植物のガイドを辞めると宣言したものの強くひきとめられ、うだうだしながら、ともかく休むと言ってから、一月ほど経ちました。

 時間が経つと、益々、ヤル気が失せるという感覚で、これまた不思議な感じがします。ボランティアというのは、やはり相当に気を込めないと持続できないのかもしれません。意外なほどあっさりしたものです。まぁ、これでフェイドアウトかなという意識が強いもので、こんなものかと。

 今回のいろいろなやり取りの中で、ボランティアの歴史というか、その園の管理体制の歴史とボランティアの歴史とが噛み合って、それぞれいろいろな歴史を刻み、それが運営にも反映しているのだということが分かりました。

 ボランティアを使っている組織というのは、まぁ、そんなに管理レベルが高くなく、人材的にもたいしたことのない人が当たるということもあるのでしょう。つまりは情けないものでありまして、巧く使いこなすことも、なかなか無いというか、ボランティアの方も最初はともかく慣れてくれば、好き勝手にやるという特質もあって、なかなか面倒な事が起きがちであるということなのでしょう。

 人間関係なんていうのもスルリと抜けてしまう感覚で、全然、関係なくなるようです。まぁあえて会いたいと思う人も誰もいません。希薄さこそがボランティアのボランティアらしさなのでしょう。

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リアリティ

 アメリカを除く先進国では戦争へのリアリティを喪ったというか、国を挙げての戦争はリアリティがありません。ここに先進国以外の国々がつけ込むというか、居丈高にのさばる感覚が強くあるように思います。北朝鮮なんかは典型ですが、どうせ戦争ができないに決まっているという感じが濃厚に伝わってきます。

 戦争を厭わない、恐れない、暴力の力で支配を強めるという感覚は、現在、批判やら非難が強いポピュリズムとも絡み合っていて、なかなか不思議な国際環境を作り出しているように見えます。自国ファーストを唱えれば最終的には力で力を制するような感覚になるのも止むえないところがあり、軍事力を強化する流れが生まれるのでしょう。

 私自身は、現在、湧きあがるポピュリズムを否定する気持ちはありませんし、力には力で対抗するのも、グローバリズムの中では当たり前のように必要であると考えるものです。奇妙なヒューマニズムに立脚したパヨク的な主張は害しか生み出さないと思っていますから、自らの力どころか、反省することも無く、自分だけの正義を振り回す輩が横行する世界にはうんざりです。

 変な主張やらできもしない嘘をばらまき、繰り返している連中に痛い目に遭わせたいという気分がポピュリズムとなって噴き出している感覚があります。こn時代感覚は相当に長く支配するかもしれません。

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知的障害者

 私がボランティアで行っています社会復帰支援施設には、複数階あり、他の階には様々な障害者のための施設があります。身体障害者、知的障害者のための施設もあり、複数の障害を抱える人々もいます。彼らとの交流は基本的には入口などですれちがうくらいですが、施設全体のイベントが年に2回くらいあり、また、バザーなどの支援のための催しもあります。

 そんな状況ですので、何となく身近にそういう人々がいる事に慣れつつあるし、NHK教育番組で障害者関係の番組を視ることも最近では多くなりました。

 感じる事は非常に多様であるという事実と、それぞれの障害に対する向かい合い方なり、社会の対応にも、大きな違いがあって、それを何かいっしょのように考えてしまう自身がいます。

 知的障害と精神障害とは何が、どう違っているのか。生活のどの部分がどうであるのかを考えたりします。同じように黙って座っている、あるいは何かをしようとする時、彼らの動作は似ていても、我々の受け取り方には大きな差があり、対応して動くこちらの働きかけにも大きな違いがある。

 どちらが辛いのかを問うこと自体、無意味ですが、それでも精神障害の方が辛そうに感じる事があります。知的障害では、やれることを時間がかかるにしても、少しづつ増やしていく、それらを通じて解放されていくことができるならば、未来への扉が開けられる感覚があります。

 精神障害では、病院・医師・薬という枷の重さは非常に大きく、ある種のやるせなさを感じないではありません。

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