メンタルヘルス

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知的障害者

 私がボランティアで行っています社会復帰支援施設には、複数階あり、他の階には様々な障害者のための施設があります。身体障害者、知的障害者のための施設もあり、複数の障害を抱える人々もいます。彼らとの交流は基本的には入口などですれちがうくらいですが、施設全体のイベントが年に2回くらいあり、また、バザーなどの支援のための催しもあります。

 そんな状況ですので、何となく身近にそういう人々がいる事に慣れつつあるし、NHK教育番組で障害者関係の番組を視ることも最近では多くなりました。

 感じる事は非常に多様であるという事実と、それぞれの障害に対する向かい合い方なり、社会の対応にも、大きな違いがあって、それを何かいっしょのように考えてしまう自身がいます。

 知的障害と精神障害とは何が、どう違っているのか。生活のどの部分がどうであるのかを考えたりします。同じように黙って座っている、あるいは何かをしようとする時、彼らの動作は似ていても、我々の受け取り方には大きな差があり、対応して動くこちらの働きかけにも大きな違いがある。

 どちらが辛いのかを問うこと自体、無意味ですが、それでも精神障害の方が辛そうに感じる事があります。知的障害では、やれることを時間がかかるにしても、少しづつ増やしていく、それらを通じて解放されていくことができるならば、未来への扉が開けられる感覚があります。

 精神障害では、病院・医師・薬という枷の重さは非常に大きく、ある種のやるせなさを感じないではありません。

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誇りと意地

 この間、建築家の安藤忠雄さんがNHKの心の時代に出演されているのを見たのですが、感銘を受けたということになるのかなぁ・・・よく分からないですが、面白かったです。

 建築の話はともかく、最初に彼を支えていたのは誇りと意地であるという話を最初にしたのですが、そうなんだよなぁと思うところがあります。

 というのも障害者の社会復帰支援施設で見ていて思うのは、このベースを失っているというbのか、元々、なかったのか、よく分からないのですが、自身に誇りを持てないでいる、それなりの小さい誇りはあるのですが、それは最低限の他人にバカにされる、病人扱いされる、人として扱われないという、あるいは女と見なされないとか、そういうものにぶつかる時の強い反応はともかく、自己肯定感に乏しく、受け容れ難い現状に対するものがあるのでしょう。

 彼らが誇りを持てるような生き方を作ることの難しさを感じないではありません。これは頑張れじゃないんです。

 病も個性なのだということを言う人もいます。しかし、病を自身の個性だと言える人間は、時折、ピアカンと呼ばれる、障害者がカウンセラーとして、同じ病を抱える人々の思いを聞きり、悩みや辛さを共有し、信頼の回復を図る段階にまで到達した人からしか聞いた事がありません。病を克服しなければ病を個性と言えないという現実です。

 仕事をしていない、生活保護なり、親や親族に頼って生きなければならない、仕事も続かない、病院に行く、薬を飲まなければならない、薬を飲まなければ具合が悪くなる等々、この辛さの中では、誇りって何の話ですか? 

 何か、酷く悲しい。どんなことでも良いから、誇りが持てるところまで突き進めれば何かが開けてくるところもある感覚は私なんかはあるんですが、突き進ませない強いブレーキがあるように感じられてなりません。

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リストラ 3

 リストラが唐突に行われ、いきなり今日でお終いです、だったので、当人たちのショックは非常に激しく強烈でした。皆さん、年寄りですから、衝撃はジワジワでしたが、非常に大きなものでした。

 ボランティアなんてものは生活もかかっていないし、ちょっと調子が悪ければ、何かの都合があれば、あるいは都合なんてものとは無関係に休む事が多いものです。責任なんていうものとは縁遠い。

 ですから、雇う方も雇われる方も、軽い話のはずなんですが、いざリストラという事態に直面すると、激しく反応してしまうのも、なかなか面白いというか、人間のありようの何かを示しているようでもあります。

 自分で辞めるのは大丈夫だが、他人から通告を受けるのはショックということかもしれません。まぁ、今回言われた方々には70代の終わりから80代なのですから、他のボランティアを探すというのも難しい年齢であることもあるのかもしれません。

 私なんかは、彼らからすれば若手もいいところなんですが・・・。まぁ、それはともかく打ちひしがれた様子を見るのは、辛いものがあります。慰めようもありません。

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不良少女

 「死にたい、消えたい、居場所がない」、若者の、中でも女性の生き辛さをテーマにした講演会に行ってきました。内容はNHKにも取り上げられたNPOの支援組織の話なので、中身を語るのは止めておきます。

 私が感じた事は、昔は明らかに分かる形の「不良」というものが消えたという感覚です。80年代くらいでは外見だけで不良やっている、ということが、ほとんどの人が認識できたけれど、今は、どうもそれがくすんでいるというか、外見で発散できるレベルを超えているようになっているようだということです。

 穴に落ちるという感覚も、それが虐めであったり、DVであったり、性的暴行であったり、幾十にも重なり合うところもあって、より陰惨さを増しているように感じられました。
 そして不良という形に転換しても、それがより酷い状況を生み出す一歩、転落へと進むような感じであることも、特徴的です。

 自らの浅はかさを笑うということも難しいようで、こういう時代だからこそ、それを救おうという人々が出てくる感覚です。

 こういう世界の現実を見ないで、ワケワカメの貧困問題だとか、ありもしない差別を騒いでいるサヨクの方々の、どうしようもなさをも感じます。

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死に逝くもの

 ホスピスの世界では、死に逝くものとその家族への配慮には特別なものがあり、非常に手厚い配慮と、本人や家族が発する希望は、何よりも優先されています。傍目で見ていると、やり過ぎではないかと思うほどの気遣いをします。

 これでご飯を食べているというか、社会的な存在意義が、ここにあるのですから、ある意味では当然の事なのかもしれませんが、そこに働いているボランティアにも、強い奉仕を求めるというのは、どういうことなのだろうかと考えないではありません。

 ホスピスでのボランティアを始めて半年くらいの、私を含めての連中からすると、何だろうねぇ・・という感じなのですが、ここに慣れたボランティアには、当然のように受容され、何か宗教がかったような、素晴らしい、人として修養ができるとか、感動したとか、そんな言葉が並びます。誰に向かって祈るのか私には分からない。家族や友人に囲まれた愛とか幸福なんていうものは、私には分からないし、あまりにも縁遠い。

 この違和感というのは、後、一年とか二年とか経つうちに消えるのかが、今の私には大問題です。ここの雰囲気に慣れる事が、どういう意味を持つのかを考えます。

 そしてこういう最期を望むべくもない私自身の現実があり、凄惨な未来しか予想できない中で、こういう手厚い介護の中で、これが人間の死の姿である、尊厳ある、幸福な死であると言い募る人々に反感が渦巻いている事も、口を閉ざさせる大きな要因です。何も喋りたくない、話したくないと感じる。

 まぁ、ここのボランティアは長く続きそうもありません。フェイドアウトをどうやるかを考えているところです。

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