50過ぎて悪あがき(往生際が悪い男のブログ)

50過ぎれば知命というはずだが、世の中には例外もあるという見本。

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ただ座る

「ただ座る」ネルケ無方。

以前に、同じ著者の「迷える者の禅修行」を読んで、ひどく感銘を受けた。
ドイツ人の著者が、禅に興味をもって日本を訪れ、ついにはホームレス座禅を行うまでの道程をまとめたものだった。
まさに「無一物」を実践したわけである。
その後、兵庫県の安泰寺の住職となった。檀家を持たず、ひたすら修行に邁進する寺である。

本書は、曹洞宗の禅僧となった著者が、道元禅師にはじまる「只管打座」の修行法を、すっかり宗教に疎くなってしまった日本人に懇切に説いた書である。
恥ずかしいことながら、何を隠そう、私の家も代々曹洞宗である。
しかし、私は一度も座禅を組んだこともない。ただ、祖父祖母の葬式に参列したばかりである。
いわゆる葬式仏教しか知らないし、おまけにクリスマスを祝い(まあ、きりしたん伴天連の行事だと認識しているので、お祭り気分を味わうだけですが)元旦には初詣に行く。
それで「自分は無宗教だ」と思い込んでいる、無知蒙昧の徒である。
そういう態度そのものが、実は大いに宗教的なのだが、そういう自己認識はみじんもないのだから、ますます救いがない。

著者は喝破する。
「座禅をしても、何にもなりません。悟ることもできません。どうしたらいいですか?」
という質問に対して
「見返りを求めようという心が、まずアタマの生み出した理屈である、と気づきなさい。座禅は、頭でなく、体でするもので、もっといえば、座禅が座禅するのである。」
「座禅をしているときに、座禅をしていない自分、というものはいない。座禅をしている自分しかいない。であれば、座禅と自分を、なぜ分けるのか?自分を離れて、座禅というものがあるのではない」
「ついには、座禅が座禅をする、というように」
なるのだ、という。
現代の一般的日本人は、自分がすることの「意味」について、その「目的」を掲げる。
あるいは「目標」と言ってもよい。
その「目標」を達成するために、その行動をするのだ、というわけである。
この考え方に立てば、目標を考えているのはアタマであり、行動するのは体なので、いわば体はアタマの「乗り物」のようなもの、ということになる。
あたかも、アタマという運転手が、体という自動車を運転している、というのは、現代人の(無意識な)自己認識の仕方、ということになる。
著者は、まず「体の発見」が、禅の第一歩だ、という。
私というものは、私というアタマだけでできているのでなく、私という体があって息づいている。禅を通じて、呼吸する身体という自然に気づくことで、アタマだけが体から離れてありえないという自己を発見するのだ、という。
これは、なかなか新鮮な指摘であって、あえていえばスポーツに没入する感覚に近いかもしれない。

また、日本の座禅では、なぜか左足を上に組むのだが、仏像では右足を上に組む。その理由を、日本のお坊さんは
「修行中は左が上、修行が成就したら右足が上」などと説明するのだが、これをきちんと調べて
「歴史的に、日本の仏教が支那から伝来したから」だと結論を付ける。
南伝仏教系は現在でもすべて右足が上であり、左が上なのは支那の仏教からそうなった、といえば、もう疑う余地もない。
こういうところは、すべてきちんと調べて回答してある。単に伝統的にそうだから、では済まさない。いかにも生真面目に物事を追及する著者の面目躍如といえるところである。

少々、宗門論争のような記述もある。
日本の天台宗でも、座禅を行う。止観である。
しかし、止観では、どうしてもアタマと体という二元論に立ってしまうので、その結果、観を重視するわけである。「悟るのは、心の働きによる」と思ってしまうわけだ(ある意味で当然である)。
ゆえに、いわば瞑想と修行が分離してしまったので、深みに至ることができなかった、と指摘するわけである。
いかにも只管打座の曹洞宗らしい指摘であり、思わずニヤニヤしてしまう。

評価は☆☆。
こんなに本格的な「座禅マニュアル」は、初めて読んだ。労作であるし、何よりも、多くの私のような「縁なき衆生」を念頭に置いているところがすごいと思う。

私は、大いにアタマで人生を生きてしまっている。
いつでも「効率」とか「結果」が気になるのである。世相は、成果主義などといって、そういう人を安心させたりする。
自分で作りだした目標を、自分で達成することに、喜びを感じ、思うようにいかないことに苦しむ。
そう思えば、喜びも、苦しみも、思えば私のアタマが作り出したものである。
それがわかっていれば良いが、実際にはそうではなく、周囲のせいにしたり、世の中のせいにして、解決できないことに悲しんだり、憤ったりもする。
そうしているうちに、いずれ寿命がつきて、死んでしまう。
それが人生といえば、そうである。
しかし、本当にそうか?それで、人生を生きたことになるのか?そういわれると、わからない。

でも、なかなか座禅をしてみよう、という気にならないのも、事実である。
私は、それが「何にもならない」と知っているからである。そういうものだと思いつつ、やっぱり「何かの役に立つから」という「取引」をやめられない自分がいるのである。
いったい、誰と取引するというんだろうね。

かくて、私はいまだに無明の闇のなかにいる。
私に知恵がないのは、本書の責任ではない。私のアタマが、そうさせるのだ。

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