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レジリエンス

 先日、統合失調症に関する講演会がありまして、そこでレジリエンスという言葉を学びました。精神的に追い詰められるような困難に遭った時に、精神的回復力なり、困難に対する抵抗性、耐久性のことを意味するそうです。これの反対語は精神的脆弱性です。

 個人的な資質以外の周囲との関係や環境も含まれるようです。つまり何か遭った時に、崖から落ちるような状況の中で、手を繋いでくれるような、支えるような人が周囲にいたりすることも含めての精神的な強さを意味するのでしょう。

 レジリエンスには自尊感情、ユーモア、対人関係能力などがあり、困難の中で様々な引き出しというか、そのことだけに囚われないで他に目を向けていく新奇性の追求のようなものが入っているようです。

 このことに注目したのは、心を病む人の、何度も書いてきましたように「普通」過ぎることがあります。前回の正義の話もそうなんですが、苦しんでいるのだから、当事者なんだから、もっと奥深くまで考えたらどうなのか、という感想を持ってしまうところがあります。

 絵でも音楽でも漫画でも映画でも、何でも良いのですが、角が立たない。驚くべきほど普通の人がするものと同じなのです。私の方が、というよりは私が非常に強い好奇心を今でも維持している、つまりはレジリエンスが高いために、何故、彼らが「普通」でいられるのか分からない。何故、そこに留まっているのか?

 病で苦しむ中で、当然のように突破しなければならないと思われる感性が「普通」であることで行く手を阻む。それが病の回復を遅らせるのか? 夢中になって突き進む事を阻むのは自身の問題なのか、薬のせいなのか、障害者を取り囲む福祉政策なのか、まだ答えが見つかりません。

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正義感

 障害者の話の中に正義がかなり主張される事があります。時として正義は刃のようなものですから、健常者の私からすると、それは言葉に出さない方が良いと思えるような場合もあります。特に健常者と向かい合った時に、正義を主張する。
 これが障害者同士の事になると、正義の主張はほとんど見えなくなります。むしろかばい合うところがあります。

 正義の主張が虐めとか、ネグレクトなどを引き起こしてきたのではないかと思える場合もあります。正義の刃が逆に自分の方に向いて、自身を傷つけるようなこともあったのではないかと。
 虐めに遭っている人を助けようとして、自分も虐めの対象になり、酷い目に遭い、それが不登校などを引き起こしたという話を聞かれたこともあるのではないかと思います。それが原因で精神病を発症するというよりも、それが切っ掛けになるという感じはあるのかもしれません。

 正義の論理というのは難しいものです。それに納得して行動を改めることよりも、反発と、侮辱を感じる心持の方が多いように感じられるのです。そんな事を言うお前はどうなんだという風にです。

 ここら辺は育ちの問題が大きいとは思いますが、正義を唱えることの快感が生み出すものでもあるのでしょう。障害者が正義の立場、ヒューマニズム的なロジックで攻め立てられると、こちらは何も言えなくなる所があるのですが、それで問題の一部が解決するにしても、簡単には感情の方の修正はきかないと私には思えます。

 正義を唱えざる得ない立場はよく分かりますが、言うほど簡単な話ではないと思えますし、差別は払拭されない。差別は悪かもしれないが、それでも配慮という区別は残るのは当然の事なんだろうかと思わないではありません。

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連帯

 精神病にしろ、他の身体障害、知的障害にしろ、個別性は非常に大きく、同じ身体障害の中でも、障害の程度も大きな差があり、精神的にも一方ではパラリンピックに出るほどの強い意志があるなど、健常者である一般人よりも大きな差があるように感じます。

 精神病にしても、発症した時期による人生経験の差は著しくあり、病のレベルにも大きな差があります。また、寛解のレベルにも差が大きくあり、まったく健常者と変わらない、いくら見ても、話をしても、まったく分からない人もいれば、無表情で感情を見せないし、ただ俯いて座っているだけの人もいます。
 ここらは寛解のレベルが分からないので、より時間が経てば普通に話ができるのかどうかは、私には判断できません。

 これだけの差異がありながら、互いに、いたわりあうところが濃厚にあります。健常者よりも、はるかに他者を非難したり、批判、侮辱する事はありません。明らかに妄想を喋り散らしている人がいても、それを否定したり、たしなめようとする人は誰もいない。

 仲間意識が強く伝わって来る場合が少なくありません。被害者同盟的な何かのようです。ただその場合においても相手の人生に深入りするようなところは、見られません。過剰に仲が良いという雰囲気はありません。

 ある種のグループ的なものがあるのかどうか、よく分からない。電話をしあっている仲は感じる事はありますが、当然のことながら、私は彼らの仲間にはしてもらえません。スタッフも仲間ではありません。

 彼らには、優しさに溢れていますが、向ける先は障害者仲間にあり、健常者には壁を築いている。障害者仲間の範疇は病の種類を超え、病状も超えている。生活の恵まれ方も、生き方も随分、異なったものになっていても、仲間は仲間であることに変わらないようです。

