の子供であることを知っているかのようです。
持統天皇は自分が生んだ草壁皇子とその子軽皇子の血を残すために大津皇子に死を賜り、長屋王を讒言で誅し、多くの王族を滅ぼしました。これを直接手を汚しながら実行したのが藤原不比等だったのです。

かつて、蘇我入鹿が皇極天皇の命令でカミツノミヤの嫡子山背大兄皇子一家を自殺に追い込んだように、女人とは我が子の末を守るためにはどんな手段も厭わずに取ったということでしょう。
藤原不比等の心の痛みは夫人である橘三千代が一番よく理解していたあと思われます。
それが、彼女が法隆寺の再建にのめり込んでいった一番大きなきっかけではなかったでしょうか。

彼女の子、光明皇后がその思いを引き継いで、聖武天皇のために法隆寺にそっと百済観音を北向きに配置したのも
聖武天皇が人知れず法隆寺金堂に向かって手を合わせることができるように取り計らった可能性があります。

中宮寺には弥勒菩薩の彫像がありますが
寄木を彫刻して、その上に漆を使って盛り上げて彩色を施す手法ですが
この目元を見ると、このまぶたの膨らみなどはまさに橘三千代の念持仏阿弥陀像にそっくりです。
また同時に百済観音も同様の目元をしていたと思われます。

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片岡の飢人伝説 613年

この中でカミツノミヤが歌った歌:

道に飢えて死のうとしている 伏せるこの旅人哀れ
   この親も彼に食べ物を与えることができない お前は親は無いというのか
        大和の大君(天皇)さえもだが この旅人哀れ

為政者としてどうしようもない無力感に襲われたかみつのみやの心境である。

食事を与え自ら絹衣をかけてあげたというのはまだ良いが
その尾ひれとして翌日その屍を葬ったが
更にある日使いを出し、墓を訪ねさせ、
すると絹衣はたたんであり、柩は空だった事
だるまの化身だったこと、太子が飢え人にかけた絹頃もを羽織ったこと。
(この復活の部分はだるまが片方の靴を残して墓から消えた故事がある画像) などなど

真人は真人を見抜く心眼があるというくだりなどはまさに尾ひれというしかないのである。

維摩経義疏を書き上げ達成感に浸って、遊行に出かけた時に飢饉でもないのに税を納めに来た旅人が帰路に飢えて倒れ、死にかけている状況に遭遇したということなのである。
為政者として、仏教を第一義に掲げ、施政を施したとしても、仏教という教義ではこうした哀れな人を救うことができないのだということを知ってしまった瞬間だったのだと思う。

百済の聖明王は仏教の無力さを知り、自ら戦いの地へ出向いて死を受け入れたように
長い平和の先に、結局部下の反乱によって殺された有徳の皇帝 梁の武帝にみるように
かれは現実の世界と仏教の示している世界との乖離に苦しんだのではないかと思う。

このことは、彼が摂政になった時に、政治は太陽のように万民に隔たりなく恩恵を浴びせるように
地から湧き出る温泉のように弱者をいたわるものでなくてはならないと
伊予の碑文に残した漢詩のように決意して始まった政治の帰結と言えるだろう。

カミツノミヤは実際に存在した為政者だと思うのはそういった数十年の心の推移が彼の残した遺物の中から伺えるからである。
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鞍作止利


鞍作止利の祖父、司馬達等は522年來朝した帰化人である。
倭への仏教公伝は538年だから、それに遡ること16年にして、既に熱心な仏教徒であったと思われる。高市郡坂田原に住み、草堂を立てて本尊を祀っていた。
扶桑略記には大唐漢人案部村主司馬達等入朝と書かれている。
時は継体天皇の御世である。
これより遡ること約100年、425年、倭の五王のうち履中天皇の時代に大和朝廷は宋に司馬曹達を遣使している。
421年には履中天皇は既に文帝より安東将軍の叙綬の詔をうけている。
大和朝廷が宋への遣使に対する礼儀作法等を司る高官として司馬氏一族は大和朝廷に帰化していたと思われる。司馬氏は後漢、三国時代、曹操の配下で殷王の名門の家系であった。
そこへ司馬氏を頼って大陸から達人が入境したと考えられる。
しかし達等と名乗るだけあって、それなりの司馬氏直系の血統であっただろうと推定できる。達の字を名前に入れることは司馬氏にとってはなかなか許される事ではなかったはずなのである。
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この鞍の透かし彫りは鞍作止利で、587年に馬子によって殺された穴穂部の王子の為のものではないかと言われている。聖徳太子の叔父にあたる。

