生き方 3

 幼少期の話を書いても、私と会ったことも無い人には、へぇー、くらいなものでしょう。ま、いろいろあるわなぁ・・そんなものでしょう。ですから青春の始まりという感覚の強い長兄の死、16歳、高校一年の終わりから話を始めましょう。その中には幼少期の話も出てくるでしょう。

 元々、それほど強固な結び付きを持っていなかった家族は、兄の突然の死によって、壊れます。兄を死をどう乗り越えるかを家族の中で語る事はありませんでした。むしろそれぞれの中で解決する方向しかありませんでした。それだけの衝撃であったのです。

 飲酒の中で書きましたように、父は乗り越える事は出来ずに、二年後に死にました。母は父が生きている内は看病に、死後は家計を支えなければならない、子供たちを大学に進学させなければならないという思いの中で、友人からの紹介で仕事を見つけ、何とか子供たちにご飯を食べさせる事に邁進して行きます。
 長男の死を、これも友人から誘われたキリスト教への信仰と、仕事の忙しさの中で乗り越えて行ったのでしょう。父の死は、母にとって一面では解放であり、自分の人生を作り出す契機ともなったことです。母は夫であった父や子供たちよりも、はるかに積極的で前向きであり、楽観的な性格を有していた事です。

 さて問題は残された兄と私です。兄は既に20歳、公立大学に通っていました。大学全体ではそんなに小さな大学ではないですが、当時、建築科の一学年の人数は確か15人程度で、非常に親密で仲が良かったようです。アルバイトもしていましたが、それは基本、自分の小遣いであり、家計の助けという考えも、行動もありません。

 兄は長兄の死をどう乗り越えたのかは、よく分からないのです。それでも私とは随分違う形であった事は確かです。ここで友人やバイトの話を書いたのも、兄が友人やバイト先で長兄の死を語り、アドバイスを受けた事を随分、後になって語ったからです。
 でもこれで本当に乗り越えたのかは、分かりません。ただ、彼にとって最も幸福な時代に入っていた事は確かだろうと思います。念願の建築家への道が拓け、気の合う仲間と遊び、議論を戦わしただろうことは想像に難くないからです。そして彼は人並みの生活、「普通」を追い求めていきます。

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生き方 2

 人は誰しも、DNAというか、育った家族との係わりがあり、地域があり、そして学校、職業、会社によって大きく影響を受けるものでしょう。この中の前半部分、家族や地域というのは基本的に選べるものでないし、学校や会社なども選択の余地がそれほど大きいものではないのかもしれません。

 生き方と言うと何か自分で選択したもののように聞こえても、本当の意味での選択可能であったかは、また、それぞれの立場により違うでしょう。

 家族の中のことでも、私の場合は、飲酒の時にお話ししたように、兄の死というのが決定的な意味を生じさせることもありましたし、父親が結核を患っていたということも、決定的ではないけれど、何か影を落としている部分もあります。

 人は同じような環境の中にあっても、それぞれに違っており、多様であり、選択肢はあるようでいて、無い事もあり、逆に選択肢がないことがHappyであることも少なくないことです。
 様々な感想を持つにしても、そのことで評価することもまた、不可能な部分があります。他人の身の上話を聞いても、そのことで何なのだろうか、どうしてそういう行動をとるのか、どうしてそういう感情になるのかが理解できない場合も少なくないのです。いくらその人の物語を聞いても分からない場合もあります。
 でもこれが普通なのでしょう。分かったと思う方が問題であって、誤解している場合の方が多いのでしょう。人間というのは様々なものを背負いながら、誰に知られることも無く、消えていくものなのでしょう。何か分かったような気になっていること自体が笑止の沙汰なのでしょう。

 今日のところは前置きばかりでしたが、さてどういう話を展開しようか・・・どういう話にしますか。

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生き方 1

 生まれてから、70年を過ぎた中で、今さら生き方もへったくれも無いような気もしないではありません。自分の生きてきた時間、その周りにあった事、人々、それらのすべてのことなのでしょう。ではどういう生き方であったのか、それは他の多くの人々と何が違い、何が同じだったのか。

 いまさら評価したってしょうもない話でしかありません。良かったろうが悪かったろうが、取り返すことは不可能な話であり、何事もすべて自身に返って来る話だからです。

 まだ健康です。お金はあまり無いけれど、母親との二人暮らしの中で、大きな不自由はありません。欲望自体も減退しています。そんなに美味しいものを食べたいとも、どこかに旅行したいとか、骨董趣味的な何かを買いたいという欲望も小さなものになりました。

 そしてこうやって振り返る事も、また、小さくなって行くようです。老人は過去に生きているという言い方もありますが、確かに昔の話で盛り上がることも無い訳ではありませんが、そうかと言ってそれだけかというと、元々、盛りがる場合が少ないので、そんな話になるだけです。

 既に記憶も曖昧になっており、それを否定されたからと言って、それがどうということもないのです。次第に霧の中に溶け込んで行くようにも感じます。それが苦痛であったり不安であるということもありません。もう見えないというそれだけです。

 で、表題の生き方について、果たして何かがあるのかが分からないのですが、まぁ、暇潰しくらいに書けるのか、ちょっとした試しです。

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