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新山上の垂訓 助安由吉 から引用させて頂きました♪



また文字数制限の関係で記事が切れてしまいましたので、続きはFC2版の完全バージョンでご観覧下さいませ♪



ありがとうございます(´;ω;`)♪
過去最高の54位になりましたぁ〜♪ 超嬉C〜です♪ (≧▽≦) ルン♡♪
イメージ 1


広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪




オススメスピリチュアルサイトをご紹介♪




滅私、自分を捨て、全ての存在を100%愛する悟りで
内なる神との直通の光の通路が完成したお話

 今回は、私が2日ほど前に体験した、大幅に魂の覚醒がした、皆様の魂の成長に役立てるかもしれない、覚醒秘話をご紹介させて頂きます。

 この文章を書いている現在、胸のあたりのアナハタチャクラの背中の部分辺りが、ポカポカじゃなくて、アッチッチみたいな(笑)、そんな表現でも適切かな…っていうぐらいに、ポッカポカの状態であります。

 詳しくは、全文を見て頂くとして、覚醒した時の体験からご紹介しちゃいます♪

 許し尽くして尽くして全ての全てを平等に愛する様になった時に、心の中の宇宙が見えたのです。それから私の意識(心)と内なる神との直通の光の通路が出来上がった感覚がありました。

 それから心の中に「空(くう)」の空間が出来たようなフィーリングがずっと続いております。心に想い(雑念)が溜まらない状態といいましょうか…、
 心が愛そのもの、許しそのもの、になって、神様と私をさえぎっていたスモッグが取り払われた…そんな感覚が続いております。


 今回のお話をご紹介するに際しまして、誤解されないように、先にお断りしておきますが、私は中国人の方に対して、個人的に関わった事がある印象からしても、好印象を持っております。特に嫌いという感情も御座いません。

 良い人もいっぱいいらっしゃる事もよく存じております。それが基本前提です……これが基本前提ですからね(笑)くれぐれも誤解なさらないように……^^;

 ではお話にまいります。
神の御心である愛と、人間の分離意識の愛との違い、について考えてみましょう。

 お母さんは親だから100%愛するけど、あの人は悪人だから、許されないような事をしているひどい人間だから、
まあ…許してあげるけど、20%しか愛さない…ではダメなのですね。

 それは神の愛ではなく、分離意識の愛なのです。
神の御心は、常に、無差別の愛、太陽のように、全ての存在に対して別け隔てなく、無条件の愛を100%降り注ぐ太陽の光の如き、深い愛なのです。

 人だけじゃなくて、国に対しても同じなんです。

 現在、中国という問題を起こしまくっている国がありますが、技術泥棒と言われているのは実際そうらしいですし、
 侵略欲むき出しの独裁国家で、民族浄化をしている、正直…とんでもない悪逆非道な国なわけです。その様な国でさえ、愛さなくてはならないのです。

 渦中のファーウェイという企業も、深田萌絵さんの書籍を見て頂いたら、よくお分かり頂けますが、実際にスパイして技術泥棒はしているようです。

「【産業スパイ】明らかになったファーウェイの盗み方 競争力を得るための手段と倫理観の境界線があいまいな企業文化」 で検索して頂ければ、よくお分かり位頂けます。

こちらの深田萌絵さんの記事がより詳しく理解できます

 
 任正非社長さんは、良い人っぽいですが、産業スパイは見て見ぬふりで済ましてますからね、スパイがバレた時に、無表情で「偶然だ」だそうです(笑)

 ちなみに中国は、リニアも新幹線も、全部スパイして、技術泥棒をして開発しています。日本の産業はもう盗まれまくりです。今回、アメリカが立ち上がらなかったら、日本の産業は壊滅してもおかしくなかったというのが現状です。

 私も日本を愛する人間ですから、結構悩みました。敵味方はないとはいっても、中国みたいに、侵略する気満々な国が日本を民族浄化してきたらどうしたらいんだろう…って。

 そんな敵意剥き出しの存在も、全て許して愛してあげるって、果たして出来るのだろうかって……果たして私に悪のような中国を100%の愛で愛せるんだろうか…って。

 実際、ちょっと前まで、中国無双でしたからね。考えるのも何だか辛くて、
 もう∩(´・ω・`)つ―*'``*:.。. .。.:*・゜゚・* もうどうにでもな〜れ…って思ってましたし(笑)。天上界の皆様も放置されているんでしたら、私が考えても、もうどうしようもないよね…っていう。

 ですが、トランプ大統領が世界の救世主として突如現れてくれたお蔭で、世界がまさに…ギリギリセーフで救われてしまったという訳であります。もちろん、日本民族が滅ぼされずに済んだ訳ですから、私としてもほっと胸をなでおろした次第です。

 今回の悟りを語るには、どうしてもこの件が複雑に絡んでいる関係で、珍しく政治の話を書いております。

 何も知らない内は、中国って安く買える国で、Amazon様で安く中国の業者から購入したりして、何となく好印象を持つぐらいでしたが、

ネットで中国のあまりの非道っぷり、無法っぷりを知れば知るほど、中国という国を手放しで愛せなくなる自分になってしまったのでした。

 それから、どうしても中国関連の事を穿った目線で捉えるようになってしまいました。それで中国に悪い事があっても、自業自得じゃないの…って、それで世界が救われるんだしいいんじゃないの…って、絶対愛から離れてしまったのです。

 中国が散々行ってきた悪行のカルマが跳ね返って、国がサンドバッグフルボッコ状態を見て、さすがに○○あみろ、とまでは思いませんが、まあ自業自得よね…と、愛のない見方をしてしまったのでした。

 そんな中、中国で野菜の値段が高騰しているニュースをみて、苦しむのも自業自得と責める思いを持ってしまったのが原因で、後々、私の心の中で何回も響いて大いに苦しむ事になりました。

  本来でしたら、慈悲と愛で見なければいけなかったのですが…‥お恥ずかしい限りです。その間違った思いの波動がしばらくして私に跳ね返ってきたのです。

 いつも絶好調だった意識状態が、責める想いが心の中で反射して、山びこの様に反射して、苦しくてしょうがない状態になりました。ここまで苦しいのは本当に久しぶりでした。

 愛から離れることがこんなに苦しいのかと…、人を攻めるという事がどれだけいけない事なのかと理解させるような、胸を締め付けられるような痛みを感じました。

 初めに、神様に中国の一般庶民の方に対して、自業自得だと責める思いになって、神の愛から離れてしまった事を神に心の底から、涙を流しながら反省したのでした。

 するとどうでしょう。私の頭上にピカーッと光る愛の光を感じまして、それから私の心の中で、反復していた責める思いがやっと止んだのです。これで何とか地獄の状態からは何とか脱出出来ました。偉大なる神の御業に心から感謝致しました。

「悩み苦しみは魂の促進剤」という知花先生の教えが今回この苦しさを乗り越えるのに大いに助け舟となった事をここに述べ伝えておきます。知花先生に心から感謝申し上げます。

 私が日々安らぎと平安なのは、神の御業あればこそなんだと、改めて再認識すると共に、より神への深い愛と感謝を忘れない様に生きようと決意したのでした。

 ですが、それでもまだ完全な状態ではなく、完全な愛の状態に戻るためには、どうしても悪逆非道な国でも、100%の愛で愛さなくてはならないのだと、ふと気づかせていただいたのです。

 そのような何万回転生しても許されないような罪を犯している存在でさえも、無限の許しで包んであげて、無条件の愛で愛してあげなければならないのだと……。
 
 これは守護の神霊の後押しの気づきだと何となく分かりました。
日々洗心に勤しんでおいて本当に助かりました。洗心を習得していると、守護の神霊のアドバイスがスムーズに入るので、大変お役に立ちます。

洗心習得はこういった時にも役立ちますので、大変お勧めしたいです♪

 この苦しさを乗り越えるためには、どうしても完全な愛を習得しなくてはならないと気づき、悪の様な現れ(中国)をどうしたら愛せるのか、徹底的に追求してゆきました。

 日本を愛するよりも、自分身の安全よりも、所属する組織という分離意識……日本人としての意識でさえも…捨てるしかない……滅私…私を滅する、私という自我意識を捨てるしか、中国という国を、愛せないという結論に達したのです。

 愛国心と、敵味方の分離意識の克服に、葛藤されている方もいらっしゃるでしょうから、私の体験をぜひご参考にして頂ければ幸いで御座います。

 滅私‥私という分離感を克服して、すべてを愛する我、全てを平等に100%愛する我、一切の区別も差別もしない…どんな存在にも常に出し尽くす100%の愛でありたい……と全身全霊で願い……

全てを愛するために滅私……自分を捨てますと、心から神に祈ったのでした。

 滅私…私というものを捨てきる、神の化身としての自覚、神の御心が全てを愛する我なら、神の化身としての自分も、神の御心の如く、全てを愛する我でありたい、
 たとえこの身が滅びようとも、神の御心の様に生きたい…全てのすべてを愛し尽くそうと…そう願い祈ったのです。

 その祈りの瞬間、私の心の内に、宇宙の姿が見えたのです。
それから、今までの100%どころか、今までに体験したことのない、心に思い(雑念)がたまらない、心が空になったような、心がより光に満ち溢れている……愛に満ち溢れた清々しい境地に到達したのであります。

 もう私と神とをさえぎるものは何もない…そんな心境と言いましょうか…内なる神の無限の光り輝く愛が、猛烈な勢いでハートから輝きだしている…そんな感覚を感じております。浄化力が今までに体験したことのないレベルの境地です。

 「愛は天と地の架け橋」…イエス様の御言葉ですが、まさにこの通りだったのです。
 全ての全てを100%の愛で愛し尽くした時、ついに…神(天)と表現体である私(地)が、愛という光の架け橋で繋がる事が出来たのであります。

 心に雑念がたまらない程度が、今まででもかなりのモノでしたが、現在では、さらに光の水圧が大幅アップといった感じで、那智の滝が、ナイアガラの滝になったみたいな(笑)、流石にそれは大げさかもしれませんが……。

