レジリエンス 2

 更新の時間が空いてしまいましたが、相変わらずレジリエンスのことを考えています。

 かつて若い頃に会った何人かの、異常者、その中にははっきりとした精神障害者もいました。精神病院に通っているという意味ですが。その他にも精神病院でなく心療内科ぐらいなら、数限りません。精神病に対する相性というか、何かそういうものがあるのでしょう。

 彼らは鬱病の人を除けば、概して特異な傾向があって、感性で注目させるものが沢山あって、私も随分、勉強させていただきました。アールブリュットなんかも、誰だったか、もう覚えていませんが、あれは素晴らしいと教えてもらいました。

 ですから心の病を抱える人は大なり小なり、そういうものを持っているのだと誤解したところがあります。この三四年の中で数十人の心を病む人に会ってきた訳ですが、ほぼ皆無に近い。
 前に紹介した絵の巧い子にしても、突き抜けたものが無い。独学でここまでできるのかという意味では異能ではあるのですが、突き抜けたものは今のところ発見できていない。まだ、発券できないというのは、まず無いだろうと。

 非常に強い苦しみの中で、激しく感性が揺さぶられ、敲き上げられ、突き抜けた感性が新たな世界を作り出して行く、それが磁力になって様々なものを引き寄せていく、それが復元力としてのレジリエンスなのではないかと思うのですが、そういう意味では私なんかはレジリエンスそのものみたいなところがあって、なるほど精神病になることはなかったと言うべきかもしれません。

 それでも初めは病む何かから始まっているのですから、レジリエンスだけで癒される事も、回復というか元に戻る事はありえない話で、別次元に飛び越えていくエネルギーにはなるのでしょう。

 しかし、そういうものが無かったなら、いったいどうやって彼らは新たな世界を見つける事が出来るのだろうか、それが見つからない。

この記事に

レジリエンス

 先日、統合失調症に関する講演会がありまして、そこでレジリエンスという言葉を学びました。精神的に追い詰められるような困難に遭った時に、精神的回復力なり、困難に対する抵抗性、耐久性のことを意味するそうです。これの反対語は精神的脆弱性です。

 個人的な資質以外の周囲との関係や環境も含まれるようです。つまり何か遭った時に、崖から落ちるような状況の中で、手を繋いでくれるような、支えるような人が周囲にいたりすることも含めての精神的な強さを意味するのでしょう。

 レジリエンスには自尊感情、ユーモア、対人関係能力などがあり、困難の中で様々な引き出しというか、そのことだけに囚われないで他に目を向けていく新奇性の追求のようなものが入っているようです。

 このことに注目したのは、心を病む人の、何度も書いてきましたように「普通」過ぎることがあります。前回の正義の話もそうなんですが、苦しんでいるのだから、当事者なんだから、もっと奥深くまで考えたらどうなのか、という感想を持ってしまうところがあります。

 絵でも音楽でも漫画でも映画でも、何でも良いのですが、角が立たない。驚くべきほど普通の人がするものと同じなのです。私の方が、というよりは私が非常に強い好奇心を今でも維持している、つまりはレジリエンスが高いために、何故、彼らが「普通」でいられるのか分からない。何故、そこに留まっているのか?

 病で苦しむ中で、当然のように突破しなければならないと思われる感性が「普通」であることで行く手を阻む。それが病の回復を遅らせるのか? 夢中になって突き進む事を阻むのは自身の問題なのか、薬のせいなのか、障害者を取り囲む福祉政策なのか、まだ答えが見つかりません。

この記事に

正義感

 障害者の話の中に正義がかなり主張される事があります。時として正義は刃のようなものですから、健常者の私からすると、それは言葉に出さない方が良いと思えるような場合もあります。特に健常者と向かい合った時に、正義を主張する。
 これが障害者同士の事になると、正義の主張はほとんど見えなくなります。むしろかばい合うところがあります。

 正義の主張が虐めとか、ネグレクトなどを引き起こしてきたのではないかと思える場合もあります。正義の刃が逆に自分の方に向いて、自身を傷つけるようなこともあったのではないかと。
 虐めに遭っている人を助けようとして、自分も虐めの対象になり、酷い目に遭い、それが不登校などを引き起こしたという話を聞かれたこともあるのではないかと思います。それが原因で精神病を発症するというよりも、それが切っ掛けになるという感じはあるのかもしれません。

 正義の論理というのは難しいものです。それに納得して行動を改めることよりも、反発と、侮辱を感じる心持の方が多いように感じられるのです。そんな事を言うお前はどうなんだという風にです。

 ここら辺は育ちの問題が大きいとは思いますが、正義を唱えることの快感が生み出すものでもあるのでしょう。障害者が正義の立場、ヒューマニズム的なロジックで攻め立てられると、こちらは何も言えなくなる所があるのですが、それで問題の一部が解決するにしても、簡単には感情の方の修正はきかないと私には思えます。

 正義を唱えざる得ない立場はよく分かりますが、言うほど簡単な話ではないと思えますし、差別は払拭されない。差別は悪かもしれないが、それでも配慮という区別は残るのは当然の事なんだろうかと思わないではありません。

この記事に

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事