変容して行く時の流れ

 HPで歴史ものというか、生きてきた時代を70年代、80年代、90年代に分けて、いろいろその頃の世情というか、自分の興味の中心だったものを掻き集めて作っているのですが、やはり時代が変遷して行くので、次第になかなか見れなくなって行く、勿論、言葉なり人が分かっていれば、ネットを使えば、かなりの部分、引き出せるのですが、それもなかなか難しくなっている現状があります。

 というのも全部が全部、完成していた訳ではなく、まだ80年代でやり残したところがあて、少し時間が空いたので、そこを埋めようとしているのですが、それがそう簡単にはできなくなってきている。記憶があいまいになり、資料もなくなっている。

 そして思うのです。何がどう変わってきたのかを。

 80年代の前半、後半はバブル景気が盛り上がって行く、熱狂的な雰囲気に包まれる時代ですが、それより少し前の前奏曲のような時代の中で起きてきたものですが、多分、一言で言えば「変態」に類するものです。
 今はある部分は当たり前化しているというか、かつてのような薄暗いものは消えて、サラサラのものになって、一部の趣味の人のみが係わるものであって、それもごく一部で、他の人には何の関係もない、大した内容も無い世界の話になりました。
 人間の本質の一部をなしているという幻想が消え、興味を失った対象となった感じがします。再び、影に隠れたというよりも、日の光の中に置いたら、何もありませんでした、くらいの感じでしょう。

 性にからむ変態的な要素は、私自身が年寄りになって性的エネルギーを著しく減退させたという側面もあるのでしょうが、世の中全体が性への関心を寄せなくなったというべきなのでしょう。

 新宿歌舞伎町に行っても、怪しさを感じる、危険を感じる事はひどく少なくなっているように思えます。アンダーグラウンドの世界が一段と見えづらくなっているというか、闇の形が変容している。昭和の時代的な暗がりが消失してきているのでしょう。

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有名文化人 6

 有名になって行くプロセスというのは、おかしなものがあることが分かりますか。本人とは、まったく別なところで動いて行く部分が結構あり、本人と世間の間でミスマッチが起きていたりする事がよくあることです。

 ここに本人の誤解、自分の実力と過信する部分が出たり、自分のやりたい事とは別な事をせけんが期待する様なことが起きますし、自分ではそういう積りは無くとも、周りから、自分と一緒にやってきた仲間から、何故、アイツだけがという感覚やら、変化する態度から、昔のあいつとは違うとか、そんな評価が巻き起こってきて、昔の友人が離れていく、自分を支えてきた人が消えていくという事態が生じてきます。

 分かりますか? ここで激しく人間性が問われる事になり、試練に見舞われるのですが、勢いのある内は、これらを乗り越えられますが、少しでも勢いを失うと叩き落とされることになります。そしてその時には、かつての友達も支えてくれる人も、かつて自分の言う事に嬉々として従ってくれた部下も、いない中で嵐のような攻撃に見舞われる事になります。

 でもまぁ、こんな話も身近ではなくとも、お話として聞かれる事も多いでしょう。問題は、このシリーズのタイトルである彼なり彼女を評価した「有名文化人」という存在です。有名文化人の多くは、既に世間的に知られるようになった彼なり彼女には、さほど興味は無くなっている場合がほとんどです。一緒になって何らかのイベントを組むくらいが関の山です。

 有名文化人たちも、同じような試練、修羅場を経験し、なお、世間的に有名人であり続け、それなりの評価を得てきた人間達です。彼らは彼らなりの身の処し方があり、いわゆる世間との距離をどう取れば良いかについて経験で知っている部分があります。まぁ、分かっていても何度となく修羅場に入ったりするのですが・・。
 そして取り巻き、ファンを抱えていますから、絶望的に孤立する事は滅多にありませんし、大事なのは誰かもよく分かっているというべきでしょう。

 そんな有名人が何故、ぽっと出の無名な子を取り上げるのか、評価するのかを考えた事がありますか?
 

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有名文化人 5

 何によって注目されるようになるのかは、いろいろな側面があります。本来の活動、芸能でも、スポーツでも、額mんでも、そうなんですが、そういう本業で非常に優れた内容で注目されるとは限らないところが、世の中の不思議なところでもあります。また、それだからこそ面白いというべきかもしれません。

 えてして非常に優れたものというのは、とっつき難いところがあり、素人にはよく分からない。ノーベル賞なんかは典型ですが、ノーベル賞をもらったから、何だかよく分からないけれど、凄いんだろうなと。話を聞いても、ほとんど理解できなくても、分からないからこそ凄いという評価が出てきてしまう。研究業績の事は分からないし、同じようなレベルの人がいても、端から研究している中身がまったく分かっていないのですから、評価しようもなく、ただノーベル賞をもらった人が評価しているから、きっとこの人も凄いのだろうと。

 まぁ、これが一般人というよりも、私自身も含めての話でしょう。賞という鏡が無いと評価できない。そんな例に近いのは、北野タケシ監督の映画でしょう。今でこそ相当の割合で評価する人は多いですが、初めの頃の作品ではお笑い芸人が作った映画という事で、ほんのわずかな評論家以外はまったく評価されませんでした。これがカンヌでグランプリを獲ってから次第に評価を高めていく形になりました。

 なかなかいろいろありますね。賞という評価の鏡を文化的有名人が果たす事があります。彼なり彼女が、アレ、面白いよ、是非、見ると良いよと吹聴することで、あるいは評価された本人が、アノ有名人にも褒められた、認められたという形で宣伝することもよくあります。

 ここで有名人のサークルの間で、共有される人として出てくる、次第に名前が知れてくる中で、その何が評価に値したのかは、先のように、なかなか微妙である事です。本業そのものではない場合もあるし、本業の中でも、最高点、頂点のものではなく、むしろ分かりやすいとか、よく分からないけれど、面白いとか、やってることはたいしたことないけれど、キャラクターが素敵というか、美人であるとか、色っぽいとか、変だとか、怒ったり泣いたりするのが面白いとか、何かそんなものが中核になったりします。

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