 私自身、この変化に大いに驚きました。この「心が空・雑念が溜まらない」状態は、知花先生のお弟子さんであられる大村さんの体験談に似ていたからです。


大村さんの体験談から抜粋ですが……♪

 それ以来、私の意識、私の心というものが、完全に「空」という状態になったのです。

心の中に雑念というものが溜まらないのです。
自分の中に無限という「全くの空間」とでもいいますか、常にそれが内在するようになり……


 現在では、「我神なり」「我、慈悲と愛なり」と心から力強く断言出来ます。全ての存在を平等に100%愛しているからです。
 この境地に到達して、初めて、我神なり、の意味が理解できた気がしました。今までの理解はまだ浅かったのね…と。

 ついに、ついに…自分が納得できるレベルで、やっと100%、全ての存在を愛する慈悲と愛が出来るようになりました♪

 慈悲と愛…それが神の御心だと深く理解して、真理の理解を自分にフィードバック(改善して体得)していって、自分の意識の進化(慈悲と愛)につなげていく作業は必要なのかな…と、今回の体験から学ばせて頂きました。

 「我神なり」…とは、言い換えれば、「我、慈悲と愛なり」、とも言えるわけです。「慈悲と愛」は「神の御心そのもの」だからです。

「慈悲と愛」を完結にご説明申し上げますと、上江洲義秀先生の、

『 全体の幸せ・全体の幸福・全体の喜びを 願う心 』
『 すべてのものから、悩みや・苦しみ・悲しみが 取り除かれますように』
『 すべての幸せ・すべての喜び・すべての幸福を 願う心 』

『どんなに、都合良かろうが、都合悪かろうが…
その人を、「愛し生きる心・いたわり思いやる心」』

という意味に集約されてまいります。

 つまり、どんな存在に対しても、常に出し惜しみしない無限の愛で、上記の様な「慈悲と愛」がにじみ出るようになってこそ、神の化身としての自分を全うしているという訳なのです。

簡潔に申し上げますと、下の内容でご説明できます。

慈悲…全てを慈しむ心、許して愛して幸せを祈ってあげれる意識状態


 最新の悟り覚醒体験を記載してみましたが、いかがだったでしょうか。

 今回の米中貿易の戦いは、アメリカが完勝するのは間違いないと言われております。日本は何の心配もしなくてよさそうです。世界の平和と秩序は守られました。アメリカさん有難うございましたm(_ _)m♪

 誤解のないように付け加えますと、中国が、著作権を守って、侵略欲をなくして、平和な中国になって、中国が水がめ座の時代にふさわしい平和国家となって、中国全体が幸せになってほしいと思っております。

 私は神様に、自分の悟りのレベルが成長しましたら、その知識を人類に出し尽くします、出し惜しみは致しません、と神様と約束しております。今回も、その覚悟において記載させて頂きました。

 人類の魂の覚醒に役立つ事こそが最も有意義で価値がある事だと理解しているからこそ、ボランディアでこのブログもさせて頂いている訳ですし。

 神様と繋がる鍵は、真理の深い理解と、全ての存在を平等に愛する境地に到達する事、「愛は天と地の架け橋」、その愛とは全てを平等に100%、

無差別の愛で愛する愛、その愛を体現するためにどうしても必要なのは、「滅私」だという事、これを理解する事が非常に重要かもしれません。

 悪人まで平等に愛するなんてそんな理不尽だ…という方々のお気持ちもよく理解できます。でも、絶対に出来るはずです。

 私という克服者が、細かい部分まで克服法を記載していますから(笑)絶対大丈夫♪愛で全てを克服する人間、それが「克服者キリスト」です♪

 ライオンに追い込まれた崖っぷちの状態だと意識して、100%の愛で慈悲と愛を発揮する以外に生き残る道はないのだと、自覚して、命がけの覚悟で愛に生きるんだと、強く言い聞かせて下さい。

 愛以外に覚醒への道はないのだと、神と繋がる唯一の方法は「愛のみ」なのだと、愛ほど尊いものはないのだと、この世界を超越する唯一の方法は、「慈悲と愛」なのだと、強く言い聞かせて欲しいのです。

 神はすべてを超越する力であり無限者であられます。なぜすべてを超越する力なのかと申し上げますと、それは神の御心が「慈悲と愛」だからなのです。愛はフォースです。愛こそが全てのエネルギーなのです。

 神の御心は「全てを活かす愛」ですから、この無限宇宙は、この神の無償の愛によって成り立っている…という事は、この物質宇宙は、神の愛によって生かされているのであり、存在しているとも言えましょう。

 私って…ひょっとすると…このままいけば、完全覚醒までいけちゃいそうですね(笑)より一層覚醒へ向かって、真剣に取り組んでまいりいます。

 ただ、もう少し「感情の制御」「分離意識の克服の基礎」の部分をしっかり習得しないと、この境地の到達は難しいかもしれません。また次の機会に記載する予定でおります。乞うご期待下さいませ。

 ぜひ、私の体験をご参考にして頂いて、皆様も、私と同じ境地まで到達されますよう、心からご祈念申し上げます。゚゚゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚



『 全体の幸せ・全体の幸福・全体の喜びを 願う心 』
これを、『愛心』・『慈悲心』 というんです。

慈悲の「悲」の心とは…
『 すべてのものから、悩みや・苦しみ・悲しみが 取り除かれます ように。』
これが、慈悲の「悲」の心。

慈悲の「慈」の心とは…
『 すべての幸せ・すべての喜び・すべての幸福を 願う心 』
これが、慈悲の「慈」の心。


どんなに、都合良かろうが、都合悪かろうが…
その人を、「愛し生きる心・いたわり思いやる心」を、
『 慈悲心・愛心 』というんです。


神我顕現への道から引用させて頂きました
知花敏彦さんの(多分)一番弟子と思われる
大村さんの神我一体への悟りを開いた体験記をご紹介させて頂きます♪
きっと皆様の悟りの良いお手本になれると思います♫〜♬
良かったらご参考にして下さいませ
ちなみに、記事に出てくる上江洲さんとは覚者上江洲義秀先生の事です。


大村さんの体験

清里での、別の研修会の時の体験を話してみます。
私と、上江洲さんと他に四人で清里に来ました。
五、六十名の方が集まって、あるペンションの貸し切りの二泊三日の日程で、講話と瞑想という内容でした。

二日目に、知花先生が講演をしながらバイブレーションを上げられました。
瞑想をしながらバイブレーションが上がっていき、在る女性がその強烈なバイブレーションの中で、ある種の指導霊の光を見せられたのです。

ですが、そのことにその女性の意識がついていかないものですから、ちょっとした興奮状態になった。
そんな中で、皆はバイブレーションが上がってきているのに、私は上がれないのですね。

「なぜ、私だけが上がれないのか」
私は自分自身に問うたのです。

「私(神)に祈る前に、全てのものと和解してから祈りなさい」
私の内側からその言葉が出てきたのです。
その時の私には、以前から一人だけ違和感のある人がいました。でも、その人との違和感をなくす方法が、それまでわからなかったのです。

 ですが、この言葉が出てきてから、瞑想の中で一人ひとりをビジョン化しながら「愛の放射」を行っていったのです。七番目か八番目に、その男性が出てきました。
 その時もまだその人に違和感があったのですが、それでも私は心を改めて「愛の放射」をしたのです。

 その瞬間です。
私の中に強烈なバイブレーションが起きて、もう肉体が爆発するのではないか、と思われるほどの、強烈な振動の中に置かれたのでした。

 テーブルを囲んで振動をおさえていましたが、肉体のレベルまでエネルギーが充満しました。私はその時が初めての体験でしたので、掴んだテーブルまでも揺り動かしているのです。

 このままでは肉体が爆発するのではないかと、自分ではこのエネルギーをどうすることも出来なかったのです。
知花先生が講話の途中で「皆でオームを唱えましょう」と言われ、オームを唱えてくれました。
私も一緒にオームを唱えようとしました。
でも、どうしても声が出ないのです。

 先生が三度唱えられた時、私はようやく声を出すことが出来ました。
瞑想の中で「オーム」と唱えているのです。

そのオームの声で物質的なバイブレーションを上げることが出来たのですが、その声に唱えた声は、自分でも聞いたことのない極端な高い声(ハイオクターブの、まるでハイソプラノ歌手のような声)で、オームのバイブレーションが出てきたのです。
 
 それを唱えることによって、私自身に充満していたエネルギーが表現されて、外に流れ出ていったのです。
高いバイブレーションになればなるほど、1点の曇りもあってはいけないということでした。

私の場合は先程も話しましたように、私自身が「神一元瞑想」に集中している状態でなければ、なかなか言葉も出てこないのです。

 対面した人に対して、個人的レベルでもそうでしょうし、瞑想の話もそうでしょうし、自分自身がある一定上のバイブレーションにならないかぎり、言葉が出てこないのです。

 これまでに学ばせてもらったのは、相手と話をする時、相手の形態とか心の状態をみるのではなく「常に相手の神我を見る」ということ。

 その中からお互いの答えが出てくるように思います。
だから、相手の根源との一体という意識、この私がどこまで集中出来るかということです。

その状態から「お互いよい答えを求め合う」、そいういうものを求めるとそれが出てくる感じなのです。

その現象の中の、問題の部分だけに意識を向けるのではなく、一度無限意識の中に入り一体となった状態で、小極というか、形を意識するといいますか、そうすれば無限の中から、対極の中から見ていますから、「それが何であるか」を即座に知ることが出来るのです。
 
 直接問題点の「小極」に意識を向けるのではなく、いったん、太極の上に立って小極を見つめてみる。

そうすると、バイブレーションの高いところから見ていますから、表現界の知識とか理屈ではなくて、太極に立つことによって「物事がよく理解できるようになる」「正しい判断ができるようになる」ということを教えられました。