鞍作止利は法興寺の大仏を鋳造した仏師として有名だが、これ以降王家お抱えの仏師として富と名声を得てゆく。馬子が法興寺の大仏を発願したのは605年である。この時初めて彫金師であった止利は造仏に取り組んだ。
年齢が不詳なのでいつ生まれたかもわからないが、祖父が522年に来朝している。その子多須奈は590年出家して徳斉法師として坂田に寺を創建している。多須奈の妹は善信尼として最初の尼となり、百済に留学し戒律を学んでいる。善信尼が仏教迫害にあって海石榴市で物部守屋に鞭打ちされたのを止利は見ていたであろう。
止利はロウによる鋳物師でもあり、彫金などの技術も持っている。藤ノ木古墳の遺品の中にある鞍などはこの司馬達等の孫である鞍作止利が制作したものではないかとも思える。
 藤ノ木古墳の遺体は穴穂部皇子と宅部王子だと言われている。587年、用明天皇崩御直後に蘇我馬子によって誅殺されている。
聖徳太子の母は穴穂部の間人である。殺された王子の姉に当たる。
587年の頃、聖徳太子も間人も飛鳥から姿を消していて、丹後の間人(たいざ)岬に居た。丹後半島は九州の豊後との繋がりが強く、新羅の影響が強く、また安曇族など、海部の地でもある。
 止利は聖徳太子の叔父である穴穂部の王子の為の遺品を製作した。
かれは、他にも法隆寺の本尊や、聖徳太子が亡くなった時に、救世観音を製作している。秦氏に近い関係が見え隠れする。
 この司馬氏は大化の改新以降、仏師として主流派ではなくなってゆくのである。
この時を境に、王辰爾の子供たちである船氏が歴史の表に出てくるのである。

王辰爾、司馬達等の両氏は蘇我氏の庇護の下、力を蓄えてきた帰化人であった。
しかし、大化の改新以降、蘇我氏が没落するとそれに寄り添うように鞍作村主(くらつくりのすぐり)は姿を潜め、船氏は天智天皇の庇護の下、力をつけてゆくことになる。



聖徳太子妃である膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききのいらつめ)は聖徳太子が薨去 した622年の2月22日の前日、21日に亡くなっている。そして聖徳太子の廟、磯長(しなが)には母である穴穂部の間人と聖徳太子と菩岐々美郎女の3人が埋葬された。
これを最初の后であった蘇我の刀自古郎女は飛鳥の地でどのように感じたのだろうか。
馬子に自ら申し出て善光寺へ下り、聖徳太子の冥福を祈ろうとしたのかもしれない。
善光寺には既に602年、聖徳太子の命で、善光尼が来目の皇子の無事を祈るために渡っていた。
来目の皇子の后には、膳部菩岐々美郎女の妹である、膳比里古郎女がいる。
聖徳太子は601年に斑鳩の地に若草伽藍を建築したときから、彼女たちの父親である、膳部傾子の支援を受けていたのである。
 蘇我馬子から距離を置く政治をめざし、推古天皇の摂政としての政治活動にまい進していたころのことである。つまり、蘇我の馬子の娘である刀自古郎女は遠ざけられていたと思われる。
 聖徳太子は推古天皇の孫も娶っていた。天寿国繍帳を作らせ橘の大郎女である。
この人も、聖徳太子が菩岐々美郎女と穴穂部の間人が聖徳太子の陵にともに葬られたことに得心が行かなかった姫ではなかっただろうか。
聖徳太子が604年に17条の憲法を発布した頃から、彼には一つの仏教を中心とした国家形成に対する理想があったに違いない。この事のために、聖徳太子は在家でありながらも、ゴーダマシッダールタがターバンを下ろした時のような心境があったに違いない。身の回りの愛する人々、政略的な意味合いで嫁いできた姫達を遠ざけたのだろうと思う。男の苦しみと女の悲しみがそこにはあったと思う。

善光寺へ下った後、蘇我氏の専横が続き、聖徳太子の子であった山背大兄王寺は本人の意思とは裏腹に、天皇として推挙されることは無く、田村の皇子が舒明天皇として即位した

其の後、蘇我入鹿の時代になり、蘇我氏の専横が顕著になってくる。
そして、643年山背の大兄の皇子は入鹿の差し向けた兵に斑鳩の宮を取り囲まれて一族すべて自害したのである。この時の兵の中に巨勢徳多がいた。かつて聖徳太子の命に従って秦の河勝と共に信濃水内へ釈迦如来三尊像を運び、麻績の地を拝領した巨勢氏である。
尊光(刀自古郎女の僧名)がまだ生きていたら70歳くらいである。







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