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「直線を書いて下さい。」と言われて紙の上に線を引く。この線には、初めと終わりがある。つまり、 直線ではなく、線分である。直線は、永遠に続いている。
生命は、この地球上に誕生してから、延々と今日まで続いている。
人は、生まれたからには、やがて死を迎える。【いのち】の営みが始まり、やがて、終わりを迎える。
ひとりの【生】には、始まりと終わりがある。でも、其の【生命活動】は、子々孫々へと受け継がせ、続けていくことが出来る。いったい、どこまで、ずっと続けていくことが出来るものだろう。この【生命活動】は、直線のように続けていけるものなのだろうか。そうだとすれば、個々人の人生は、線分ということになるのだろうか。
数学者というのは、【美しさ】を求め続けるそうである。数字には、いろんな【法則・美しいきまり】が、定められているそうだ。数学者は、その法則を、美しいきまりを捜し続ける。ふと、思ったのだが、その【きまり】は【真実】といっていいのかもしれないな、、と。
命の仕組みにも【美しいきまり】があるような気がする。DNAの配列には、正しい規則が、あるそうだし、あの、螺旋は、たしかに、美しいと感ずる。この我々人間の体の仕組みも、実に良く出来た法則に則って、構成されているようだ。人の誕生を、進化論にて論ずる説はある。でも、本当に、そうなのだろうか?医学的・人文科学的知識は何もないが、進化論にて、述べられるような誕生が成された訳ではないような、気がしてしまう。この、複雑さ・精密さ・美しさ。
数学者は、その定理を発見する為に、勿論、日々積み重ねの研究、計算式の展開・追求・演算をされているのだろうが、常に、観て・捜して・求め続けているなかで、偶然のように真理の【数式】に巡り合う、閃きつくということがあるらしい。かれらは【こころ】で【みる】そうだ。また、【神様の手帳】を覗き見て、自分なりに書き連ねる作業であるとも表現する。
数字は、この地球上に於いて、殆どの人類が、ほぼ、同一な認識を持っているのではないだろうか。
言葉は、非常に、さまざまであり、雑多のごとく存在し、いろんな、表現法が、用いられている。
また、使用法によっても、いろんな解釈が可能となっている。
言葉で、真実をどこまで表現出来るのだろう。言い回し次第で、いろんな解釈が存在し、これまでの歴史上に於いては、さまざまな真実であろうと、おもわれることが、いろんな人の言葉で、語られてきたのであろうが、いまだに、全人類共通の認識を、ひとつでも、持つまでには至っていないように思われる。
数字が表す真実は、美しいという。では、言葉で現せる、美しい真実は、あるのだろうか。
ある人の科白で『物事は、先ず、行うことが大切なのであり、それに対する説明は、いかようにも、付記することが出来るものだ』という内容を耳にしたことがあるが、人間社会に於いては、まさに、其のとおりである、と思えることが、あらゆるところで、垣間見ることが出来るように思う。
ある人が、ひとつの主張を掲げて行動したときに、そのことについて、賛成するものと、反対する立場に、殆ど、必ずと言っていいほど分離することとなる。殊更、絶対的な、真実が語られるということは、確認しにくいことであろう。
人類を正しく導く為に【神の言葉】として、語られて綴られたとされる、その【教義】さえ、現在の状況としては、乱立しているのが現状であり、それぞれが、又、対立の図式さえ呈している現実が、認められるところである。
人間、自分自身でさえ、そうであろう。自分のなかには、ある物事に対して、大概にして二つの、想いが交錯することは、稀なことではない。其のときに、どれが、真実であるのかなど、なかなか明確に断言出来ないことも多々あると思う。
真実、それも、この人類が生存している地球、其の地球が、存在している、宇宙に於いて、それは、所詮、人間が断定出来るものではないと思う。過去に、聖人と言われた人の言葉として、伝えられてきた教えも、そう考えると、絶対的に真実である、と言い切ることは出来ないのではないか。
この、ブログに於ける記事も、言葉でもって表現しているのであって、その内容に対しては、〈ひと〉によっては、さまざまな想いを持たれることであろう。
日本では、八百万の神を崇めながら、人々が紡いできたとされている歴史が存在する。(勿論、長い歴史の中に於いて、多種多様な、思想・宗教・文化の影響も計り知れないほど、取り入れられて、それらを併せ持ちながら昇華させ、今日に至っているが、日本国の基本はこの神道が基であろう。)
この八百万の神々は、いわゆる、自然のなかに在る。勿論、自然とは、人間が創り出したものではない。人間が、いくら、叡智を振り絞って、暮らしを為してきたとは言え、自然のまえには、おそろしく無力であることは、誰も、異議をとなえられるところではない。
古くより、日本人は、自然を【畏れ、敬い、感謝】して、生を営んできた訳である。
このことは、非常に、理に適ったことではないだろうか。
今、人間が、見失っているもの、それは、自分たちが驕っているということではないだろうか。
人間なんて、所詮、大した生き物ではない(以前は、とてつもない、意義を携えているのだと、思っていたが)ように、思う。ある、意思(大いなる意思)によって、在らせられ、其の【生】を営み続けるだけの、単なる、生命体ではないのか、自らの信ずる想いの儘に。
やがて、その先に、なにかが、在るのかもしれないし、無いのかもしれない。
解らないのだから【在るが儘】でいいのだと想う。
事故により、脳に障害を負った数学者は、80分しか、記憶を留めることが出来ない。でも、数字に対する認識だけは、見失うことが無い。言葉を駆使して暮らすには不都合、不具合を覚えているが、その数字に向けられた目は、真実の探求へと向かい、純粋な想いを持ち続けながら、日々を送る。
今、自らを省みた時、日々の生活に於いて、さまざまな迷いを抱えながら、暮らしている自分がいる。
その中で、おりにふれ【感動】することが出来る自分に、気づくことがある。
己のこころを揺さぶる【人の情け】に触れたとき、わけなく沸き起こる感情の昂ぶりを感じる。
まさに、それは美しい【数式】に出会ったときの喜びの想いに近いのかもしれない。
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