セカンドオピニオン

 インフォームドコンセントは癌の告知に係わる議論であったのでしょう。それ以外の病気にも話が膨らんだので奇妙な形にねじ曲がっているところがあります。成人病とか、認知症にインフォームドコンセントを適用しようとするとおかしなことになる。

 セカンドオピニオンも、現在の運用方法をみると、主治医と違う意見が出てくる可能性を否定したものです。どういう運用かと言いますと、セカンドオピニオンを担当する医師は、検査結果は主治医から提供されるもので、改めての検査は行わない、あくまで患者の訴えを聞くことと、検査結果にも基づいての判断を行うものです。しかも健康保険は適用されない。

 これで主治医と違う判断が出ると思えますか。何かしらの見落としがなければ、違う判断は出難いでしょう。セカンドオピニオンの要望が患者から出れば、主治医としても検査結果を見直すでしょうし、よほど主治医が無能の場合しかないでしょうし、医師同士の連帯なり、病院間の問題も出てくるでしょうし、まぁ、セカンドオピニオンの医師としては結局のところ患者の説得役でしかないでしょう。

 結局のところ、患者側としては、主治医の意見を覆すためには、完全にリセットするしか方法は無く、入院患者の場合は、退院させるしかなく、それが出来なければ、セカンドオピニオンを求める事は不可能ということになります。

 何でこんなことを書いているかというと、母の場合、現状はあくまで“癌だろう”であって、癌と診断はされていない。診断を得るには高度化医療を行える病院に転院するしかなく、それがそう簡単ではないからです。

 何故、癌の診断が出ないかと言えば、最初に入院した病院も、今の病院も特定部位の癌の診断が可能な能力、検査機器及び検査技師がいない。高度化医療病院の場合には特定部位についても年間数百件の診断を行っており、手術回数でも半端の数ではありません。全然、レベルが違う。ですから癌の診断が、どこの病院の医師でもできるというものではないのです。

 では高度化医療病院に行けば良いではないかという事になりますが、まず今の病院の医者を説得しなければならない。98歳という年寄りに、どこの癌か分かって、では治療をするのですか。手術は負担が重過ぎる、抗がん剤の副作用に耐えられる体力があるのか、同じく放射線治療にも耐えられるのか。訊かれれば無理そうじゃないですか。
 よしんばどうしても知りたいのですと、押したとしても、この病院は診療所とは違って高度化医療病院への紹介はしませんと謳っている。ここらは何故そうなのかは分かりませんが・・。

 在宅療養だと称して退院させ、診療所の医者に紹介状を書かせることはできるにしても(どうやらそういう患者や家族もいるようですが)、そこまでしてどうするのかという感じがしないではありません。まぁ、でも打つ手は無いにしても、どこの癌か、ステージがどのくらいかは知りたいんですけどねぇ…。

 という訳でセカンドオピニオンが欲しい場合に巧く機能できるものではないという話です。

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 インフォームドコンセントの話を聞いてきましたので、その話を。インフォームドコンセントは「治療法などについて、医師から十分な説明を受けた上で、患者が十分に理解した上で、自らの自由意志に基づいて治療方針について合意すること」とされています。

 講演では「自らの自由意志」、つまりは自己責任の下での方針決定に医療側が沿う、医療はあなた方、患者の生き方、考え方の補助者なんだと、病にともに闘う同志であり、医療者と患者という相対するものではないという話です。

 まことに結構な話に聞こえるものですが、ここで言う自己とは何かが問題です。人は健康で、幸福を求める存在だとしても、自己をどこまで認識できているのかが問題です。病状が認識できている、今の自分がどうなっているかが分かっているかの問題です。

 認知症の患者にとって、どういう自己であるのか。母のように、自覚症状が無い、あるいは失禁などがあっても、あるいは身体が充分に動かせない状態でも、すぐ忘れてしまう、健康だった以前の状況しか思い浮かばない、そういう状況の中で自己責任での判断なり決定が出来ると思えない。

 では家族が本人に代わって判断、決定を下すことが、本当に本人のためになることなのか。よしんば以前の状況の中で話していた内容、無理して長生きはしたくない、なんていう言葉だけで判断できることは、そう多くは無いのです。
 私なんかの場合でも、なまじホスピスなんかでボランティアをしていた関係で、穏やかな死への指向が強過ぎて、もしかすると苦痛に満ちていたかもしれないけれど、癌の治療に向かうべきではなかったかと最近、思う事があります。母親はこれまでにも、どんな苦難に対しても、めげることなく立ち向かう人であり、そこにこそ母の生き方そのものでもあったのですから。

 自己責任を強調することで、医師は自分に降りかかってくる責任を回避しようとしている、あるいは決定できないものだから患者、あるいは家族に決定させようとしているとしか思えない部分が相当にあるのを感じます。

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頼りにならない

 兄の事を考えているのですが、資質的にはよく似ているとは思っていて、何かしらの行動の理由とか、感情の出方とか、そういうものは非常に近いものを感じる。多分、ここらは兄嫁とか、子供達より私の方がピンとくるものがあるように思う。

 しかし、表面に出てきている行動とか、話す内容とか、社会との向かい方、関心を持つ対象とかは驚くべきほど違ってきている。驚くべきほどというのは私の感覚で、違うのが当たり前とする考え方からすれば、驚くべきほどではないでしょうが・・。

 中でも一番の大きな違いは好奇心です。私は前に書いたように好奇心の塊みたいなところがあって、好奇心を抑えるのに苦労するくらいであり、好奇心が無かったら生きていられたとは思えないくらいのものです。
 ところが兄の話を聞いていると、物に対しても、人に対しても、好奇心らしいものがほとんど見当たらない。長く建築家として建設業に携わってきたのですから、その辺りに何かあっても不思議は無いのですが、娘達が家を作るにあたっても、積極性は欠片もありませんでした。
 娘達が何をどうしたいのか分からないというばかりで、自分の考えを実現するものとしての設計は無いようでした。

 気がつく事は、何かを学ぶこと、そしてそれについて考えるという習慣をほとんど持ち合わせていないように見える事です。これが年寄りでは普通の事なのかもしれないとも考えるのですが・・・。

 弟としては、何故、こんなに違ったのか、少なくとも十代の頃まではほとんど差異は無かったように思えるのですが、さてどうなんだろうかと。母に言わせると、勉強は兄弟の誰よりも、よくできたけれど、人づきあいが苦手と。しかしまぁ、人づきあいという意味では私も変わらないとは思うのですが・・・。

 この間、母に向かって「弟はしっかりしていないと思っていたが、よく調べているし、考えているから弟に頼っていて良い」と言っていまして、自分はしっかりしている積りかよと思いました。
 母も兄の事を何の頼りにならないと私に言っておりました事を本人は想像だにしていないのでしょう。そして現実には頼ろうとしても、端から逃げ回っているとしか思えない態度なのです。

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