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重文・観松院弥勒菩薩半跏思惟像
松川村は大町市と安曇野市に挟まれた小さな村である。主だった産業もなく農業主体の集落で、村の中にある唯一の観光資源はちひろ美術館である。しかしこれとて集客数は頭打ちで、村の観光の収益にはほとんど貢献できない存在である。 こんな田舎の村に面白いものがある。それが国の重要文化財となっている観勝院の弥勒菩薩半跏思惟像である。ここは京都や奈良でもなくこの村には主だった寺は一院もなく、すべては明治の廃仏毀釈で放棄してしまったのに、1500年前に百済にて制作された仏像がただ一点だけ不釣り合いな状況にもかかわらず伝え続けられてきたのである。村人よりも県外の人々のほうがこの弥勒菩薩の価値を知っていて、遠路はるばるこれを拝観するためにやってくる。観松院という寺も寺格を得たのは昭和30年で
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安曇の歴史
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詳細
azumiなんて,いい響きの名称だと思いませんか。そのルーツを尋ねて見たいですね
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高向神社由来
今より千四百年前武内宿弥六世の孫高向氏此の地一帯を統治し高向の郷と稱す 後の 高椋村は之による 其の本拠は高田村に在り 高向氏の一女振媛命近江長浜に在住の応神天皇 五世の孫彦主人大臣に嫁す 三児をもうけたるも夫君に先だたれ児を伴いて母在ます 高田村に帰る 第一皇子男大迹王尊長ずるに及び九頭龍川の治水農耕の開発等越前に治績多 し第廿四代武烈天皇没後嗣子なく中央より大連大伴金村物部鹿々火等に迎えられて第廿 五代の皇位につく 後に継体天皇と諡す 御陵は大阪府攝津市藍野に在り当神社は振媛命と夫君祖応神天皇を祀る 。 以上は福井県にある高向氏の由来だが、河内長野にも高向という地名が残っている。
もうちとつ、用明天皇が犯した斎王の子が高向であったような気がする。
なぜ皇極天皇(宝姫)は田村の王子と再婚したのだろう
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南北が反時計回りに11.5度傾いている事で東西も反時計回りに11.5度傾くことになる。
東西の最も主だった線は当然仁品神明宮と大洞山の麓の一の洞を結んだ線である。
それと平行に走っている一つ気になる線がある。
それは観勝院跡地と高瀬川を渡って正科まで(赤線)(12°右上がり)となり
その後は2又に別れ北は神明宮へ南は薬師へと通じている。
観勝院は「室町時代永正(1504〜1520)年間に、大町市大沢寺(だいたくじ)五世の功岩玄策禅師を開山とし、
この地の豪族大和田盛氏によって建立された。」とあることから仁科の家臣 大和田盛氏の時代に
馬によって渡河したことによって出来た道である可能性が高い。
しかし不思議なことにこの道も仁科神明宮と大洞山の一の洞(初代仁品王廟)を結ぶ直線と平行な
反時計回りに約12°右上がりに傾いているのである。
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