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『何か、ヘン じゃないですか?今の日本』昔がすべて良かったというつもりは無い。でも、今より、日本人と呼べる人間がいた筈である。

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日々の流れに対する想いを この場にて綴ること
ある意味、そのような想いを閉ざしてきた。
 
納得出来ない所業の氾濫の数々、いちいちの諸般に想いを馳せて自分の想いを記したとしても、多くの方々に訴えるべく機会を持ちうること無い故(人気度の低さ・それを得るべき努力もしていない故)
 
だが、この一年あまりを振り返り、この度の行政(この言葉を使用することさえ、憚れるが)の出鱈目行為に遭遇してしまったとき、一日本人として、抑えようのない憤激を書き連ねずにはおれなかった。
 
いったい、彼奴ら(賎・奸を筆頭とする能天気議員等)の脳みそはいかなる成分を基としているのであろうか。
 
その場限りの屁理屈を大盤振る舞いし、内に対して強面を押し通し、反して外(特に中・鮮・露)には揉み手で媚びへつらう、一旦握った権力にしがみつこうと足掻く様は、醜聞の極みに尽きるではないか。
 
那覇地検に責任をおっ被せて工作員の釈放(明らかなる越権行為であり、如何なる言い繕いを弄しようとも、単なる違法行為に対し、粛々と対処するようなシロモノと片づけてはならない外交問題であり、それこそ、行政主導(当然ながら、建前だけだが)を標榜するオマエ等の仕事である筈なのに)としたのであろう。
 
されば、義憤にかられた主任航海士に対しても
 
日本国の正義と国益を損なわない為の適切な策(ビデオ公開)を定めることが出来ないキサマ等に代わって、正当な指針を指し示す為、正道を歩む手助けに、と我が身を犠牲にしてまで踏み切った主任航海士の堅牢無比なる想いをとすべきであろう。
 
如何せん、真逆の執行態度は明らかに正義を忘れた所業ではないか。
それこそ日本国への反逆に他ならぬ。
 
ビデオ流出が、由々しき事態とほざいた賤の奴にこの言葉を贈ろう。
【てめえが存在していることこそ、由々しき事態である】
 
てめえ等が日本国のリーダーとうそぶき、為政者を名乗る資格は、露一滴も絞り出せるものでは無いのだ。
 
驚天動地、まさしく、彼奴等に政権が渡ってしまったこの惨状に当てはまるのは、この一言に尽きるのである。
 

宗教についての私見

私は俗に言う無宗教論者です。現在の日本に於いて存在しているさまざまな団体等が主張している教義など全く信じる事はありません。でも、神の存在を信じない訳ではありません。この宇宙において、たかだかの人間が及びもつかないおおきな チ カ ラ があることを否定するものではありません。手塚治虫先生が著書『火の鳥』で描いておられましたが、この果てしなき無限とも思える宇宙を存続させている【エネルギー】というものは確かに  在  る。 しかし一体それが何であるのか?所詮人間ごときに理解出来得るものではなく、故に畏れと敬いの お も い を込めて私はそれを神と呼びます。

 さて一般的に現存している現代日本の宗教家のなかで、果たして真に宗教家と言える人物がどれほど存在しているのでしょうか。(全く居ない事は無いようですが) また、キリスト教にしろ仏教にしろ、それらの信者となっている人達の内、どれだけのひとが真剣に宗教というものを自分が生きていく上での糧としているのでしょうか。

 私の知る限り(狭い範囲での話になってしまいますが)先ず、日本の坊主達の大半にその宗教家として認められるような人物は数少ないと言い切ることができると思います。かなりのクソ坊主達は自分達が努力して得た訳ではなく、単に世襲制のもとに譲り受けた財産を、仏教という名の下に己の営利の為に営んでいるだけの輩のなんと多いことか。かりにも宗教家を名乗るのならば、物質的・経済的の面に於いては、高みを求める事は二の次にする覚悟無くして勤まるものでは無い筈です。

 私は関西在住で暫く京都に居住していたこともあり、夜の仕事の経験もあるのですが、京都の祇園に於いてどれだけのクソ坊主が享楽にうつつをぬかしているかを少なからず見聞きしてきました。又、知り合いの坊主達にも営利のみを目的としている奴らを見てきています。

 大体、葬式や法事においてお経を唱え、戒名(これも字句を変えることで、なんら根拠のない無法の値段設定をしていることは滅茶苦茶としか言いようが無い。)をつけて、適当なしかもまとまった税金のかからない金銭を受け取る営業手段など、ひとの不幸や弱みに付け込む姿は暴力団と変わらない、と言うのはちょっと言いすぎかもしれないが、遠くは無い所ではあると思います。

 本来、お釈迦様(ゴータマ・シッダルタ)が説かれた教えというものは、矛盾に満ちたそして人間の力だけではどうする事も出来ない苦難の多い人生を、いかに充実した自分の人生として生き抜いて行くべきかを、ご自身の優れた洞察力と修行の結果に於いて悟られた真理「人生諸行無常」を基として説かれた、いわば哲学に近いものであったと私は理解しています。

 たいがいの宗派の葬式に於いて唱える代表的な仏教経典《般若心経》が何を説いているかを解っているひとが一般の中でどれだけいることでしょう?なにも死後の世界(極楽浄土)への行き方を説明しているものではありません。要約すれば、「この世は常にうつろいいくものであり、絶対と言い切れる事など何一つ無いのだから、何ものにもとらわれないこころ(執着しない)を持って人生を生きるべきである。」という 生 き 方 が書かれているのであって、葬儀の式典で死者に手向けるようなものでは無いものです。

 本来、どのような教義を唱えるかは色々あって然るべきだとしても、要は人間がいかに人生を送っていくかの道標を示すべきかが宗教の目的であり、決してそれらの組織の維持、営利、繁栄、拡大を第一義目的とするようなことがあってはならない筈であり、教義が主張する正義の基に争いを引き起こし、他を非難し、虐げるようなことを認めるようなものは、絶対に宗教という名称を冠するべきではない筈です。

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