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『何か、ヘン じゃないですか?今の日本』昔がすべて良かったというつもりは無い。でも、今より、日本人と呼べる人間がいた筈である。

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幸せ、って?

  “しあわせ〜って、なんだあ〜っけ〜?なんだあ〜っけ?
                  ポン酢醤油のあることさ〜〜♪”

      『私、彼と結婚できて、とっても幸せです^^』

         《今宵ひと時の幸せを貴方と感じたい》

      [OOハウスは、幸せ溢れる家族生活を提供致します]

  巷では、いろんな、幸せの定義がさまざまな立場から、流布されていて

          【いったい、幸せって、なんだっけ?】

これら、世間に流れている定義は、勿論、商業ベースに則ったものであるから、人間の【衣・食・住・性】における【欲望】を叶えることを念頭に於いて、アピールされている訳であり、
             [ ひ と ]は、
多くの人が、かなりの部分でそのメッセージの影響を受けながら暮らしていることを考えると
   【幸せ】って、[ ひ と ]の欲望が満たされる時に、感じるもの、
             と、言えるのだろうか?

 でも、欲望が満たされれば、幸せかというと、人間の欲望には限りというものがないから、これだけ(欲望の充足)では、いつまでたっても、不幸せ感が、消えることはないように思える。

       【僕は、今、幸せである。ひとつのことを除けば】

 決して、僕の世代の平均年収を超えた稼ぎがあるわけでもなければ、社会的ステータスを保持しているという事も無い。

 たまに、ポケットの中の小銭が、ぴったり、555円になったり、仕事が、自分の予定通りに進むことがあったり、街中で、綺麗な女性をみかけたり、、、みたいなことで、喜びを感じたりして生きている。

       普通に、平和な国で【生を営む】ことが、出来ていて、
        僕の血を受け継いだ子供も、人並みに生きている。

 
              この日本に於いて、
       過去に、20歳前後で、絶対的な【死】を覚悟して
          【生】を営まれた方々がおられた。

 あの方々は自分の人生を不幸なものと認識しながら【死】に相対されていたのだろうか?            
                 否

             あの方々の心根を、
      僕なんかが推し量ることなど、到底、叶わないけれど、
          遺書や、家族への手紙を拝読すると、
                
                決して、
         全ての特攻された方々(海・空)が、
自分の人生を不幸な人生であるとして嘆かれていたとは、僕には、思えない。
(【終わりを覚悟されていた】のであるから、正に、自分自身の一生として捉えられていたのであろうと思います)   
        
          [ ひ と ]には【意思】があり、
               時として、
その【意思】は、とてつもない【はたらき】をすることができるものと思う。


      生きているものとして、必ず迎えることになる【死】。

その、【死】というものを自分の【想い】の中に呑みこまれた方々の【意思】

を推し測れるほどの度量を備えていない僕としては、ただただ、こうべをたれ

ることしか出来ない。

                巷では、
 毎日、さまざまな、出来事が報じられ、数多くの生き様が展開されている。
       無数の命(人間ばかりのみならず)が営まれている。
          いろんな【想い】のもとに、、、。
        
          その営みの目的が何であるのか?
     何故、死を迎えることが決定付けられている【生の営み】が、
       この地球に於いて、連綿と綴られ続けているのか?

       人類誕生の時から、問い続けられてきたのだろうが、
     おそらくは、【本当の理由】にいきつくことはないのであろう。

 
   【僕はひとつのことを除いて、今は、幸せである】と先に記した。
          
            その“ひとつ”がこれである。

         ‖ 生の営みの真の目的を理解すること ‖

     
       単純に、生きていられることが、幸せなのだと思う。
         
            “死を迎えるまでの生である。”

