飲酒

 飲酒にまつわる感覚というのも、他の人には無い何かの一つを構成しています。元々、父方にしろ母方にしろサケの強い人はおりません。嗜むくらいがやっとぐらいです。その中にあって父は、かなり飲む人ではなかったかと思います。それでも家で晩酌をするタイプではなく、そういう意味では家にビール一本あった事はなかった。

 基本的に酒が好きというのではなく、他人とのつきあいで必要というか、飲んで騒ぐことが付き合う際に不可欠のものと考えていた節があります。ですから一人酒というのはなかったのではないかと。

 長兄は、大学に入ると、無茶飲みをするようになりました。多分、様々な鬱屈を抱えていたからでしょう。大きな期待を背負っていた長兄が二十歳そこそこで死んでしまい、そのショックで父親もまた、酒を浴びるように飲むようになりました。そして兄の死から二年後に死にます。

 このことが残された次兄と私に強い影響を与えます。酒に酔うことへの強い警戒感です。次兄も私も酒が飲めない訳ではないけれど、しかしさほど美味いとは感じない上に、金もかかる(当時、酷い貧乏でした)、飲めないと言って拒否する場合が増えていきますし、ビールでもほんの一口しか飲まない形になりました。

 このことは当時の大学や会社の人間関係の風潮とは真っ向から対立するものでした。今はそれほどでもありませんが、上司・先輩である自分が注いだ酒が飲めないのかと激しい非難、暴力沙汰に近いような騒ぎに膨らんで行きました。
 それでも頑なに拒否する姿勢を続けた結果、明らかに人間関係はおかしなものになる場合が少なくない状況に立ち入りました。酒を通じないと本当の事、本音が分からない、本性が分からないという考え方やら、酒を一緒に酌み交わさない間柄の限界とかは、さんざんぱら言われました。
 ですから若い頃は少しは飲めるようには努力したこともありますが、結局のところ酔うのが楽しいというところに至る事はありません。人づきあいのためという苦痛に満ちた場でしかありませんでした。

 これは私も次兄も同じでした。強靭な個性というか、妥協しない姿勢は他のどんな問題に対しても同じだったでしょう。

 こういう酒にまつわる出来事が消えてきたのは、60歳を過ぎてからじゃないかと思います。私に友人がほとんどいないと言うのも、こういうところが大いに影響しているのでしょう。

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閉鎖性

 ちょっと更新の時間が空いてしまいましたので、ちょっとした穴埋めに。

 最近、これまでまったく興味がなかった現代建築、一応、建築雑誌に名前の出ている方々ばかりですが、いくつかを見る機会があり、雑誌なども見ています。

 で、好きになったかというと、そんなことはまるでないのですが、日頃、70年以上経った家に住み、古い建物のガイドをしている関係もあって、思うのですが、近隣に新しく建つ住宅にしても、有名建築が係わる家にしても、内部空間は広々として快適そうですが、外に向かっては極めて閉鎖的、寄せ付けない感覚になります。

 現代というのは、外から誰かが訪ねてくるということを考慮しないというか、誰かが訪ねてくる事を拒否しているというか、家の前を通る人が、こんな家に住みたいとか、良いなぁとか、立派な家だなとか、そんなことを思わせないような、ある種の拒絶した世界なのだと思わないではありません。

 昔の非常に開口部が大きい開放的な日本の民家とは対照的な姿に陥っているのはどういうことなのだろうかと考えないではありません。
 絆という言葉が流行していますが、実際の社会は絆とは逆のものであり、特に若い世代というよりは、きっと中年の世代がそうなんだろうと思うのですが、どんどん孤独化しているのは不思議です。昔と違って会社の同僚とも付き合いも小さくなっており、当然のように地域との係わりあいもほとんどない。学校の同級生とか友人とかはどうなんでしょうか。男と女の関係にしても、婚活に励まないと、なかなか相手が見つからないように見えます。

 ほぼ完全に孤立して生きているような私が言うのも変な話ですが、世の中はどうなっているのかなぁ・・・。

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アールブリュット

 アールブリュットについては以前にも書きました。障害者が作り出す芸術作品で、主に絵画とオブジェです。音楽や演劇などはそれが主に障害者によって演じられていてもアールブリュットとは言わないようです。

 何か月前には東京駅のステーションギャラリーで行われたフランスの世界最高峰というキャッチフレーズのついた人の展覧会を、最近では近隣の美術館で開催されたものを見てきました。ここ何年か、まとまった展覧会というと、村上隆とか、つい最近の東南アジア現代美術展など、比較的現代ものが多い傾向です。

 それでアールブリュットですが、少し飽きてきた感があります。アールブリュットに出展する障害者の一番多数を占めるのが知的障害者ではないかと感じます。精神障害者はそれに次ぐとはいっても3割もいないか??
 見慣れてくるとアールブリュットらしい表現というのは、ある種のパターンというか、共通性がある事に気が付いてきた部分があります。まぁ、それも面白いし衝撃的であったりする場合もあるのですが・・・。

 何故、こんなことを書いているかというと、障害者支援施設の利用者の中に、驚くべきほど絵の巧い子がいる。非常に独特ではあるけれど、その子の過去からの絵をこの間見せてもらったのですが、今、多分、三十代の半ばに達しているようなのですが、十代の頃、つまり精神病が発症し、急性期を終えたくらいの時期と思われる頃に描かれた絵は、明らかにアールブリュット風なのですが、今日、彼女の描く絵は普通の画家というよりはイラストレーターが描くようなものになっている。
 それも普通のイラストレーターが描き出すようなものではなく、異様なほど生命力に満ちているのです。彼女は写真を題材にして、それを鉛筆で描き出すのですが、一枚の絵を完成させるのに、何枚も何枚もの試作を重ねて最終的な作品に仕上げる。その腕は誰にも教わったことがないというのが信じられないほど見事過ぎるものであることです。

 アールブリュットの展覧会に出せば賞を獲れるのは間違いありませんが、しかしこれは障害者の絵というくくりの中で評価すべきものなのか、非常に当惑させるものがあるのです。それで最近、アールブリュットというのは何なのであろうかと考えたりしているのです。

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