 物事に意識を、頭を突っ込むのではなく、一旦、無限という意識と一体化するということを通じてのみ、小極を見つめてみるということです。

 沖縄の研究所に泊まり込んでいた時期のことです。
他の場所での伝導瞑想の集いを終え、夜の十二時す過ぎに戻ったのですが、その日は二時頃床に入りました。

「愛一元」を、四六時中意識していた時でした。
眠りについた時、突然、私のハートにものすごい大砲が打ち込まれたのです。
それが私のハートの中で、強烈に爆発しました。
びっくりして飛び起きたのですが、ハートチャクラの痛みに耐え切れず、七転八倒して研究所の中を転がりまわっていました。

 やがて痛みが消えると、私のハートがしっかりと開いているのです。
その時の一つの刺激というか、エネルギーによってハートのチャクラが開かれたとでもいうのでしょうか。

それ以来、私の意識、私の心というものが、完全に「空」という状態になったのです。

心の中に雑念というものが溜まらないのです。
自分の中に無限という「全くの空間」とでもいいますか、常にそれが内在するようになり、それ以来、先生の説法をより深く素直に吸収する事が出来るようになったのです。

 その後、しばらくしてから瞑想の最中に、額がものすごく痛くなってきました。
これは額のチャクラが刺激を受けているのです。
私はわたしなりに「神一元」という世界を、思いっきり意識してみました。

そうすると、痛みはなくなり額のチャクラが開かれていったのです。
その時、上江洲さんに額を霊視してもらいましたが、「こんな綺麗に眉間のチャクラが輝いているのをみたことがない」と言ってもらいました。

 知花先生にお会いできてからというもの、私は非常に短期間で全ての意識を外し、その神理に集中し、それを「神一元」という形で強く求めてきたのです。その結果、それはどのようにいい表したらいいでしょうか。かなり肉体の変化が短期間に現れたのです。

そして、私が色々な現象と遭遇する中で、私のハートの中に、いかに神が着座しているかどうかを、自分なりに確認したいと思ったのです。

 ですから「寝ても覚めても神意識」という、先生の講話の中の教えが理解できましたので、常に、自分の意識が「神」の方向に向いているかどうか、自分で自分自身を注目していました。

「寝ても覚めても神」
「夢の中でも神」
宇宙意識を着座させるということです。

眠っていても、夜中に目が覚めます。
その瞬間(何を意識しているか)、常に自分は「神一元」を意識しているかどうかと、意識をチェックしたのです。
そのチェックをどんどん行っていきました。

 その後三日間、四六時中「我は神なり」を唱えさせれた事がありました。3日の間、それを続けさせれたのです。
そして、三日目で、二段階も三段階も、強烈に意識が上がる状態が起きました。

「すべてが神」という、あれもこれもすべてが神というものを見つめる状態が、三日目になって、バイブレーションが二段階も三段階も上がったということなのです。

 私は、先生の事務所に寝泊まりするという、その環境に大変恵まれておりましたので、先生の神理の教えを学ぶことに対して、世俗的な影響を受けることはありませんでした。

 先生が講話をされている時、「あなたは一番恵まれていました」と私にそう言われたことがありました。

私は非常に貧乏で、お金もなく、身体も病んでいまして、肉体的に考えると「なぜ、そんな大村が恵まれているのか」という思いが周りの皆さんにあったようですが、私自身は自分が恵まれていることに感謝していましたしそれについてはある程度は理解する事が出来ていました。

お金とか物とかは一切ありませんでしたので、それらに捕らわれることもなく、全くの自分の時間を与えられていましたので、先生とお会いしてからというものは、真理の追求に入っていけるその恵みが、私には与えられていたのです。

 お互いに瞑想していく中で、「瞑想を通じて理解を高め表現する」ということを教わりました。

今日も、こういった過去の体験の話をする中で、その体験を過去の思い出という状態で語っていまいますと、「天の知恵」を、単なる知識として記憶してしまうのではないかと、そのように思っています。

 言葉はバイブレーションであり、意識もバイブレーションですから、意識を一元意識から外さず表現していけば、そのバイブレーションが言葉を通じて表現されていくると思います。

 そして、これが文章化され本として出版された時も、この魂の奥底のものを世の中の人に読んで頂き、きっとご理解頂けるのではないかと思っています。

宇宙創造の神が勧める霊性を高める方法 洗心

いつももつべき正しい心(=常の心)
強く     明るく
正しく    我が祈り
宜しからぬ欲を捨て
みな仲良く、相和して
感謝の生活をなせ

心の中からなくすべき感情(=ご法度の心)

憎しみ  不満
妬み   疑い
猜み   迷い
羨み   心配心
呪い   咎めの心
怒り   いらいらする心
不平   せかせかする心


■四句御箴言(しくごしんげん)

与えられたことを感謝して受けよ
与えられぬことを感謝して受けよ

与えられたことを拒むこれ欲なり
与えられぬことを欲するこれ欲なり


知花敏彦先生の総まとめ記事 第1回目

知花敏彦先生の総まとめ記事 第2回目

FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪

知花敏彦先生の記事総まとめ1/3♪
から一部引用させて頂きました




イエス様の病気の治療方法

 本当に自分が健康でありたいならば、皆さん方は、すぐにでも健康になれます。その方法をお教えしましょう。

 朝、目が覚めたら、座禅を組んで、心を落ち着けて、頭の先から足の先まで光に満たされて、1点の曇りもない自分をイメージすることです。

 これを「光明思念」といいます。
 それが強ければ強いほど、その人は光明思念になれるのです。

 座ると同時に、それが出来るようになります。
 一ヶ月も訓練すれば、それが出来るようになるでしょう。そうするともう、病気は存在しなくなります。

「病気を、自分は認めない」というように、決して病気を認めてはなりません。認めている間は意識しているわけですから、自分の意識で病気を引き留めて、可愛がっているのです。

 それを否定して、光のみを肯定していくことです。
 そして、自分の病気を完全に否定した時、病気が治るのです。

 イエス様の病気の治療は、その方法でした。
 病人がどこが悪いといっても、病気であることを観ない。認めもしない。光だけを認められたのです。

 例えば「病気だ」という人を、私は病気だと認めません。「ここが悪いのです」といっても聞かないのです。
 「そうですか。そこが悪いのですよ」と私が認めたならば、もう病気は治りません。
 その人の訴えを聞き流すのです。

 私は光だけをイメージし、私が完全に光明化されて、私の手からその人全体に光が入ってい行き、その人が全体的な光となり、全部が光りに包まれて、細胞体全てが光に輝くということになります。

 その思念が強ければ強いほど、病気の治療が強いということです。
 
 イエス様は、それを「光一元」に信じてこられたので、色々な奇跡を起こされたのです。

 光明思念が強いか強くないかで、病気治療が可能であるか、可能ではないかが分かります。

 (私がこんなことをやっても治るのだろうか?)と思えば治りません。すでにそこで破壊をしているわけです。

 そして、(私がやって治ったのだろうか?)と思ったら、そのエネルギーは断ち切れてしまいます。せっかくのものが治らないのです。

 しかし、今与えたから、今治るとは限りません。2〜3日後に治るか、一週間後に治るか。いま治らなかったからといって、そこで、せっかくの光明を破壊し、「ああ、やっぱり治らなかった」と闇に返る人がいます。

 行ったら、それを破壊してはなりません。信念をどこまでも信じ込むことです。
 これが「神を信ずる姿、光を信ずる姿」なのです。

 自分の子供でも、誰にでも光明化を与えるならば、「必ず良くなるのだ」という「信念一元」において、決して破壊的な信念を起こさないことです。

 皆さん方はよく祈ります。(神様、助けてください)と。神様は「そうか、助けてあげよう」と頷かれます。
 しかし、あなたは(もういいのです)と断る。(私の祈りは聞き入られなかったのだ)と思ってしまうのです。
 そこで、神様は「そう思っているのなら、それでいいのですよ」と言われるのです。

 あなた方は、祈ることは上手です。
 「神様、どうか私を助けて下さい」」と祈りますが、しかし,(私の祈りは聞き入れられないだろう)と思い始めるのです。

 せっかく祈っていながら、その祈りを取消し、払い下げをしてしまうのです。だから、祈りは聞き入れいれられなかったということがよくあるのです。

 祈られた結果は、神の御心だけが知っておられます。即、与えられるものと、もう少し経ってから与えた用が都合がよいという場合があるのです。それを知らないで、一週間経っても変わらないから(もう駄目だろう)と、その祈りを払い下げをするのです。

 (もう、いいのです)と神を疑ったのです。神を試したのです。だから「神を試すことなかれ」という言葉が出てくるのです。

 皆さん方は、神を試しているのです。
 神を試してはいけません。
 とことん信ずるのです。祈ったならば、「その祈りは必ず聞き入れられる」と信念を持つことです.それが祈りのコツなのです。


心配して善いことはない

 「心配」「不安」「恐怖」は、破壊です。
 その破壊的思念を送っていながら、子供を愛している、夫を愛しているというのは「口先だけの愛」というものです。真実においては愛ではないのです。なぜならば、殺しているからです。

 私達は神理を学び、神理を知って、その通り神理を実行した時、真の愛が出てくるのです。それを「育愛」といいますが、皆さん方のいうのは「盲目の愛」で、物事を知らない愛が殺人を犯すわけです。
 そういう事にならないように、一生懸命気をつけなければなりません。

 あなた方の日々の生活で、この思念力が使われているのです。これは、あなた方の想像を超えるもので、五感で判断出来ない、想像の力があるのです。
 
 善なる建設的な想像の思念を送っているか、それとも破壊的思念を送っているかで、その子を殺すか、親を殺すかということになります。

 送っている方も、いい気持ちではありません。なぜならば、罪を犯しているからです。心配をして「いい気持ち」という人はいません。罪を犯しているからです。

 あなたの良心が(嫌、嫌)と言っているのです。(こんなことをしてはいけない)とあなたに警告をしているから、あなたは胸騒ぎがして胸がドキドキして心配するのです。

 恐怖を感じている時、心配している時、胸がスッキリしているという人は、一人もいないはずです。神の法則から外れているからです。
 法則に準じて生きているならば、常に胸がスッキリしているはずです。

