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アールブリュット

 アールブリュットについては以前にも書きました。障害者が作り出す芸術作品で、主に絵画とオブジェです。音楽や演劇などはそれが主に障害者によって演じられていてもアールブリュットとは言わないようです。

 何か月前には東京駅のステーションギャラリーで行われたフランスの世界最高峰というキャッチフレーズのついた人の展覧会を、最近では近隣の美術館で開催されたものを見てきました。ここ何年か、まとまった展覧会というと、村上隆とか、つい最近の東南アジア現代美術展など、比較的現代ものが多い傾向です。

 それでアールブリュットですが、少し飽きてきた感があります。アールブリュットに出展する障害者の一番多数を占めるのが知的障害者ではないかと感じます。精神障害者はそれに次ぐとはいっても3割もいないか??
 見慣れてくるとアールブリュットらしい表現というのは、ある種のパターンというか、共通性がある事に気が付いてきた部分があります。まぁ、それも面白いし衝撃的であったりする場合もあるのですが・・・。

 何故、こんなことを書いているかというと、障害者支援施設の利用者の中に、驚くべきほど絵の巧い子がいる。非常に独特ではあるけれど、その子の過去からの絵をこの間見せてもらったのですが、今、多分、三十代の半ばに達しているようなのですが、十代の頃、つまり精神病が発症し、急性期を終えたくらいの時期と思われる頃に描かれた絵は、明らかにアールブリュット風なのですが、今日、彼女の描く絵は普通の画家というよりはイラストレーターが描くようなものになっている。
 それも普通のイラストレーターが描き出すようなものではなく、異様なほど生命力に満ちているのです。彼女は写真を題材にして、それを鉛筆で描き出すのですが、一枚の絵を完成させるのに、何枚も何枚もの試作を重ねて最終的な作品に仕上げる。その腕は誰にも教わったことがないというのが信じられないほど見事過ぎるものであることです。

 アールブリュットの展覧会に出せば賞を獲れるのは間違いありませんが、しかしこれは障害者の絵というくくりの中で評価すべきものなのか、非常に当惑させるものがあるのです。それで最近、アールブリュットというのは何なのであろうかと考えたりしているのです。

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特権

 この間、ボランティア仲間と話をしていて、ホスピスの話をしたところ、今日の日本のホスピスのありようは、ちょっと異常であるという話を聞いて、なるほど見ている人は見ているのだなぁ・・という感想を抱きました。私の感度がおかしいという訳ではないようです。

 以前にも書いてきましたように、ともかく異様なほどの気遣いをするのが、ホスピスの特徴です。ともかく患者やその家族に対して、何かしら不快を与えるような事は激しく否定されるし、不快になるのではないかという事に対して厳しい規制が行われます。
 特に我々ボランティアのように何の責任も負えない人間達に対しての規制は凄まじいものがあります。以前、庭仕事しかしていないという話を書いたと思いますが、病室から見える場所では草むしりなどをしていた場合にお尻を見せてはならないとか、物音は勿論のこと、会話も声を落とすとか、病室の前では音のしないような箒を使うとか、患者が触れる可能性はほとんどないにもかかわらず農薬の使用禁止とか、ともかく強い制限があり、もしかするとボランティア内での自主規制なんじゃないかと思われるような話も沢山あります。

 あまりにも強い規制のために、最小限の事しかしないという習慣が生まれてくる事は仕方がないことで、責任者であるボランティアのお婆さんが花作り、種を植え、苗を育て、咲かせ、花が終わったら種を採って来年に備えることをやっているのみで、後の大量にある樹木、草類は年に数回植木職が入るだけで、樹木も雑草が生え放題、病害虫もはびこり放題、枯れるのもそのままという、自然に放置することがホスピスの庭であると思っているように見える。ガーデニングなんていう高級な話ではなく、ましてや日本庭園の管理なんかも入りようも無い。にもかかわらず、ここのホスピスの売りは庭があることが売りの一つになっている。

 何をしているんだというのが私の正直な感想で、植栽の知識なんかほとんど無い私がチョコチョコ、管理者に分からないぐらいの調子で伸び過ぎた枝葉を切り揃えているのが私のボランティア活動です。

 臨終という特異な場の中で、患者やその家族は特権的な存在と化しています。少なくとも私らボランティアにはそう見えるのです。臨終というのは確かに本人や家族にとっては特別な時間でしょう。しかし、その一方で誰でもが経験するものであり、社会的に見れば、ごく普通の出来事でしかありません。
 これほど気を遣わなければならない存在なのかという違和感、他人にこれほど気を遣わせての死は、ある種の仮構されたものでしかないように感じられるのです。

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反応しない

 前回の話の続きです。ホスピス医というのは、ある種の無表情に近い顔を持つことが強制される、顔は笑っていても、眼は笑わないというか、今日のタイトルでもある患者や家族の話に「反応しない」という形での対応が要求される特質があります。

 患者や家族の目の前にある差し迫った「死」という経験、それに付随する非日常的な様々な対応への不安が、医師に向かっていくことになり、そのいくつかは当然のように医師の手に余るものです。中でもスピリチュアル・ケアと称される死ぬことへの恐怖と不安は医師というよりは宗教者の役割なのですが、現代という時代では医師に向かって訴えられることになります。