    
   免れることが出来ないことは解っていても、
           叶えられるものなら、【死】を迎えたくは無い。
 
            誰もが、そう思っている。

       しかし、確実に、間違いなく【終わり】は訪れる。

  さすれば、納得するしかない、『受け入れるしかない』のではないか。

      【いかにして、自分の想いで、己の死を受け入れるか】

               最近は
      この年齢になって、やっと、単純に考えるべきなんだ、
           と思えるようになってきた。

       生まれてきて、生きているから、死が訪れるんだ、

          ならば、死ぬまでは、生きていこう

        【人間として】     【日本人として】  

     当たり前のことが、なかなか、理解出来なかったのだが、
           
             これで、いいんだ、、、と。

 
 毎日の生活に於いて、おつりが、555円になって、ニヤっとしたり、街中で綺麗な女性を見かけてみとれたり、仕事が思い通りに進んで得意気になったり、夕食にその日食べたいなと思っていたものが用意されていて、お腹いっぱい食べることができたり、干されたふかふかな布団でぐっすり眠れたり、、。

   先に記したが、望みだしたら、キリがない、欲望に関することは。

      
      今、与えられている生活に【感謝】しよう、と、思う。

 
               
          『武士道は、死ぬこととみつけたり』

            そうなのではないだろうか。
 
 【 ひ と 】は、いかにして、【己の死】を自分のなかに受け入れて、
        いかにして【己が生】の【終わり】を迎えるか。
             
            それだけしかないのだと思う。

         
 
 ‖ 限りない欲求に引きずられて、欲望の虜になって、うごめいている ‖
     昨今の日本人は、平和な中で暮らせることに安心しきって、
     【死】を考える事も無く、故に、【生】を考える事も無い。

         つまり、[ボケている]のだと思う。

       確かに平和に生きることは、大切なことである。

    いかんせん、人間というものは、慣れてしまうものだと思う。
         平和な世に暮らせていることに、、、。

             
     【死】をまのあたりにして、初めて、
     【生】に真剣に取り組むようになるのでは、なかろうか。

    その【生の営み】のなかに於いて、幸せを感ずるということは、
         【感謝出来る気持ち】なのだと思う。

  尽きない欲望にとりつかれ、どこまでも欲望の実現のみに右往左往し
       【有難さを感ずる気持ちが無い】ままでは、
      いつまで経っても【幸】を得ることなど、在り得ない。

     今、【生きられていること】に
          “こうべ”をたれることが出来ている[ ひ と ]

                そして

    【死】を受け入れることが出来ている[ ひ と ]こそ、
         【真の幸せ】を生きているのであろう。


      幸せな人生を送るのも、不幸せな人生を送るのも、

       全ては、【己の思い】以外には無いのであろう。

美しさ ・ 真実

 「直線を書いて下さい。」と言われて紙の上に線を引く。この線には、初めと終わりがある。つまり、  直線ではなく、線分である。直線は、永遠に続いている。

        生命は、この地球上に誕生してから、延々と今日まで続いている。
 
 人は、生まれたからには、やがて死を迎える。【いのち】の営みが始まり、やがて、終わりを迎える。

 ひとりの【生】には、始まりと終わりがある。でも、其の【生命活動】は、子々孫々へと受け継がせ、続けていくことが出来る。いったい、どこまで、ずっと続けていくことが出来るものだろう。この【生命活動】は、直線のように続けていけるものなのだろうか。そうだとすれば、個々人の人生は、線分ということになるのだろうか。

 数学者というのは、【美しさ】を求め続けるそうである。数字には、いろんな【法則・美しいきまり】が、定められているそうだ。数学者は、その法則を、美しいきまりを捜し続ける。ふと、思ったのだが、その【きまり】は【真実】といっていいのかもしれないな、、と。

 命の仕組みにも【美しいきまり】があるような気がする。DNAの配列には、正しい規則が、あるそうだし、あの、螺旋は、たしかに、美しいと感ずる。この我々人間の体の仕組みも、実に良く出来た法則に則って、構成されているようだ。人の誕生を、進化論にて論ずる説はある。でも、本当に、そうなのだろうか?医学的・人文科学的知識は何もないが、進化論にて、述べられるような誕生が成された訳ではないような、気がしてしまう。この、複雑さ・精密さ・美しさ。

 数学者は、その定理を発見する為に、勿論、日々積み重ねの研究、計算式の展開・追求・演算をされているのだろうが、常に、観て・捜して・求め続けているなかで、偶然のように真理の【数式】に巡り合う、閃きつくということがあるらしい。かれらは【こころ】で【みる】そうだ。また、【神様の手帳】を覗き見て、自分なりに書き連ねる作業であるとも表現する。

