寄り添う

 ホスピスでも、高齢者福祉でも、その他、様々な場面で困っている人々、被害者、障害者等々に寄り添うという言葉が頻繁に使われています。

 この例によって我が国らしい言霊的なものいいが横行している訳ですが、さてこれ誰が言い始めたのか分からないのですが、そんなに昔の話ではありません。私の若い頃は勿論の事、つい最近まで聞いた言葉ではないので、多分、この十年くらいから世間に流行る言葉なのでしょう。

 さてこのものいいの現実の行為とは何なのでしょうか。よくその対象になっている人の立場に立って共感するというか、痛みを分かち合うとか、そんな解釈が多そうです。

 でも分かち合えるような苦しみがあるのかという疑問、寄り添う必要があるほどの出来事の当事者にどれだけの意味をもたらすのかと言えば、はなはだ難しいのではないか。経験の絶対的な強度は普通に生活している人間には到底、及びもつかないものであることしばしばです。そんな経験に寄り添うことは不可能であり、ある種の欺瞞を感じない訳にはいかない。

 寄り添うという言葉の美しさが、具体的な行為として何をするかを逆に狭めているようにも感じられるのです。死に瀕している患者に、精神病で苦しむ人々に、何か語ることがあるのかと言えば、あまりやってはいけないとされる励まし以外にできることはなく、そんなものは一言二言で済んでしまい、彼らだって語る事は徒労であり、孤独を深めるだけです。
 よく言われるように語ることで、何かを吐き出すことで心が軽くなるという話も、私の経験からすれば、かえって自分がその人を遠ざけることになったし、より強く過去を意識するようになった。

 何をすることが、どのように向かい合う事が寄り添う事なのか、私には分からないし、多分、その解を誰も持っていないで、言葉だけが一人歩きをしているのではないかと。 

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拠り所

 ホスピスのケアにおいて拠り所となる他者を見出すことを手助けすることにあるのだという話を聞きました。これは何なのだろうかと考えています。

 人は死に瀕した時、つまり臨終が迫った時に、誰かにすがりたいと思うのでしょうか。ある部分は分かる話ではあるのですが、その一方で必ずしも、そう言いきって良いのか、という感覚を持ちます。
 勿論、ここでいう他者とは人間であるとは限りません。神であったり、仏様であったり、何でも良いという事はでは無いでしょうが、何か超越的なものにすがろうとする。もしかすると一族を象徴する様な、御先祖様もあるのかもしれませんが・・・。

 死を経験する事は不可能ですから、何かにすがろうという感覚もまた不明です。その一方で自殺しようとする人間が何かにすがるという可能性はあまり想像できません。やはりホスピスという特異な状況が作り出すものなのでしょう。

 癌の進行による追い詰められていく死を見据えなければならない、迫りくるものへの不安が惹起するものだからでしょう。

 自分だったら、どうであるのか、と言えば、単なる苦痛の中では誰かにすがろうとはしないでしょう。せん妄状態のように自身をコントロール不能になった時には誰かにすがろうとするかもしれません。そういう意味で、絶対にすがらないとは言えないですが、多分、かなり高い率で他者にすがろうとはしないでしょうし、すがるような人物が存在するとは思えないのです。。

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拘禁症状 2

 先日、新聞でも小さく報道された話題で、ニュージランドの青年が日本の精神病院で身体拘束で死亡したという事件があり、NHKのハートネットTVでも取り上げられていました。

 TVでわずか10日間の身体拘束で死亡した事、非常に若い二十代の男性であることを知りました。TVで日本の精神医療での身体拘束の多さと、拘束している時間が非常に長く、それも数カ月単位、最も長い場合は年単位にもなる話がありました。拘束する患者の数が急増しており、非常に問題であると。

 この話は裏があって、精神病の患者は地域に戻す活動もあり、長期にわたる入院は非難されるようになってきており、精神病院が経営問題として認知症の高齢者を積極的に引き受ける、入院することがあります。

 元々、我が国の精神病院は、治療という側面よりは収容が社会的に期待されたところもあって、少人数の医療スタッフでも経営できる、極めて経営的に旨みのあるものであったことから、医療とは無関係の事業家がこの分野に参入し、金儲けを主力とした経営が広く行われてきた経緯があり、それを統制しなかった厚生省も問題が大きいです。

 こういう金儲けしか考えていない精神病院が高齢者を引き受けた事で、介護者の手数を煩わすような患者に対して簡単に身体拘束を行う傾向があると言われています。それが身体拘束を急増させる要因であり、それが長期化するものになっていることです。

 拘禁症状以上に身体拘束は肉体的精神的に人間存在を脅かし尊厳を喪うものになります。何しろトイレに行くどころかベッドでおむつに出す以外にないのですから、苦痛であり屈辱であり、諦め垂れ流すしかないというのは意思を奪うことに繋がります。認知症は一挙に進み、ほぼ痴呆状態になると言われます。

 メンタルヘルスの分野における商業主義の危険性は、非常に高く、統制を強めていくしか方法はありません。商業主義が虐待なども生む温床である事を思えば、なおさらです。

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