 心配していて、爽やかであるはずがありません。
 なぜならば、殺人を犯しているからです。これは、あなたの「自我」なるものが犯しているのです。

 「神我」なるものは、(こんなことをしてはいけない、いけない)と、警告を与えるから胸苦しくなるのです。

 「心配すると、いつも胸が苦しくなる」といいます。よく心配する人は、神経性胃炎にかかります。これは、心配の人殺しが激しいからで、とうとう「反作用の法則」で、自分が殺されるのです。
 
 自分に跳ね返るのです。「常に胃が痛い、胃が重い。こちらに何か塊があるみたいだ」という人は、常に悪思念を人々に送っているからでしょう。

 心配して善いことが起きるのでしょうか。
 よく考えてみてください。
 
 「心配して善いことはないのだ」と、そう知りながらも心配する。
 そのことを「罪」として、「悪」として、自覚していないからです。
「どれほど相手に悪影響を与えているか」ということを知らないからなのです。


想念体の力を知ること

 私の場合は想念体の力というものを知っているので、それが恐ろしいのです。(世の中はみんな害虫なんだな)としか思えません。

 悪想念体の入り乱れた網の目のように、この地上界は想念体が入り乱れています。正しい光明思念というものが、今は本当に少ないのです。
 だから、世の中は混乱し、悩み苦しみます。病気というものも、みんなそれから作られてゆきます。

 想念体は、その本人一人だけに行くのではなく、永遠に、この地上界を回っているのです。
 みんながそれを持っていて消さないかぎり、一秒間に地球を七回半回るほどの速さで、悪想念は回ります。

 その中で、同じチャンネル、波長を持っている者がいれば、それにぶつかるのです。
 あの人にぶつかり、この人にぶつかり、それが何名殺したかということになります。その事を、皆さんは知らないのです。

 悪をばら撒き、闇をばら撒き、破壊的念を、思念を、想念体をばらまくのと一緒なのです。
 人間一人一人の悪想念が今度は何の罪になるか、何のカルマになるかということが、地球のカルマになります。そうなると、地球のカルマは悪想念に満ちていることになり、地球人間は、いい気持ちで住めるはずがありません。

 今こそ、その事が悟れないとか、悩み苦しみから開放されないということは、悪想念体が多いからです。
 光明思念が少なすぎるのです。その悪影響を付けて、その苦しみや、不安や、心配、恐怖から開放されないのです。

 その神理を知ったのなら、それらを受け取らないような受信機のようにならねばならないのです。


光明化をイメージする

 朝、起きて、五分でも良いのです。もっと時間が取れるならば、寝床の上に座って、光明思念をすることです。
 そして、まず、自分から光明化をはかります。

 大宇宙の中心より「神の光明」の、大きな光のカプセルを頂くのです。
 光のカプセルが自分の中に入り、自分が黄金の仏像のように、輝いていることをイメージします。
  
 自分だけが救われれば良いのではなく、これを徐々に広げてゆき、家の内外、全体が黄金に充たされることをイメージします。そして、家全体がイメージ出来たなら、次に屋敷全体が光に満たされているイメージをするのです。それを毎日やっていくと、偉大なる光明思念となります。
 
 自分の家族だけでなく、隣近所まで広げていくのです。
次には、町内中に広げていき、その光の広がりを拡大していくのです。
そして、ついには日本全体の光明化をはかるのです。

 しかし、これだけではすまないので、今度は、今度は、地球の上に自分が座って、そこで光明化をはかっているというイメージをして、上から宇宙からの光を仰ぐように、イメージしていくのです。

 これは地球の光明化です。全人類の光明化思念を送ることになるのです
 それを知らないので、光明化のイメージが出来ないのです。


光の治療で病気が治る

 光明化思念を日々の生活の中で活用していくことでは、肉体細胞が輝かしい光明なる思念を持った生命体となることです。そうすると、病気は存在しなくなります。

 それは。病気治療に大きな効果があります。
 例えば、病人がいたとします。
 しかし、その病人を認めてはいけません。病人だと認めたら、闇を認めたことになります。絶対に、病人だと認めないこと。1点だって認めてはいけないのです。

 そして、座って光明化を頂いて、その人が頭の先から足の先まで黄金に光っている。白光に光っているという強い思念を送り、その人の肉体が黄金に輝くイメージを作ります。

 完全に足の先まで光っていることをイメージ出来るまで行います。
 そうすると、肉体細胞の今までの黒い部分が押し出されて、その部分がなくなるのです。

 黒い部分、つまり闇の部分が病気なので、その闇が光に押し出されて無くなるのです。
 これを、「光明思念治療法」といいます。光明思念に対しては、誰にでもその能力があるのに、毎日の生活で使っていないだけなのです。

不良化した子供さんがいたら、その子供さんを4〜5分でも良いから座らせて、光明思念を送ることによって救うことも出来るのです。

 光明にされると、細胞体、意識、心までも黄金に輝くので、悪いことが出来なくなるわけです。

 皆さん方は、自分の病気を、完全に自分自身で断ち切る事ができます

 肉体は「想念体」なので、光明化を願って、頭の先から足の先まで光り輝いた、曇り気一つない、神々しい輝かしい光のイメージを一日二〜三分、あるいは四〜五分、毎日できたとするならば、永遠に健康で過ごすことが出来るでしょう。

 あなた方の細胞を傷つけているのは、あなた方の思念力の誤用です。細胞体が汚れてくるのです。その思念力が闇であれば、闇が入ります。

 光であれば光が入ります
 「反作用の法則」なので、誰であっても傷つけてはなりません。
 あなたが人々に光明を送れば、光明思念はあなたに返る。闇思念を送れば、闇思念が返るのです。

 あなた方が人々に光を送るようになり、地球の地上界に送るようになった時、皆さん方の心はスッキリするでしょう。この心がどこから出てきたんだろう)という喜びを感じるでしょう。

 なぜかといえば、神に仕えているからです。神の御心の中に生かされているからです。神の光の中に生きているからなのです。

 これが、真の人間の生き方なのです。
 しかし、今、皆さん方は道を間違えています。
 悪に生きようとしているのです。闇に生きようとしているのです。

 それは、。あなた方の思念が間違っているからで、悪思念によって生きようとしているからなのです。
 悪思念から光明思念に返ることによって、毎日の生活環境全てが変わるのです。

 こういうことがよくあります。

 写真家が光明思念のビジョンを描いてシャッターを切った時、色々な写真に光が現れます。
 写真の中に光が写るでしょう。その光が出るという思念力でもって、写真をごまかすことが出来ます。

 写真を撮る時、(あそこに光がある)という念力が強ければ、いくらでも写真に光を映すことが出来るのです。
 それを「神様の写真だ」といって、売り物にしている人もいます。
 
 色々な所を撮って、「私が神様を呼んで写真を撮ったのだ」という。
 しかし、それは光明思念でもって光明を撮っただけで、神様の働きではありません。その人の、自分の念の力なのです。

 それを商売にするために、人を写す時、念力でもって光をイメージして写真を撮り、それを見せて「私は神の力があるのです」といって、それを売り物にしている人がいるのです。

 その光を写す事は、皆さんにも出来ます。
 光明思念を働かせることによって、誰にでも可能となるのです。
 念力を悪用して金儲けをしているだけで、何の力でもありません。

 真の幸せのために、その力が使われたのならば本物です。
 しかし、個人の金儲けのために、「あなたの守護神様を写してあげましょう」とかいって、その人の頭の上に光をイメージして写す。

 そうすると、「本当にこの人は神様なんだな。神様を呼んで写真を撮ってくれたんだな」という事になってしまうわけです。

 カメラ自体にトリックがあるのではありません。フィルムそのものにも、トリックがあるのでもありません。その人の思念力で光明を描いで、その念力によって、光明が写しだされるのです。

 それを悪用した写真をみせられて、みんなが信じ込む。これお「霊的悪用」といいいます。
 霊的悪用をする者が、この世の中にはワンサカといます。

 神様は、神の力である念力を、正しい方向に使うことを喜んでおられます。
 ですから、自分個人の悪用方面に使わないようにして頂きたいと思います。


闇的思念は自己破壊を招く

 自己破壊とは思いです。思念力です。これをあなた方は日々、毎日の生活の中で行っています。
 あなた方は何を思っているのでしょうか。
 暗い思いをしているのでしょうか。明るい思いをしているのでしょうか。
 それで、その人の環境や肉体の状態のすべてが変わるのです。

 皆さん方が不健康であるということは、必ず、自己破壊をしているのです。
 例えば、女性の方が「乳房が少し痛い」と感じた時、小さな1点の痛みを自己破壊によって、(大変なことになった。これは乳ガンではないだろうか)と思い始め(ひょっとしたら、乳房にグリグリが出てくるのではなかろうか)と、乳房にグリグリを想像するわけですから、そこにグリグリが出てくるのです。

 (これはきっと大きくなる)と、さらに自分で大きくするのです。(これはきっとガンかもしれない)と、今度はガンをイメージするのです。闇的、破壊的イメージをするのです。

 そうすると、そのグリグリが卵大の大きさになっていく。そして、とうとう私は癌になってしまった)と思い込み、病院の診断の結果、医者から「ガンです」と言われるのです。

 (ついに、私の思い通りになってしまった)と思うようになるのです。
 これは自分で作ったのです。

 あなた方は、実際に、超能力者なのです。自分の病気を、自分自身でどんどん作り出すのです。これを「闇的思念」といいます。

 皆さん方は「どれだけ自分の肉体を破壊しているか、どれだけ自己破壊しているか」ということを知らなければなりません。

 自己破壊しない人が病気であるはずがありません。
 「いいえ、私は自己破壊的なことを思わなかったのですが、病気になってしまったのです」という人がいます。それは、おそらく嘘でしょう。

