頼りにならない

 兄の事を考えているのですが、資質的にはよく似ているとは思っていて、何かしらの行動の理由とか、感情の出方とか、そういうものは非常に近いものを感じる。多分、ここらは兄嫁とか、子供達より私の方がピンとくるものがあるように思う。

 しかし、表面に出てきている行動とか、話す内容とか、社会との向かい方、関心を持つ対象とかは驚くべきほど違ってきている。驚くべきほどというのは私の感覚で、違うのが当たり前とする考え方からすれば、驚くべきほどではないでしょうが・・。

 中でも一番の大きな違いは好奇心です。私は前に書いたように好奇心の塊みたいなところがあって、好奇心を抑えるのに苦労するくらいであり、好奇心が無かったら生きていられたとは思えないくらいのものです。
 ところが兄の話を聞いていると、物に対しても、人に対しても、好奇心らしいものがほとんど見当たらない。長く建築家として建設業に携わってきたのですから、その辺りに何かあっても不思議は無いのですが、娘達が家を作るにあたっても、積極性は欠片もありませんでした。
 娘達が何をどうしたいのか分からないというばかりで、自分の考えを実現するものとしての設計は無いようでした。

 気がつく事は、何かを学ぶこと、そしてそれについて考えるという習慣をほとんど持ち合わせていないように見える事です。これが年寄りでは普通の事なのかもしれないとも考えるのですが・・・。

 弟としては、何故、こんなに違ったのか、少なくとも十代の頃まではほとんど差異は無かったように思えるのですが、さてどうなんだろうかと。母に言わせると、勉強は兄弟の誰よりも、よくできたけれど、人づきあいが苦手と。しかしまぁ、人づきあいという意味では私も変わらないとは思うのですが・・・。

 この間、母に向かって「弟はしっかりしていないと思っていたが、よく調べているし、考えているから弟に頼っていて良い」と言っていまして、自分はしっかりしている積りかよと思いました。
 母も兄の事を何の頼りにならないと私に言っておりました事を本人は想像だにしていないのでしょう。そして現実には頼ろうとしても、端から逃げ回っているとしか思えない態度なのです。

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音楽

 久しぶりに精神障害の話を。最近、イベントがあり、一つは談話会であり、もう一つは私の行っている施設は精神障害だけでは無い身体障害+知的障害の作業所が併設されていて、施設全体の交流祭がありました。

 こういうイベントも当然のように参加できる、参加したい人のみですから、全体の人数の2割程度の参加です。スタッフの数を倍くらい上回る感じでしょうか。

 談話会は利用者さん、スタッフさんが皆に聞いて欲しい一押しの曲を披露するもので、ジャンルを問わず、時代も関係ないものでした。

 選曲は皆さんが思うような何か特別なもの、ユニークさはありません。ほとんどがpopsであり、軽快なものばかりです。重いヘビーなもの、悲しげな悲哀に満ちた曲、静かな曲は全然、ありません。

 彼らの日常的な苦痛からすれば、音楽を聴いて落ち込むようなものは受け容れ難いものなのでしょう。

 そして当然のように、今流行っている曲も登場しません。詳しい事は分かりませんが、多分、十年以上前に流行していた曲であるし、アイドルが出てきても、私がまったく知らない、聞いたこともない名前の人は少ない。
 抽象性の高い音楽、現代音楽はともかく、ジャズもない、クラシックもない。民族音楽もない。つまりはひどく狭いジャンルから選ばれている。

 これは何だろうと以前から考えているのですが、彼らの中で、アレは良いとかいう感じで盛り上がることもまた少ない。利用者の趣味を否定する事はあり得ない雰囲気があり、微妙な空気があります。

 こういう中では私のような好き嫌いがはっきりしていて、精神に強く訴えかけるような曲を好む傾向とは相容れないところがあり、何が好きと言われても答えに窮する場合の方が多くあります。彼らのほとんどが知らないプレイヤーであり、音楽だからです。

 私と彼らとの間には、何だかんだ言っても共感できる部分はほとんど無いのです。

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在宅 8

 在宅を志向しながら、現状では病院のお世話になっている現状の中で、在宅というのはどういう意味を持つのかを最近、よく考えるのです。

 昨日はそれこそ一ヶ月ぶりくらいに、母から「これで何時帰れるのか」と問われました。転院から少し落ち着いたところだったので、とうとうまた、この責めを負うのかと。

 本人の気持ちの上では、家に帰れば、また、以前と同じ生活、家事をし、近所にも出かけられると思っていますが、到底、そんなことは可能なはずはありません。よしんばベッドの中での生活だとしても、それは暫くの事であって回復可能だと。すべてはそこに行きつく話です。本人は自分が死の淵に立っているという意識は露ほどもありません。

 在宅での看取りとは、本人の意識には無く、私の意識というか、周囲の意識の中にありますが、それでもよそ様は癌だとは言っても、回復する例はいくらでもありますから、健康に戻る希望を述べます。でもまぁ、医師が治療を何もしていないのですから、気持ちだけで回復するとは信じられません。

 このギャップの中で在宅での療養は、果たして本人にとって幸せなのか、延命は考えてはいないにしても、命を縮めることに繋がらないのか、分からない。答えの無い問です。

 そして私自身の負担はいったいどのくらいになるのか。ほとんど着ききりになる、そうなればボランティアも辞める、各種の講演会なども辞める、なんでもかんでも辞める事になるのか。
 そして介護のレベルはどの程度なのか。最大のポイントは下の世話だという話ですが、夜もろくろく寝られないという話がある一方で、夜中でも来てくれるヘルパーさんがいて、お金はかかるけれど、世話をしてもらえる話もあったりします。

 多分、どちらも真実なのでしょう。それでも本当にやりきれるのか。何しろ私は不器用であるし、母親も息子に下の世話をしてもらうことに抵抗しないはずもない。まぁ、背に腹は代えられずかもしれませんが・・。

 食事の世話にしても、腎臓は相当にやられていますから、減塩どころか塩分ゼロに近い食事を作りきれるのか。これもお金で済ませられはしますが、さてその費用は、今の入院代とどちらが高いか、これまた、微妙な差でしかないようです。

 ヘルパーさんにしろ、訪問看護士さんにしろ、地域の事情もあるし、それぞれの人の問題もある。そして余命何カ月かの話ではなく、相当な長期戦を覚悟しなければならない。

 最良の選択肢を考えることはできず、その時の事情に委ねる、つまりは運まかせという感じが、自分を苛立たせることに繋がっています。

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