 前回、書きましたように、そういう訴えに対して、直接的にそれに答えるのではなく、そのまま何故、そういう風に考えるのか、いったい何が辛いのかを解ぎほぐして行く形をとります。つまり相手の感情に直接反応する形ではなく、むしろ反応しないようにする方法が取られます。

 相手の問題を自身の問題として考えるというのは、我々がよくやる問題解決法ですが、むしろこのような方法をとることで、患者側が病院なり、医師を試そうとする場合があるので、それをクリアする方法の一つでもあるのでしょう。
 切羽詰まっているのに、そんなことをする人間はいないと思われるかもしれませんが、これがそうでもないんですよ。訴えることで相手がどう反応するかを見てたりするのが人間です。

 相手の状況に反応するというのは実に人間的なものですが、それを顔や態度に現わしたら、それで人間関係はお終いという場面が存在します。そういう反応を受容するには、患者側に余裕がなければできない話ですから、この場合は医師であったり、ナースであったりするのですが、力がある方が譲歩するというか、感情を表に出さずに対応することが求められることになります。

 なかなかここらの問題というのは、感情労働でもあり、ストレスを生み出している感じがあります。

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仮面

 ホスピス医というべき存在がいます。端からホスピスを目指す医者というのは、少なくとも我が国では、現状ではいないのではないかと思います。出身はどこかというと、これが以外に外科医が多かったりしますが、統計があっての話ではありません。

 何故、外科医が多いかというと、外科手術という医師にとってハイライトを浴びる存在であると同時に、いくら神の手と呼ばれるような名医でも、命を助けるという意味では限界を感じるところが多いからかもしれません。ただ、まぁ、神の手と呼ばれるような先生がホスピス医になる例はないようですが・・・。

 講演会や直にあった人やTVなどで紹介されたホスピス医は独特の顔を持ちます。精神科医にも、そんなところがありますが、大概の場合、患者や家族に向き合う顔と、一般の人々、特にマスゴミに対する顔とは大いに違うもので、患者などに見せる顔は我々には基本的に分からない。
 一方のホスピスの場合は余命短い癌患者とその家族に向かうものですから、普通の医師が自身のプライベートや医業とは無関係な場面で見せる顔を見せることができないで、普段から、ある種の「仮面」をかぶらざる得ないところがあるように思われます。

 前回、非常に微妙な、そのくらいは良いじゃないかと思われる部分にまでも神経を払わざる得ない立場がそうさせるのか、ニコニコ優しげであるが目は笑っていないというか、独特の無表情があり、口の訊き方も独特です。

 臨終という肉体的精神的な危機状況の中で発せられる言葉は、例えば「この苦しみから逃れたい、早く死にたい、殺してくれ」という言葉も、稀な状況ではないことです。何が辛いのか、何が苦しいのかを事ほどいていく必要から発せられる医師やナースの言葉は、ほぼ決まっていて、患者の言葉をオウム返しに返して患者に考えさせるように、患者が自らの力で解を見出すように導くと言われています。

 相手の言葉や態度、状況にストレートに反応しない訓練を経て、感情をコントロールする術を得ることで、独特の無表情が作られて行くようです。

 しかし、これはいったい何なのだろうか。

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福祉の思想 2

 世の中は幸福とか、愛とか、いうものは無条件で素晴らしいものと決めつける傾向が強くあり、それも思い込みというか、ものすごく大雑把な話であるように思えます。勿論、哲学の中では様々に思いめぐらす場面があるにしても、その思索から出てくるものは世間的なものはありません。

 ある種のバーチャル空間、仮想空間の話なのではないかと昨日、考えていました。精神科医の症例、フロイドすらそうでしたが、プライバシーを守るためと称し、捨象するが故というか、、架空の事例に近付いて行く。ストーリー性というか、分かりやすい物語になって行く。
 そんなに原因と結果がきれいに結び付く訳がないと、ツトに感じるのですが、精神科医の「正しい」診断になりますし、NHKのハートネットTVのように、Happyな結末があるなど、結局のところ健常者が満足する「障害者ポルノ」となっていく。

 ホスピスでも同じような話が展開します。暖かい家族に見守られた安らぎに満ちた穏やかな死への演出があり、患者や家族にステップを踏ませていきます。演出された死を組織を挙げて称揚する。それがホスピスとして、医師やナースの実績となる。

 この虚構に満ちた世界の中で、リアルな世界にいる当の本人達の気分というのも、ある種の諦めと、流されて行くというか、むしろ演出に沿った最期を迎える形になっています。それはホスピスの激しく非難するパイプだらけで誰一人看取ることのない孤独な死と、はたして何が違うのか。死に逝く者の意志というよりも、家族の望み、満足に近い話ではないのかと思わないではありません。

 何回も書きましたが、私は世の人の言う愛も情も分からない人間です。幸福になりたいと思ったこともありません。恋人が欲しいと思ったこともありません。私自身は、凄惨な最期しか思いつきません。安らぎとは正反対の死を迎えるでしょう。それが私の人生であると思っています。それが故に、こういう虚構に満ちた死に激しく嫌悪します。

 取り繕った死を希望するのも人生なら、むき出しの感情がぶつかりあう死もありえるのではないかと思わないではありません。何が臨終の場を支配するのかは当人の意思を超えたものであり、ホスピスで主張される当人や家族の意思という特権も異常に見える。

 今、違和感を超えて不快感が溢れてきたので、ホスピスのボランティアは早晩、辞めることになるでしょう。

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