 病気を気にして、破壊的イメージを持ったなら、その人は必ず病弱の状態です。なぜならば、悪思念を自分自身に送るからです。
 (私はこうであるから、こうなるんだ)というようなイメージをして、自己破壊をするのです。

 血圧の高い人は心臓がドキドキし始めたら、(ああ、首筋にきた)(ああ、頭にもきた)と、既にイメージして自分で動かすのです。

 全部、自分が作り出すのです。そして、病気を動かしているのです。
 その悪思念を動かして(もう私は倒れるのではないか)と思い、そして倒れる。

 倒れる状態を自分の悪思念でもって、そういう具合に作り出しているのです。そのことを知らないのです。

 血圧が上がっても、気にしない人がいます。平気で仕事をします。
 「私はこんなに血圧が上がっても平気ですよ」という人は平気です。あるいは、150でフラフラして倒れる人がいます。

 180でも倒れない人がいるのに、なぜかというと、それはその人の思念力によるもので、「私は150では駄目なんです」という人は倒れてしまうのです。


光一元をイメージする

「信念の強さは岩も押し通す」といいます。その信念の強さによって、皆さん方が「光一元」の光明思念を持つようになったなら、この世は光明化されるのです。自分自身が光明化であると同時に、世の中をいくらでも光明化することが出来るのです。

 朝、五分でもあれば、完全に光り輝くイメージをして、皆さん方のご先祖(肉体先祖)までも、その光のカプセルで被せることが出来るのです。
 
 そうすると、ご先祖(肉体先祖)は喜ばれるでしょう。高いお金を払って、お坊さんや拝み屋さんを頼んできて、お金と暇を費やす必要はないのです。

 光明思念は、どこにだって届くのです。それを、皆さん方は知らないのです。
 毎日の生活の中で、光明思念を使うようにしていただきたいと思います。

 友達に困っている人がいたならば、その友達の方へ年を向けて「光一元」をイメージして、その人の頭から足の先まで光り輝いていることをイメージすると、その友達は、(今日はなぜか身体が軽い、気持ちがいい)と、即、思います。あなたが念じた瞬間、友達はそう思っているのです。

 念がそこに行っているのです。
 そして、数日後にその友達に会えば、友達はきっとあなたに声をかけるでしょう。
 あなたから光明思念がきたことを、潜在的に知っているからです。

 その逆で「憎い!」と思念を送ったならば、真っ黒いものが相手に行くのて、破壊的になります。後日、その人に会ったとしても、横を向いて知らん顔をして通りすぎてしまうでしょう。
 ですから、話をすれば影とやら、思いはどこまでも通じるということです。

 思念力というものを、皆さん方はまだ信じておられません。だから、「思念の悪用」ということになるのです。
 「自分の身内を者を殺していることを知らない」ということがいえるのです。

 身内の者が病人で、とくに重体であればあるほど、虫の人が看護してはなりません。少しでも悪くなると、破壊的思念を送るからです。
 
 しかし家政婦さんは身内ではありませんから、病人が痛かろうが何であろうが悪いイメージは作りません。彼女は仕事ですから、身内の者のようなイメージを作らないのです。

 心ある身内の者は思念を送るかもしれない。しかし、彼女にはその心がないのです。

 「思念の活用」ということを知らない無知なる人間には盲愛というものが働きます。従って盲愛が強ければ強いほど、その人を破壊するということを知らなくてはなりません。それは、真の愛ではなく、破壊的な愛です。

 それを「盲愛」といいます。「盲愛はどれほど破壊しているか」ということを知らなければなりません。
 
 皆さん方の真の愛は、光明思念の中にしか存在していません。闇なる、悪なる思念の中で行っているのは、盲目の愛、盲愛なのです。

 だから、それは「闇的愛」なのです。
 そういうことにならないように、その「光明思念」とは何か。「闇的思念」とはなにかを、ハッキリと知って頂きたいと思います。

 あなた方が、今日、この話を聞いて、闇的思念と光明思念との選別が完全に出来て、本当に光明思念のみに行きられるようになったならば、あなたは今日からでも幸せになります。

 今日から光明思念を送れば、今日、即、あなたの心が安らぐのです。


命としての細胞体

 「このミカンは、あなたになりますか」というと笑われるかもしれませんが、ミカンはあなたとなるのです。みかんを食べると、四〜五分から十分後にはあなたの細胞となり、ミカンはあなたとなるのです。

 みかんを食べ、りんごを食べ、あなたの食する物があなたとなり、あなたの食べるご飯があなたとなり、米一粒一粒の命があなたの細胞となり、その粕だけが排便されるのです。
 
 食べた細胞体は全て、あなたの細胞体となります。
 ですから、命としての細胞体は、米の細胞体も、ミカンの細胞体も、リンゴの細胞体も、あなたの細胞体と同一であるということです。

 食べ物に対して「ミカン様、リンゴ様、あなたをいただきます。あなたは私となります」という思いで食べたならば、細胞は一粒だって殺すこともなく、やさしいミカンやリンゴの細胞体を頂くことが出来るでしょう。

 そうした時、新陳代謝が生まれるのです。今までの汚れて疲れきった細胞体が、リンゴの優しい細胞体によって生まれかわるのです。

 果物を多く摂ることは、健康的にも病人にも善いと教えるのもその一つです。なぜならば、果物の細胞体は、非常に細かい微妙な細胞体です。果物を多く食することによって、もちろん、私達の肉体細胞が新陳代謝を行なうのです。

 食べ物よっては、荒くもなるし、細かくもなる脂肪分の多い物を摂り過ぎると、肌荒れも出てきます。若さや美しさを長く保ちたいというならば、食べる思念力によっても、随分違います。
 
 食べる時、必ず、その食べ物を見ることです。(ああ、これが私となるのか)という思い、そして(これが私の細胞となるのか)という思いで頂くと、完全消化が行われるのです。

 イヤイヤながら食べると、いの中で腐敗が起こり、そして、下痢を起こしてそれを出さなくてはなりません。その食べ物を受け付けなかったからそうなるのです。

 だから、食事をする時に文句をいう人は、常に下痢気味です。細胞が良い方向に受け付けないからです。
 物に対して、命があるということを知らないからです。

 そのことに心から感謝し(これに命があり、全てが細胞体なんだな。私の血となり肉となるのだな)という思いで食し、心から一体化がはかれるようになれば、完全消化が行われるのです。

 そうなると、一日一食で平気でいられます。
 そのことを知らないので、3食食べる。肉欲で食べているので、食べても食べてもお腹が減って、一向に栄養にもならない人もいるのです。
 
 しかし、ほんとうに感謝の気持ちで、質素な食事でも完全消化が出来たのならば、皆さん方は一食で生きられます。

 私は、殆ど一食です。毎日一食ですが、健康の維持が出来ています。
 食べても食べても肥らないという人は、あまり物に対しての感謝、理解というものがなされていないのです。

 食べる時の心構えというのは、もちろん、物質は物質エネルギーで合成されていますので、その時に(我が食する物は母なる神にお返しします)という思いで、食事をすることです。


過ちを悔い改め魂を向上させる

過ちを犯す。これも一つの体験です。皆さん方は過ちを犯すという体験をして、初めていい方向に進展していくわけです。

 過ちを恐れていてはいけません。過ちがあるからこそ向上できるのです。「ああ、これは過ちだ」という時に学び、答えが出てくるのです。

 あなたが過ちを(このことは過ちであった、すまなかった)と認めた時、これが「悔い改め」です。
 そうした一つ一つの過ちを「悔い改める」ことによって、貴方の魂は無知から知恵のあるものに進展していくのです。これを「魂を向上」といいます。

 過ちを過ちと思わないで、そのまま抱きかかえて生涯を終える人もいます。
 私達の結果として表れている、その試練に乗り切る事ができず、過ちの泥沼の中で泣き言を言って、生涯を終える人もいるのです。

 しかし、「即座反省」といって、過ちは過ち、正しいことは正しい、即座反省を持って過ちを乗り切った時には、一段階、あなたの魂が向上するのです。

 過ちがなければ、学ぶことは出来ません。いかなる科学者にも過ちがあり、失敗があるので「何故失敗したのか」という原因を追求して成功があるのです。

 「失敗は成功のもと」という言葉があります。正にその通りです。
 今後も、あなた方に過ちがないとはいえません。しかし、過ちがあなたを高めます。失敗があなたを高めるのです。

 「こういうことがあると、こういうことになるのだな」ということを、あなたが学んでしまうのです。

 いかなる失敗も「失敗は成功のもと」です。その試練に泣き言を言うのではなくて、「ああ、これは私を高めるための前提なんだな。この答えを出して百をとってみよう」

という意気込みで過ちを反省して百点を取って、「こういう具合にしたら救われたのた」という答えを出すことが一番肝心なのです。

 皆さん方には毎日、宿題が与えられています。
 失敗します。そうして解けなくなると、「なぜ、自分だけが苦しまなくてはならないんだろう」と一人な気するのです。「神様はいないんだろうか」というのです。

 答えは、自分で解かなくてはなりません。
 「その原因が結果として現れている」「何が原因で結果が現れたのか」
 原因が答えですから、原因が分かった時、その問題が解けるのです。それなのに皆さん方には、問題だけを捉えて泣いているのです。

 それを「泣き言」と言います。

 ですから、「このような結果になるのは何が原因しているのだろうか」と答えを出さなくてはならないのです。
 答えを出した時、救われます。即座に救われるのです。その積み重ねが皆さん方の毎日の修行です。

 もし、皆さん方が答えを出さなかったら、それは、来世に持ち越します。「輪廻」と共に「カルマ」は持ち越されるのです。答えが出されていない時には来世があります。この世にもう一度、落第せねばならないのです。