 数字は、この地球上に於いて、殆どの人類が、ほぼ、同一な認識を持っているのではないだろうか。
 言葉は、非常に、さまざまであり、雑多のごとく存在し、いろんな、表現法が、用いられている。
 また、使用法によっても、いろんな解釈が可能となっている。

 言葉で、真実をどこまで表現出来るのだろう。言い回し次第で、いろんな解釈が存在し、これまでの歴史上に於いては、さまざまな真実であろうと、おもわれることが、いろんな人の言葉で、語られてきたのであろうが、いまだに、全人類共通の認識を、ひとつでも、持つまでには至っていないように思われる。

    数字が表す真実は、美しいという。では、言葉で現せる、美しい真実は、あるのだろうか。

 ある人の科白で『物事は、先ず、行うことが大切なのであり、それに対する説明は、いかようにも、付記することが出来るものだ』という内容を耳にしたことがあるが、人間社会に於いては、まさに、其のとおりである、と思えることが、あらゆるところで、垣間見ることが出来るように思う。

 ある人が、ひとつの主張を掲げて行動したときに、そのことについて、賛成するものと、反対する立場に、殆ど、必ずと言っていいほど分離することとなる。殊更、絶対的な、真実が語られるということは、確認しにくいことであろう。

 人類を正しく導く為に【神の言葉】として、語られて綴られたとされる、その【教義】さえ、現在の状況としては、乱立しているのが現状であり、それぞれが、又、対立の図式さえ呈している現実が、認められるところである。

 人間、自分自身でさえ、そうであろう。自分のなかには、ある物事に対して、大概にして二つの、想いが交錯することは、稀なことではない。其のときに、どれが、真実であるのかなど、なかなか明確に断言出来ないことも多々あると思う。

 真実、それも、この人類が生存している地球、其の地球が、存在している、宇宙に於いて、それは、所詮、人間が断定出来るものではないと思う。過去に、聖人と言われた人の言葉として、伝えられてきた教えも、そう考えると、絶対的に真実である、と言い切ることは出来ないのではないか。

 この、ブログに於ける記事も、言葉でもって表現しているのであって、その内容に対しては、〈ひと〉によっては、さまざまな想いを持たれることであろう。

 日本では、八百万の神を崇めながら、人々が紡いできたとされている歴史が存在する。(勿論、長い歴史の中に於いて、多種多様な、思想・宗教・文化の影響も計り知れないほど、取り入れられて、それらを併せ持ちながら昇華させ、今日に至っているが、日本国の基本はこの神道が基であろう。)

 この八百万の神々は、いわゆる、自然のなかに在る。勿論、自然とは、人間が創り出したものではない。人間が、いくら、叡智を振り絞って、暮らしを為してきたとは言え、自然のまえには、おそろしく無力であることは、誰も、異議をとなえられるところではない。

    古くより、日本人は、自然を【畏れ、敬い、感謝】して、生を営んできた訳である。
    このことは、非常に、理に適ったことではないだろうか。

 今、人間が、見失っているもの、それは、自分たちが驕っているということではないだろうか。

 人間なんて、所詮、大した生き物ではない(以前は、とてつもない、意義を携えているのだと、思っていたが)ように、思う。ある、意思(大いなる意思)によって、在らせられ、其の【生】を営み続けるだけの、単なる、生命体ではないのか、自らの信ずる想いの儘に。

     やがて、その先に、なにかが、在るのかもしれないし、無いのかもしれない。
     解らないのだから【在るが儘】でいいのだと想う。

 事故により、脳に障害を負った数学者は、80分しか、記憶を留めることが出来ない。でも、数字に対する認識だけは、見失うことが無い。言葉を駆使して暮らすには不都合、不具合を覚えているが、その数字に向けられた目は、真実の探求へと向かい、純粋な想いを持ち続けながら、日々を送る。

