食中毒? 風邪?

  ブログの更新が滞っている状況ですが、まぁ、何とか生きてはいます。土曜に何度も嘔吐を繰り返して、何か悪いものを食べたかなと思い、食事を抜いて胃腸の回復に努めてきた結果、まぁ、胃腸の方は良くなってきたのですが、それに代わって咳が出始めて、あれ? 風邪なのかなと。こういう時に一人暮らしというのは難点ばかりが出てくるもので、もがいている感じがします。

 こういう中でも母の入院先には行っていますが、もしかすると、うつるかもしれないと思いまして15分くらいで病室から出てます。先週末に病院に行きましたら突然、6人部屋から2人部屋に移りまして、酸素吸入も始まっていて、いよいよかと思いましたが、看護士長さんの話では、モニタリングの電波状態のためで病状が悪化したのではないという話でした。

 まぁ、院内のモニタリングが無線で行われているとは信じ難いので、ナースステーションの眼の前の病室に移動したこともあり、何かの備えなのだという感じもします。

 既に言葉どころか、意識も眼は開けていても、私であると認識できているか、というと多分に難しい状況であり、手足もほとんど動かせない状態に至っています。手足の浮腫みはひどく、肌はガサガサであり、いくら本人が苦痛を訴えることがないとは言っても、かなり残酷な状況に陥りつつあります。

 私も次第に母親のこの状況をかわいそうだという想いが濃くなっているこの頃です。また、6人部屋から2人部屋に移ったことで、支払いはどうなるのだろうかと。
 差額ベッド代で一日4千円とすると今までの入院代の上に12万円かぶさることになり、月の支払いが30万円となり、半年、1年はともかく、それ以上になってくれば、支払えなくなる。となれば在宅への切り替えにドクターストップをかけた責任はどうなるのか。

 とまぁ、いろいろあります。

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高齢者の貧困

 朝夕に新聞を読まなくなって、辞める前には少し寂しいとか、手持ち無沙汰なんかあるのかと思っていましたが、何の差し障りもないのに、ある意味、驚いています。何の不自由もない。無駄だったというのが、よく分かるし、煽りが無くなった分、平和になっています。

 NHK教育だったかと思うのですが、年末ごろに高齢者の貧困が話題になっていたので、当事者かな??同じ年代として分かる話を。

 年寄り、高齢者の貧困問題は番組の最初に言われていたように、生きてきた時間、中でも成年になって以降の累積的な過去によって規定される収入というか財産というか、貧困かどうかが決定される。格差は現在の環境ではなく過去の蓄積にあります。

 人生が幸福であった、愛に満ちたものであったかは関係ありません。生き甲斐のある仕事も関係ありません。人格も、友達や家族も関係ありません。どんなにつまらない仕事あるいは低い地位でも、他人から嫌われるような人格でも、ある程度以上の会社で営々と長年勤めあげれば、我が国の社会保障制度からすれば、それなりの年金が支給され、格差の底辺に属する事はありません。

 団塊の世代から、現在60歳近辺にある人達で貧困層に属する人達は、社会から落ちこぼれてしまった犯罪者や障害を負ってしまった、長年、療養生活を送ってしまったような、そういう人達の事は分かるかと思います。それ以外では職を転々とした人達がおり、中でもバブル崩壊で会社が倒産したり、リストラで苦しんだ人達がいます。
 あるいは自営業で小売店や飲食店、あるいは中小企業で社会保険も最低限しか払わなかったところで長く働いてしまった場合もあります。

 生活保護受給者が高齢者の5%にも及ぶという統計もあるようですが、まぁ、そこまで多いとは思えませんが、申請が増えていくのは、よく分かる話です。

 というのも家族が高齢の両親の生活をみることは、ほとんどなく、介護が必要なレベルにまで健康状態が悪化してくると、必要な金が急上昇してくるのです。

 私なんかの場合、年金からすると、特養が入れるぎりぎりで、老健も難しい、まして民間の老人ホームになんかには絶対無理という水準です。こういう老人に対して医療の方も差額ベッドなんかも、短期間はともかく、少し長くなってくれば、貯金を取り崩す、それも急激になくなっていき、入院期間が分かっていなければ、まず無理です。

 病院や施設も、とりぱっぐれを防ぐために、いろいろなガードをしていますし、あの病院は貧乏人は受け付けないという噂があったりします。

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 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 最近は少し看護疲れをしているらしく、ネガティブというか、生活のいろいろな面で、どうしようかと思うところがあり、展望が開けない気分にあります。

 ボランティアにも、飽きてきており、組み立て直しが必要になっていて、若い頃の大きなテーマ、死と狂気から、そろそろ出ていこうかという気分になっています。

 死の問題は、否が応もなく母の問題に繋がっていますし、これから先の一人で生きていく時間の中で直面するものではあるのですが、死自体の意味を問う、生きるを問うことからは、遠く離れてきています。
 理念よりも現実の厳しさと、それを如何に乗り越えるかであって、それ以上ではなくなっている。

 古くなって、くたびれてきている家や家電用品なども、どういう形で更新するかは、今まで全部、母親任せでしたから、これも考えなければならない。

 60歳の時に、これからどう生きるかを考えた時に、何時でも何処でも、いかなる条件下であろうとも、そこで死ねるという覚悟を考えたのですが、でもそれは私が若い頃から常に保持してきたものであって目新しくも何も無かったので、それに加えて百歳まで生きることを前提にした組み立てをしようと、これまで考えて生きてきました。

 百歳まで、三十年弱、これをどう生きるのか、どう死ぬのか。

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