 学校でも同じことです。勉強もせず努力もしないで、ゼロ点ばかり取っていれば、落第です。それが出来るまで繰り返されます。

 この地上界で、原因と結果の答えが出しきれなかったら落第するのです。百点が取れるまで繰り返されるのです。

 結果を見て、原因を追求し、これは何から出たものだと、すぐ「即座反省」で答えを出していく人と、一つの問題に泣き言を言って、何十年も苦んでいる人がいます。

 「答えが出せない出せないと泣き言を言って、その泣き言を取り上げない限り、答えを出さないかぎり、それはあなたに永久につきまとうということです。

 これを「カルマ」といいます。「業」ともいいます。
 それがつきまとっています。なぜならば、答えが出されていないからです。

 お分かりいただけるでしょうか。あなた方は、毎日が勉強であり、学びです。その学びが、あなた方の日常生活の中にあるのです。

 だから私はいつも、「あなた方の修行の場は神社や、教会や、仏閣の中にあるのではない。あなたの家庭の中に、職場の中に、社会の中にあるのだ」と、申し上げているのです。

 「こういう結果になるのは、何が原因しているのか」、その問題を解かなくてはなりません。「原因結果の法則」です。

 これが分かるようになると、「こんな問題か。これはこの原因からきているから、原因はこれだったのだ」と、すぐその過ちが見いだせるのです。

 それをとりなした時、答えはすぐ出るので、開放されるわけです。
 もうこれで、あなたを苦しめるものはありません。

 よく気を付けてください。
 あなたの目の前に問題があります。子供に対しての問題、旦那さんに対しての問題など、いっぱいあります。

 それなのに問題を解かないで、自分だけは「いい子になりたい」と思っているのです。

 「不調和である者は、何が原因で不調和なのか」、その答えを出した時に、子供は「いい子」になります。その答えを出した時は、旦那さんは「いい旦那さん」になるのです。

 答えが出ない間は、悪い子供であり、悪い旦那さんです。その意味がお分かりいただけるでしょうか。
 「原因と結果の法則」なので、日々の生活の中で、どんどん答えを出せるようになるとしめたものです。もう、百点満点です。


 特に申し上げたいのは、光明思念の訓練をして頂きたいということです。
 闇なる思念を送らないよう、破壊的な思いを起こさないようにして、毎日の訓練によって、本当に健康そのもの、光そのものの肉体を持つことが出来ます。

 それは。アナタ次第です。例え五分間でも目を閉じて、自分の頭の先から足の先まで、内臓もピカピカ光り、腸がピカピカ光っているような、黄金の自分をイメージする事によって黄金の自分になるのです。

 今までは、まったく逆だったのです。
 肉体的な自分をイメージして障害のある自分、病気のある自分をイメージしてきました。

 だから、幸せにならなかったのです。
 だから、健康にならなかったのです。

 皆さん方が幸せのイメージを持ち、光明思念が強くなればなるほど、世の光となることが出来ます。
 これを「世の光」あるいは「世の太陽」といいます。
 
 例えば、バスに乗った時でも、そのバスを浄める事もできます。自分の行く所、全てが清めとなります。

 私は、よくバスに乗ります。バスに乗り込んだ時、光溢れんばかりに、そのバスを清めていることをイメージします。そうして車内を見渡すと、乗客の皆さんがニッコリしているのです。光の波動に打たれているのです。

 バスに酔って吐き気をもよおしていた人も、ニッコリ微笑んでいます。その光でもって、そのバスが清められるからです。

 いかなる所へ行っても、あなたの光明思念が強くなれば、恐怖するものはありません。あなたに、闇なるものが存在していないからです。
 
 あなたの家屋敷の清めも、簡単にできます。光をイメージして、家屋敷の隅々までイメージして、一杯に光り輝く白光の中に自分の家屋敷を包み込む事が出来るのです。闇なるものが追い出されて、光明そのものの家屋敷になります。

 これは、真の家屋敷の清めです。真の自分の清めです。
 そういう光明思念を、皆さん方に持って頂きたいと思います。

 これが出来る様になると、困っている人がいれば、その人をイメージして、その人に光明を送ることが出来ます。その人をイメージして、ビジョンして、救うことも出来るのです。

 遠くにいようが、どこにいようが構いません。地球の裏、南米にいても出来るのです。
 それが皆さん方に、時間、空間、距離のないことを体験されるでしょう。


 魂の光輝(イルミネーション) 霊は光であり、肉体は無明である

「魂の光輝」即ち、魂が光るものになるには、
どうすれば良いかという事を説明して見たいと思います。

 魂が光る。
これを、普通は「イルミネーション」といいます。
イルミネーションを受けるか、受けないか。
イルミネーションを受けている人か、受けていない人か。
という事を理解していかねばなりません。

 イルミネーションを受けますと、
どなたでも「白光」が差すようになります。
どなたでも「後光」が差すようになります。

 皆さん方は、
なぜ、イルミネーションを受けていないかといいますと、
「霊肉一体」をならしめていないからです。
自分のことを、肉体だとしか思っていないからです。

 肉体というものは、無明です。光ではないのです。
 
 肉体は、何で出来ているかといいますと、「水の質料」といいまして、
この水溶質、即ち、水の質料で人間という肉体は出来るのです。
肉体自らは質料ですから無明です。

 それが光るものになるには、何が必要かといいますと「霊」が必要です。
霊は何かといいますと「光」です。「霊光」といいまして、霊は光です。

 肉体が光を受け入れた時、肉体と霊が一体となった時、この者は光となるのです。これを「光明」といいます。

 私は人間だ・・・・・。 私は肉体だ・・・・・。と思っている人からは後光は出ないのです。無明のままです。

 ですから、この地上界の事を「無明界」といいます。物質主義です。
(霊なんかあるものか)と、肉体が霊を拒むという事は、光を拒んでいるのです。
 
 この霊肉のバランス。この霊肉一体がなされた時、この者は光となりますが、「私は人間だ・・・・・」「私は肉体だ・・・・・」といおって、
「霊なんかあるものか・・・・・」ということは、闇主義です。
 これを普通「自獄(地獄)」というのです。

 霊界のことを、光明世界というのです。霊は「光明世界」です。
その霊は、力であり、光です。

 あなた方が、本当に、大霊を受け入れた時、真に力ある者となります。
その光とは、智慧でもあるわけですから、「智慧光」といいます。

 この無明である質料自らは「無」です。智慧もないし、力もないし、何もないのです。質料はあくまでも受動原理です。

 この肉体という形態の事を、器の事を、皆さんは「魂」と言っているのです。器と魂は別でしょうか。

 肉体は魂です。幽体も魂です。器なのです。
その器が光るものとなるためには、肉体が光るものとなるという事です。
これを「魂の光線」といいます。

 イエスキリストが、
「我は霊なり、我は生命なり」と言われたように、
「生命は光である」として受け入れられたのです。
 
 この大生命を受け入れるという事は、無限生命を受け入れるという事です。
「無限光」を、自分の中に迎え入れるわけです。

 そうしますと、
貴方の肉体は、魂は、どうなると思いますか。
光るものとなります。
光るものとなった時、肉という闇の原子が、光の原子に変わるのです。




FC2版の広瀬すずちゃんの横顔になる方法の記事です♪
身長を伸ばす記事も追記してみました♪



オススメスピリチュアルサイトをご紹介♪

愛の実践 神理の実践    高橋信次師   神我の記事♪
から引用させていただきました   上江洲義秀先生の記事♪
        
 高血圧にならない世界最高のお塩はこちら  すべての記事を表示



人間はなぜ神か 創造者と被造物

 皆さん方があの世に帰った時、皆さん方は何を問われると思いますか。
 神は「あなたは私に何をしてきたか」と言われるのです。
「隣人に何をして来たか」と言われるのです。
 隣人とは、神にとっては「わたし」です。神自身です。

 ですから、「あなたは、わたしを憎んで来ましたね。私に嫉妬しましたね。私を貶しましたね。私の悪口を言いましたね」と言われます。

 あなた方がそのまま、罪、汚れのままで周囲の人を憎んでいたならば、謗(そし)っていたならば、怒っていたならば、裁いていたならば、そのように問われると思います。

 悟っている人ならば、内界に還る人ならば、この形体に捉われずに、自分自身の中に神を観ると同時に、一人びとりの中に神を観のです。

 皆さん方がこの世に生を持っているのは、一つのものになるためなのです。皆さんの心には分離と差別があります。一つになっていないのです。

 そして『一つの存在である』と悟る事が一番大きな悟りです。
これを「大悟」といいますあなたの中の生命も、私の中の生命も、隣人の中の生命も一つの生命、一つの生命しか存在しないのです。

 この世に肉体を持っている者だけではありません。先にあの世に還った方々、肉体形体から離れた方々も一つの生命であるのです。

 同じ生命です。あなたの命、私の命というのは何処にもありません。その事を皆さん方は非常に理解に苦しんでいるのです。
 命は分離しているものではない。どうでしょうか。分離していると思いますか。今ならお分かりだと思います。

 この全宇宙というものは、一つの生命にあるのです。この事を「大生命」といいます。この大生命の中に、大生命という存在の中に、個別化されたその形体というものがあるだけです。いくつも形体があるわけです。

 そして、皆さん方の生命はこの大生命と一体です。この大生命から離れているものは一つも存在しない事を、皆さん方によくご理解頂きたいのです。

 幾つもあるように見えますが、皆さん方はその形体というものを見るから、「私の命だ、あなたの命だ」というのです。

 その大生命という一つの中に、皆さん方の生命があるのです。外側を見るから、目が眩んで私達は迷うのです。内を観れば一つである事が分かるのです。

内観しなさい。神の国は汝の内にあり、外に神を求むるなかれ」というのは、その事を言うのです。

 私達は見えるものによって無知にされています。例えば、私があなた達に「あなたと私は一つですよ」と言った時、あなた方は怒るはずです。

「こんな汚い顔の人と私は一体ではない」というはずです。
入れ物が違うだけで、形体が違うだけで、中身はあなたのものも私のものも、みんな同一のものです。

 世の中に、色々な着物があるようなものです。しかし、内なるものは同一のもので、皆さん方は神の分け御霊であるのです。分生命でもあるのです。

 その分生命とは、このように個別化されているが故に、個別化された生命の事を「分生命」というのです。しかし、個別化と分割とは意味が違います。

 形体の外にも神はまします。と同時に、内にも神はまします。
それは「私達は神の中にいると同時に、神は私達の中にいます」という事です。これがイエス様のお悟りであり、お釈迦様のお悟りであったのです。