 
 今、自らを省みた時、日々の生活に於いて、さまざまな迷いを抱えながら、暮らしている自分がいる。

 その中で、おりにふれ【感動】することが出来る自分に、気づくことがある。

 己のこころを揺さぶる【人の情け】に触れたとき、わけなく沸き起こる感情の昂ぶりを感じる。

 まさに、それは美しい【数式】に出会ったときの喜びの想いに近いのかもしれない。
 

今日の言の葉

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b7/a1/fcygf939/folder/1487565/img_1487565_48487923_0?20070519004853

愛と理解を持ってふれあいを



                   優しく親切に、


                 相手の心をよく酌んで、


                   接していく時、


                温かい信頼関係が生まれます。


                家庭で、職場で、地域社会で、


                その輪を広げていきましょう。

転載元転載元: 『私はすでに死んでいる』〜重複精神障害者の小説と私生活とニャンコ

くずかごを あたまに

※注意※ 音楽ー自動で鳴ります。

この作品は、原作者不明のGIFアニメ『くずかごに頭を』を、
FLASH化したものです。


ちょっと、、、泣けます。。。( ;; O ;; )


転載元転載元: ☆ yottii land ☆

 モリスさん、再三再四のご意見有難う御座います。これが、最後の御訪問ということですから、おそら
く、この書き込みを目にされることはないのでしょうか。一応、今回頂きましたご意見を拝読致しまして、返答の意味とけじめをつける為に、この書き込みを記させて頂きます。
 それと、僕がモリスさんへ反論を始めた訳では無い為、モリスさんに、今回の件に関しまして、僕の方から、モリスさんへ質問等をさせて頂くことは、ありません。
 
