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この場に於いて、何度かこのコトバを記した。
『理屈というものは、いかようにも表すことが出来るものである。』
理屈(主張と言いたいムキもあるかもしれないが)は、常に、少なくとも、ふたつの立場から発せられることが常である。
世界を舞台とした国と国の関係に於いても・・・
自国を舞台とした国の代表を決める制度に於いても・・・
地域を舞台とした各種行事(インフラも含)を行う機会に於いても・・・
個々人の生活を舞台とした対人関係を続けていく日々の暮らしに於いても
そう、常に、最低でも、相対する二つの立場から発せられる コトバ の羅列が常として現れる。
そこでは、双方とも、我が述べることこそが正当なのであると言い続ける
嘆かわしい・・・・・
されど、人類の歴史を振り返ったとき
繰り返され続けてきたことであり、
この先、人間が生き続ける限り
永続されることは、たがうことなきことであろう
だが、
人の域というものは、たかが、痴れたものである・・・
大自然を前にしたときに、
人智を超えた節理があり、
超えてはならぬ法があり、
修めねばならぬ訓がある。
我が国日本のこの国で
我が国日本のこの民は
尊ぶ節理に則って、
畏敬の念を携えて、
自然の前にひざまづき
黄金の稲穂が実るがごとく
静かにこうべを直垂て
為すべき規範と守りきて
国の営み紡ぎ来て、現(いま)へと繋がり在りた筈。
大自然・・・
それは、とりもなおさず
地球のことであり
大宇宙のことである。
今一度、
『理屈というものは、いかようにも表すことが出来るものである。』 |
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2010年09月12日
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