 皆さん方も、最高の絶頂の悟りが得られるのです。しかし、一つの問題があります。皆さん方がここで神理の話を聞くには聞きます。

 ある人は石のように硬い土に私の神理を聞いた種を蒔こうとします。私の神理を聞いて「ああ、素晴らしい」と一時的には涙を流して喜びます。
 しかし、せっかく発芽した種も、石のように硬い土のため根を張る事が出来ず、それは枯れ果てて行きます。

 そして、またある人は雑草の中に種を落とします。神理の話を聞いたものの周囲はみんな雑草のため、その雑草の影響を受けて同じ様な雑草になってしまいます。それらの人達は、せっかくの神理の悟りというものを実らす事が出来ないのです。

 ある人は、良き土地に深く根を下ろします。これはその人の信念で、信仰で、私の説く神理を、心の奥底に根強く実らす事のできる人です。そういう人は実りのある魂となります。

 ここで私の話を聞いて、涙を流して感動をしたものの、私の元を去って行く人が一杯いるのです。
 これは石のように硬い土に植えられた神理で、一時的に感動はしたのですが根付く事無く枯れてしまい、それは何の役には立ちません。

 あるいは、神理はよく理解したつもりでいたけれど、家族達や周囲の人達がみんな迷い人であるために、そこで身動きできず、そのまま雑草と共に枯れていってしまう。

 これは雑草の中に蒔かれた霊的種といって、この事を、イエス様は麦の種蒔きの例えで言っておられます。
 私のこの話を皆さん形は聞いていますが、どれだけの人が根を下ろして、それを我がものとするか、自分のものとしてそれを生かすか。

 生かすも殺すも自分次第です。良き土地に自分の信仰を植えているか。石のように固い土地に植えているか。

 道端に植えて黒い鳥(カラス)に食べられてしまうか、雑草の中に植えて雑草の影響を受けているのか。今、皆さん方のその道は非常に険しいものですが、自らそれを開かなくてはならないのです。

 如何でしょうか。もう大体、神についてご理解頂けたでしょうか。今までのように、世の中で説かれている神々と、今聞いている神々と、どちらが正しいと思いますか。
 神棚や祭壇の中に神がいるというのは、幼稚であるか、白痴であるか、何かであるはずです。無知なるものは、神に対して罪するものなのです。

 神は私達の手よりも足よりも身近に、現実的に私達の中で働いておられるのです。その神を外に求めています。何百万もかけて神棚を作り、その中に神がおると一生懸命拝んでいる人がいます。可哀相な存在です。

 これもみんな無知の仕業です。その形体に、被造物に目が眩(くら)み神を知らない者です。ですから、今まで自分が信じて来たものを、全て放棄しなければなりません。
 それには大変な勇気を必要とします。
本物を知るためには、これまでの偽物を放棄しなければならないからです。

 神のみが生きておられます。神のみが生きておられるのであって、人間が生きているのではありません。それをよく理解して下さい。皆さん方は神以外に何かがあると思っているのです。何もないのです。

 神は無限です。神の他になにかがあるならば、神は無限にはなりません
無限の中に別のものが存在すると思いますか。無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。

 無限であり、普遍であるというものの中に不完全はあり得ますか。神の他に何かがあるというならば、それは人間の心の迷いが造り出したものなのです。それを「不完全なもの」というのです。

 私達はまだそういう神理的なものに、目覚めていないのです。それに目覚めなくてはならないのです。

〈な〜るほど。よく考えてみると神からの分離はありえない。なぜなら神は無限であるといわれるし、その無限の中に私達は存在するのだ。
 その事が達は神の中に生きているという事になる。そうすると神のみが生きているという事になるのだ〉と。

 神の他には何も存在しない。そのことを神一元といいます。光一元ともいいます。

 お釈迦様は「宇宙即我」と言われました。宇宙即我というのは「宇宙は私であった」という事です。なぜならば、大生命という宇宙の中にあなたは存在するのです。そして、全体としてのあなたであるのです。

全体はあなたであり、あなたは全体の中で生きている」。その全体が大宇宙であるのです。その宇宙はあなたであると同時に、あなたは宇宙の中の存在であり、その中の生命であるのです。
 ですから、皆さん方も「宇宙即我」なのです。

 何処を見ても、何を見ても神しかありません。神は天をお造りになり、地球をお造りになり、その中に住む動物、鉱物、植物、そして人間をお造りになったのです。人間も動物、鉱物、植物の全て、あらゆるものは神に被造物に過ぎません。その中に、神ご自身が命として宿っておられるのです。

 ですから皆さん方は、やたらに生き物を殺せないはずです。殺してはならないのです。それは神の宮を破壊することになります。
 命は破壊する事が出来ません。しかし、被造物である宮という、この世に現れる使命を果たさんがための形体は、崩す事が出来るのです。

 イエス様は十字架にかけられても、この形体は破壊できても、命は破壊出来ませんでした。すぐ復活されたのです。3日で甦られたのです。

 イエス様は偉大なる方でしたので、肉体までも復活して甦られたのです。イエス様が如何に偉大なる人物であるかという事は、創造者と被造物の関係を、すべてお悟りになられた方であった事で分かるのです。

 肉体を持った人間だけが、この大生命の中にいるのではありません。肉体を離れた皆さん方の身内の方は、幽体をまとったという形体だけが違うのであって、一つの大生命の中におられるのです。
  だから身内の方々は「私は肉体を離れても、もっともっと身近にあなたと共にいるのですよ」と言われるのです。

 なぜならば、この三次元にいるときには、どうしても三次元という肉体の束縛を受け、飛行機に乗らなくてはならない、自動車に乗らなくてはならないのですが、
 しかし、この世を去った方々は、飛行機も乗り物も何も必要としません。ご自分が行きたいと思った所に、即、いつでも、何処でも、自由に行くことが出来るのです。

 そして皆さん方は、その方々からいつでもご守護、ご加護を頂けます。ご指導頂けるのです。だから「私は生きていた時よりも、もっと身近に皆さん方のそばにいます」と言われるのです。

 イエス様は二千年前にお亡くなりになりましたが、現実にイエス様の御名(みな)を語れば、即、そこに救いとして現れると言われているはずです。

「キリストの御名において」と唱えておられるはずです。皆さん方はいつでも、イエス様のキリストの救いを受けることが出来るのです。あるいは、お釈迦様を念ずる者は、色々と仏陀のご加護を受ける事が出来るのです。

 しかし、皆さん方に一番大事なことは、その創造者と被造物との関係をよく理解する事です。悟ることです。

 必ず、その造られたものの中には、神がおられる事を絶対に忘れてはなりません。花一輪の中にも、小鳥一羽の中にも、どんなものの中にも、その形体を神が創造されて、その形体の中に神が宿っておられるのです。その事を、皆さん形に強く申し上げたいのです。

 これを本当に、心からそれを信じ、心から信仰出来た時、皆さん方はどういう気持になると思いますか。これこそ天界というものです。

 自分の心の中に邪気が残ってない。愛しか残っていない。慈悲しか残っていない。これを「仏の心」というのです。「神の心」というのです。
 その時は、もうすでに皆さん方は久遠の生命を得ています。生死をさまよう事はありません。

 外界というものに、束縛されてはならないのです。この世の制限から、束縛から、皆さん方は開放されなくてはなりません。その無知が、そこに捉らわれる無知が、制約を受け束縛を受けるのです。

 皆さん方を苦しめているのは、この制約、束縛なのです。これを主体性として捉えることによって、苦しみを得ているのです。

 主人であり、支配者である本物は内におられます。偽物の写しである外なる形を、私達は偽我といっているのです。偽物の我、実相の我、神我そのものの我。その区別が皆さん方には出来ていないのです。

 これが理解できた時、「もう何ものも私を束縛する事はない。それは私の中にまします神が全ての支配者であった。この支配者は内なる神の現れであられた」と、自覚できる様になるのです。
 しかし皆さん方は、まだまだ古い習慣性を持っていますので、なかなかそこを理解しようとはしないのです。

 その自覚を瞑想を通して〈この私の肉体は神がお造りになって、この私の中に神が宿っていらっしゃるのだ。

 イエス様が「人間は生ける神の宮である」と言われたのはその意味だったんだ〉と悟る事が出来た時、もう憎むものがない。怒るものがない。喧嘩をするものがない。それを理解していない間は、皆さん方はまだまだ生死の苦しい、浮き沈みの激しい奴隷化を、束縛を受けています。

 これに捉われている人間は、生きているようで死人です。だから、私は「この世の中で本質的に生きている人間を見た事がない」というのは、その意味なのです。

 インドのサイババさんは、こういう事の形体の全てをお悟りになり、その法則をご理解されていますので、神の化身と言われているのです。
「自分は神の化身である」と、ご自身が言っておられるのです。

 あなた方もそれが分かれば、「私も神の現れであった」「神の化身であった」というはずです。そうじゃありませんか。
 本質的において、皆さん方とサイババさんと何が変わりますか。それを知っているか、知っていないかだけなのです。

 皆さん方も神の化身です。ただ〈化身ではない〉と思っているのは、外なる形体に目が眩まされているだけなのです。

 外なるものと内なるものとの理解が出来るようになります皆さん方はもう救われています。このことは非常に大切な事なのですが、皆さん方は、今ここで解放されるか、そのままその外なるものの被造物に捉われて、それの奴隷下に置かれるか。束縛下に置かれるか。ということです。

 支配者は内にまします。しかし、私達は、今、外なるものの形の支配下に置かれているのです。これを物質の奴隷化といい、物質の奴隷にされているのです。

 この世の如何なるものも、私を妨げる事は出来ません。
「私はこの世の妨げを受けない」という事は、この被造物である形体は、この創造主が全てを支配し、創造主が神である事を私は知っているからです。