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精神病への幻想

 いろいろな形で精神病の事を勉強してきて、若い頃に持っていたこの病、狂気に対する幻想というか、ある種の恐れと同時に書かれたものから通して得られた強い思いが次第に消えてきています。そして何故あれほどど惹かれたのかが分からなくなりつつあります。

 今でも同じような部分もあるのかもしれませんが、かつては狂気が哲学や芸術の先端にあり、人間存在、社会のあり方に強い影響を与えていました。それもこれも哲学者にしろ、医師にしろ、リアルな実態というよりも観念の中で創られた狂気であったと今は思えます。そしてその場合に語られる情景は大部分、精神病院という名の牢獄に閉じ込められた拘禁反応であったように思えます。

 狂気は感性をどのように影響を与えるのかという問題を、私の趣味嗜好の中に常にあり続けているのですが、何回も書いてきたように、異様なほど普通というか、普通以上に後ろ向きというか、時代遅れというか、掬いあげることが難しいほど保守的です。

 こりゃあ何だと思い続けているのですが、先日、素晴らしいほど絵の巧い子がいまして、当然のように独学で、よくぞここまでという感じ、つまりプロ級の腕の子を見つけました。で、いろいろ話をするのですが、何かひどく違う。

 何が違うかというと、私は絵描き、それも超一流の絵描きと沢山ではないけれど何回か、それもいろいろな絵描きと話をした事がありますが、彼らの感性とか関心の持ち方とか、生き方とか、そんなものと全然、違うのです。普通というか、好きだという画家の画集を見ても、まるでそこらにいる人のように、パーっとめくって行くのです。見つめるという事をしない。アレレ??
 個展を開くと言うので行ったのですが、カフェの一角に10点ほど飾っていたのですが、自分の描いた絵の選び方が何というか、無茶苦茶というか、えぇー?? 良さが全然伝わらない絵が大多数を占める。

 狂気という問題ではなく、ある種の常識から逸脱している。このズレが面白いとか、そんな話ではありません。明らかに見る人間を無視している。そうかと言って自分の中に凝り固まっているようなアールブリュット的なものでもない。元から絵はアールブリュット的でなく、撮られた人物などを強い生命力を持った人物などに、写された像以上に再現して行くもので、絵があまり分からない人にも強い感銘を与えるようなものなんです。

 そのまま出すのであれば、私がうだうだ書くような話ではありませんし、お金がないという条件も100も承知ですが、選んだ絵の理由が分からない。何でだと? 描く腕は間違いなくあるし、好きなもの、対象となるものを選び出す力はありながら、表現されたものを感じる力が何か欠けている。好きな絵描きの脈絡のなさも相当なもので、共鳴するところがない。本人の絵と何の脈絡も無い。

 これらすべてを丸飲みする、全部、そのまま受け容れようとしているのですが、何か違う、違和感が・・・。

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幸福

 以前、私は愛のことは分からないと書きました。その愛よりは、ほんの少し、こういうものが幸福と呼ばれるものなんだろうなぁ・・と分かるものが幸福です。

 でも本質的に幸福とは何であるのか、自身にとっての幸福とは何であるのかは、愛と同じように分からないのが私という人間です。

 ガイドをしていると親子連れ、5,6歳未満の子供を連れた夫婦やら、お父さんお母さんを見る事がしばしばあるのですが、そういう姿を見ていると、大人たちは大変だけれど、でもこのくらいの時が一番幸福なんだろうと思わせるものがあります。
 まぁ、なかなか老夫婦では数少ないですし、中年の夫婦は元から少ないですが、幸福を感じさせるものは多くありません。

 一方、ボランティア仲間の話になると、大抵、子や孫の話が出てくると、嬉しい感じが濃厚にあるし、連れ合いの話にしても、気遣いを感じさせる場合も少なくない。これも幸福の一つの形かもしれないと思う場合が多いです。

 こういうものに、まったく無縁であって、ただ眺めているだけの中で、いったい自分にとって幸福とは何であるのかを考えたりします。

 他人は幸福を求めて生きるものであるという話がありますが、私の場合、幸福というのが端から分からないものですから、幸福を求めていたなんていう時期が、いくら振り返ってもない。幸福というのが、何か気恥ずかしいものであったりする場合が多くあって、積極的に目指すようなものではなく、不幸には耐えられるけれど、幸福には耐えられないという思いを持った事すらあります。

 女の子とデートして楽しくないのかと言われると、楽しいよりは大変である方が大きかったように思えるし、結構、辛いものであったりしたことがあります。
 友達とどこかに行くという場合にしても、自由ではないと感じられる、単独で行動したいと思う。一人の方が清々するような感覚があって、そういうことが女の子と一緒の場合も少なからずある。

 つまりは孤独指向が非常に強いのです。一人である事に幸福を感じる場合が非常に長くあって、さて年を取って、否が応もなく孤独になって行く中で、自分にとっての幸福とは何であるのかを考えるようになっている。

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