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小説「光の道」 第38回 生かさぬように、殺さぬように
二〇〇九年二月。依田が退任し、JT持ち株会社の社長となった新浦覚は、二千八年度第3四半期の決算発表会見に臨んでいた。
売上げ高十一兆円、営業利益は一兆円。リーマンショックにより、自動車産業などが苦しんでいることもあって、上場企業約四千社の中で営業利益日本一が確実となっていた。
前任の依田と違い、長身で温和に見える新浦だが、出身は労務畑である。利益がどれだけあがっていても長期的には苦しいと組合に訴える時と同じように、伏し目がちに話し始めた。
「JTグループの営業利益が国内首位になります。しかし、業績がとくに上がったわけではありません。相対的にこうなったにすぎないのです。法人向けのシステム構築や、光ファイバーの販売が想像以上に苦しくなってきており、いろいろな影響が出始めています。経営にはよりいっそう細心の注意をはらわなくてはなりません」
(JTは儲かりすぎてはいけない企業なのだ)
経営企画部部長に昇進した有馬は、記者会見場で永井経営企画本部長の横に座りながら依田前社長から聞いたことを思い出していた。
「いいか。規制を強化されるぐらいなら、競合事業者に多少のシェアを食われてもいいのだ。携帯電話会社を変えても電話番号は変わらないという番号ポータビリティが始まって、新電電やライブテレコムに少々移ったとしても問題はない。シェアが五割欠けるくらいがちょうどいい。ある時は総務省に譲って顔を立てる。JTは儲けすぎないように。競争事業者は殺さぬように、生かさぬように。そのさじ加減が経営企画部員のチップだ」
依田が言った「チップ」とは「心付け」のことでなく、「秘訣」「秘密情報」という意味である。世界のドミナント企業の集まりで良く聞いたらしく、依田の口癖になっていた。
JTグループの強さの源であり、総務省からの規制を受ける対象は、電電公社時代に国営の利点を生かして、全国に張り巡らした電柱や管路、とう道といった「線路施設基盤」である。この通信ネットワークは、情報が流れる「道」のようなものだと考えればいい。
「線路施設基盤」という情報の「道」はJTグループを支える根幹であるが、これが独占的施設として、規制の対象になる。具体的には、利用料金や条件などを公開したうえで、新電電やライブテレコムなどの競合事業者に貸し出さなくてはならない。
新電電やライブテレコムは、この設備をJTグループから借りてサービスを提供できる。というより、JTグループが持っている情報の「道」を借りなければ、固定も携帯も事業として成り立たない。
携帯電話は無線なので関係ないと思われるかもしれないが大いにある。基地局と呼ばれる全国に張り巡らされたアンテナ群を結ぶには、少しの例外を除いて、JT東西の回線が必要になる。
新電電やライブテレコムは、当然設備の使用料をJT東西に支払わなくてはならない。つまり、競合事業者がJTグループに対抗するサービスを提供しても、そこから得た収入の一部が自動的にJTグループに回る。
JTは、通信ネットワークという道路を押さえ、利用料金をとっているようなものである。すべてがアクセス回線を通らなくてはいけないという意味で、利用料金というより税金に近いかもしれない。
しかも、この「税金」は時代の変化とともに高くなっている。新電電によると、電話時代はサービス料収入の数%をJT東西に支払うだけで済んだが、家庭向けの光ファイバーになると七〇%以上をJTに納めなくてはならないという。売り上げはほとんど残らない。
「江戸時代は五公五民と言われたが、通信業界はJT様の七公三民だ」と言われる所以がここにある。
JT依存から脱却するためには、自ら道路である「線路設備基盤」をインフラとして整備し、所有するしかない。しかし、これは自動車産業が自動車を売るために、道路を自ら作るようなもので経営として成り立つわけはない。
「JTが国営の時に、百年かけて構築したインフラに追いつけるわけがない」というのが、競合事業者の偽らざる本音である。
「生かさぬように、殺さぬように」
有田は、心の中で何度もこの言葉を繰り返した。
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