 この社会にはさまざまな方が、それぞれに御自信の考え方をお持ちであり、何十年と生きてこられて、

それぞれに自分の思想をしっかりと構築されている訳ですから、このような場において、何度かの便りの

交換を行なったからといって、どちらかが、相手の意見を受容されるような変化は、なかなか生じること

は無いと思います。
 
 ですが、〔『ワタシはアナタに共感しないけど否定はしない』がより建設的と思っています 〕という

ご意見には、納得させて頂くところです。僕は、なにもモリスさんのお考えを否定するつもりはありませ

ん。理解出来ないところにはその旨を、僕の主張する内容に対してのモリスさんの御意見で、賛同できな

い部分に対しては、その理由を述べているにすぎません。
 

 
 人間なんて、そんなにたいした者じゃないと思っています。「座って半畳、寝て一畳、食って寝て、糞

するだけの思考することの出来る、一つの個体に矛盾を包括した生き物にすぎない」と思っています。
 

 
 理想論通りに社会を運営していけるものじゃないことは、歴史を振り返れば、明らかなところです。モ

リスさんが、想像されている【戦略的外交】は、全くの理想論であり、実現の目処がたつ物ではないと、

僕は判断いたします。浅学の為、僕はその成功例を存じ上げません。もし、御存知の方がいらっしゃれば

是非とも教えて頂きたく思っております。
 
 只、これまでの歴史の中で、ごく身近に、モリスさんが仰っておられる手法の文化的侵略の成功例を、

僕は見つけることが出来ると思います。そう、大東亜戦争後の米国による日本国占領とその後今日に至る

までの、文化・経済・政治・そして軍事面における実効的支配の継続です。(この影響の成果をもたらす

にあたり、もう一つの勢力の介在が有った事実も見逃せないと思います)しかし、この侵略の成果が明ら

かになるまでには、約半世紀以上の年月が要されて、功を奏した訳であり、ましてや、侵略を為す側は、

世界一の軍事力を保持し、される側は一切の軍事力の制限を懸けられた状態の基で、初めて、実現したも

のです。
 
 軍事力を背後に掲げること無しに、文化的侵略を成し遂げることが出来る対象国は、おそらく、現在の

世界を見渡したとき、発展途上国しか可能性が無いのではないか、と思います。今現在、日本国に敵対し

ている、中・韓・北のどの国にそのような戦略を仕掛けることなど、どうして、可能であるなどと言える

ことが出来るでしょう。僕は、ほぼ、不可能であると思います。

 外交は、正装を正し、笑みを携え、握手を交わしながら行なう戦争である。という風によく言われま

す。そう、外交は、まかり間違えば、戦争にまで進展しかねない駆け引きの場であることは、疑いの余地

の無いところでしょう。

 例えば、今の中国は、小学校のときより、愛党・愛国・嫌日の思想の刷り込みが徹底されていること

は、周知の事実です。しかも、あらゆる報道(ネット上に至るまで)に、共産党の規制が隅々まで、行き

渡らせられています。若し、なにか手立てを講じるとするならば、大量の留学生を受け入れて、洗脳教育

を施し、共産党の中に於いて、その者らに権力闘争を勝ち取らせるしかないでしょう。しかも、その時に

受け入れる留学生は、小学校入学前か、低学年レベルの層を対象にしないと難しいのではないかと思いま

す。そして万が一、それが可能であったとしても、どれだけ多大の年月を要せねばならないことでしょ

う。
 
 
 〔【企業舎弟に自分の振り出した手形・・・云々】ですが同じ文化の中では慣習や法律も役にはたちま

すが・・・正直何を言われたいのかわかりません。〕と記されていますが、僕が前回の【モリスさんへの

書庫】に【企業舎弟に自分の振り出した手形・・・云々】を書いたのは【侵略方法】を述べる為のもので

はありません。【交渉を行なうにあたり、戦力の後ろ盾が必要である】ということを、個人レベルに於い

て【例えた】ものです。個人レベルでも【ならず者】と渡り合うときには、戦力を準備しないで交渉する

よりも、相手に反撃できるだけの戦力を用意して行なわねば、成果に大きな差が生じることを述べて、ま

してや、国家レベルであれば、尚更、必要性(戦力の準備)が高まることを言いたかったのです。

 
 最後に〔『正常化』ということは『正常でない』モノを対置しており排除の構造が見えます。〕と仰ら

れていますが、仰られる通りです。僕は、今、僕が『正常でない』と判断しているものは、排除するべき

であると考えています。この地球上のあらゆる思想、現状について、絶対的に【正しいもの・誤っている

もの】を断定することなど、出来得ることは無いと思います。(現存する生命が、いずれ、終焉を迎える

ということを覗いては)人類の長い歴史を振り返ったとき、常に、相対する想いが、対立を繰り返しなが

ら、履歴を紡いできた結果が、現在の姿であると思います。
 
 僕は、今の日本国の現状は【僕の考えとして、正常な姿であるとは思えません。】ですから【僕が思う

正常な姿】を取り戻す為には、今の現況を創り出した【悪因】を排除すること無しに【僕が考える正常な

姿】を復帰させることは出来ないと考えます。(あくまでも、僕の考え方です。それが【絶対に正しいの

だ】と言い切るものでは、ありません。

 相対する考え方に基づいて行動する二者のうち、その時点で勝(まさる)ったものが、主導権を握って

運営していくうちに、その内容が不具合であると考える者が勢力を盛り返し、先の勢力に取って代わる、

ということを繰り返し続けるのが、人類の歴史であるのだ、と考えます。

 
 その結果、人類と地球が、どのような顛末を迎えるのかは、所詮、人間が判断出来る事ではない、と思

います。
 

 
 先に述べました内容の繰り返しになってしまいますが、人間なんて(敢て、なんて、という表現を用い

ます)そんなに、たいした者ではないと思います。己の信条に、それぞれ、則ってはいるのでしょうが、

所詮、何度となく過ちを繰り返しながら、必死にもがき続ける生き物だと思います。
 
 人類全てが、聖人君子であれば別ですが、理想論通りに、この世が運営される時代(とき)が訪れるこ

とは、在り得ないと思います。しかし、相対する考え方を携えながら、衝突しながら、背差琢磨を繰り返

し続けて生きていく宿命なのではないかな、と、最近は考えるようになっています。

 
 
 
 先にも述べましたが、お互いの考え方というものが、数回、意見の交換を行なっただけで、根本から、

変わってしまう、相手の思想を受容することなど、難しいことと思います。
 
 
 
 
 只、今回、モリスさんからお便りを頂けたことで、僕も自分の考えを、改めて、別の角度から、まとめ

ることが出来ました。心より、お礼申し上げます。それでは、モリスさんも、ますます、お励みなされま

す様、祈念致しまして本文を閉じたく思います。

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