 その創造主が、全知全能の神が、自らの中にも宿っておられる事も私は知っているからです。だから、私はこの世のものの支配者なのです。この世を克服した者なのです。

 イエス様もそう言われたのです。しかし、皆さん方はまだまだ克服していません。形や姿に捉われています。この世の敗北者です。

 真の勇者というのは、被造物をすべて自分の内面(神我)によって支配させた時、形あるものの価値観というものを知っています。朽ち果てるものである事も知っています。

 色褪せるものであり、変化してやまないものがこの形体なのです。だから、皆さん方の形体は、どんなにあなたが若くありたいと思っても年をとって行きます。その年を取っていく我を、皆さんは見つめているのです。

 あなたに年を取らない我がいるのです。これを何かといいますと、創造者であられるあなた自身の命そのものの事です。

 本質においては年を取りません。あなたの着物が古びていくようなものです。あなた方は、自分の着けている着物が古くなったら「私は年を取った」

と言いますが、着物が年を取ったのであって、あなた自身が年を取ったのではありません。着物が古くなったのであって、あなた自身が古くなったのではないのです。

 肉体というものは、丁度(ちょうど)、着物が古くなると脱ぎ捨てる様なものです。肉体が着物ですから、着物は永遠ではありません。
 肉体をいう衣装、即ち、神現す衣装も、古くなると脱ぎ捨てるのです。命という中身が永遠なのです。

 皆さん方には「久遠の生命」をよく理解して頂きたいのです。一番の問題は、創造者と被造物の関係をよく理解する事です。信念において、本当に心の底から理解した時、もうあなたはこの世で悪口を言わないはずです。

 言っていたならば迷いです。分かっていないからです。悟っていないからです。 皆さん方が周囲の人の悪口を言うならば、あなたはまだまだ本質的には無知です。自分自身が死人であり、無知であり、迷いである事を知らなくてはなりません。

 よくよく考えてみて下さい。これは一度聞くだけでは分かりませんので、常に瞑想(内観・全てに神を観るを)し、軽く目を閉じて、

〈この肉体は神がお造りになって、神がここに中に宿っておられる。そうなれば人様はみんなそう(神・大愛)なんだ。周囲の者、生きとし生けるものみんなそう(神)なん

と分かるようになった時、皆さん方はものを正しく観ている事になるのです。これが八正道の「正しく観る」「正しく思う」「正しく語る」というものです。

 今、皆さんの五感の目というものは、正しくものを観ていないのです。形体しか見ないからです。皆さんは中身を観る事は出来ません。

 外なる見るという事は、この「見る」です。内なるものは「観ずる」事です。それがこの「観る」というものです。「見る」と「観る」とでは全然違います。

 皆さん方は「みる」といえば形を見るものと思っています。「観る」というのは「観ずる」事ですから、この「見る」というのは形体を見て、迷いの五感で見ているのです。
 しかし、これはあなた方の心の目で観るのです。皆さんはよく、みる、みる、と言いますが、この「見る」事だと思っている人が多いのです。

「見る」と「観る」というように、「みる」というものが二通りあります。
『観る』これを心眼、あるいは、意識の目といいます。軽く目を閉じて何かを想うと、その想ったものが観えて来ませんか。心の目で観えるはずです。

 あるいは、宇宙を観る事も出来るのです。その観るがこれなのです。目を閉じていても観えるはずです。それは心が観ているのです。意識が観ているのです。

 皆さん方は「みる」といったらすぐ形に捉われて、この見るを考えるのです。形を見ると思っているのです。それは大きな間違いです。そこをよく考えて頂きたいのです。

 私達は目を閉じていても色々なものが観えます。心で想っている通りそれが観えます。例えば、昔どこか遠くに行った時の場所も観えます。遠く離れた人の顔も観えます。心で想ったものが観えるのです。

 しかし、五感の目では、遠くの場所や遠く離れた人の顔は見る事は出来ません。目を閉じていても心の目はみんな観えるのです。だから、この五感の目は如何に近目であり、何も分からない無知の存在であるかが分かるのです。

 心の目、意識の目は自由です。心の目で意識の目でものを観るならば、色々なものが観えるのです。そして、意識の目がそこ(大生命・大愛・神我)に向いた時、皆さん方は現実にそこに行って観ているのです。それがはっきり分かるようになります。

 今は、皆さん方はそこまでいっていません。なぜならば、本物が、自分と創造主の関係さえ分かっていないからです。
 皆さん方は目を閉じて瞑想をしている時、色々なものを観ているのです。その事についても、もう大体お分かりになったでしょう。

 皆さん方に私が強く申し上げたいのは、神と造られたものとの関係です。その形あるものはみんな神が造られたものであって、我々人間が造ったものは何一つ無いという事です。

 何度も申し上げていますが、働き手も神であるのです。皆さん方は自分が働いていると思っているのです。あなたが働けますか。あなた自らは一切[無]なのです。肉体は働かないのです。

 働いているのは、あなたの内なる神があなたの中で働いているのです。生きているのも神のみが生きているのであって、働いているのも神のみが働いているのです。

 私がこうして皆さんの前でお話ししているのも、私という知花が働いて話をしているのではありません。私の中に、働き手である神、生命そのものがあればこそ、私はこうして皆さんの前で働く事が出来るのです。

 あなた自らは無です。あなた自らは何も成し得ることは出来ません。あなたに命という神の活動源がなければあなたは働けますか。あなたの働きは誰が働いていると思いますか。それがあなたの中の神です。

 ですから、皆さん方は自分が仕事をしたとか、何かをしたとか思っていますがそれは錯覚です。あなたは自分では何も出来ないのです。でも、みんな出来ると思っているのです。そこに非常に問題があるのです。

 もう一度申し上げます。あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは本当に現実的に仕事が出来ますか。しかし、皆さん方は出来ると思っています。それが問題なのです。

 あなたの中に神がいなくて、生命という神がいなくて、あなたは現実の仕事が出来るでしょうか。その働き手が神なのです。その神が仕事をしているのです。

 それが分かった時、皆さん方は無我の境地となります。
私は自らは無であって、私の中で神が働き給う。なるほど、中で働き給う働き手は神であったのだ〉と、この事が分かると謙虚になります。

 もう威張らないのです。なぜなら威張るものがないのです。自らに威張れるでしょうか。自分が働いていないのに、「私がやった」というのは盗人です。謙虚な気持ちがないからです。

 神を知らない人が威張るのです。自分が造ったものもなければ、自分がやったというものもないのです。みんな神が働いておられるのです。

 そうなりますと、あなたは何を威張るのですか。あなたの中に神が働かなかったら、あなたは何が出来ますか。その働き手は神なのです

 今、世の中で威張っている人は、神を知らない、真の自分を知らない人です。神がどの様にして自分の中で生きておられるのか、働いておられるのかが分からないのです。いかに世の中が無知であるかが分かります。

 今、如何に自分が無知であるか、実相において無知であるかが分かります。それはみんな形体を、その形である被造物を物差しとして考えているからです。だから、皆さん方は「私がやった。私が造った。私のものだ」というのです。

 完全なる神を、皆さん方は蔑(ないがし)ろにしているからです。神をそっちのけにしています。
内なるものを皆さん方は自覚しておりません。内なるものこそが本物であって、外なるものはその道具にしか過ぎない、写しにしか過ぎないのです。

 皆さん方の子供を造るのも神がお造りになるのであって、お母さんが子供を作るのではありません。お母さんが子供を造れたなら大変な事です。

 お母さんが子供を造るのではない、お母さんの中に宿っている神が子供を造るのです。命が生命を造るのです。
 それを「これは私の子供です。私が造って、私が産んだ子供です」というならば、それは無知であるという事です。

 本物を観ていないのです。形でものを判断して、被造物でものを判断して、外なる目でものを見ているのです。それは大きな間違いです。

 本物を観ることです。真の我(神我)を知ることです。それには、日常生活の中で本物の観方(みかた)を訓練しなくてはなりません。それを訓練して、いつも自分に言い聞かせるのです。

創造主が私の中におられて、私の肉体は被造物であって、その中に神はおられる〉と。
 神がおられるのです。神が自分の中におられるのなら、人様の中にも神はおられるのです。だから人様を神とみなし、見えるものの中に、全て神が宿っている事を知るようになったら、感謝と、喜びと、分かち合いと、助け合いになるのです。
 
 今、助け合えないのはなぜでしょうか。それは形に目が眩んでしまっているからです。ご理解いただけたでしょうか。

 今日から皆さんの心は晴れると思います。清くなると思います。それは、憎むものがないからです。謗(そし)るものがないからです。怒るものがないからです。その対象物がないからです。怒りようがないのです。

 それを知ったならば怒れますか。奪い合いも出来ません。なぜなら、人から奪う事は神から奪う事になります。
 だから、人を嫉妬する事は神を嫉妬する事になるのです。

 私がいつも言う「迷っている人間の言葉に迷わされてはならない。迷っている姿に迷わされてはならない」とは、その事なのです。

 その彼等は本質から離れた迷い人であって、本来の姿を現しているのではないのです。
 だから「闇の中にいて闇に染まらない我であれ」というのです。その闇に染まる人間というのは、雑草の中に生えている霊的種であるのです。

 周囲が闇で、迷い人で、この創造物に目が眩み、形に目が眩んでいるものが自分の家族の中に多くいるとすると、あなたは雑草の中に蒔かれた種のようなものです。

 だが、この影響を受けないように、力強く芽を吹き出す事が大切です。周囲が如何に迷い人で雑草であっても、その影響を受けない力強い根強い信仰が大切です。

 家族の者が勉強している同士であれば、周囲に雑草がありませんから非常にやり易いことはやり易いものです。実りが大きいのです。

 実を三十に付ける者、五十付ける者、八十付ける者、百付ける者、実り多きあなた方はその環境によっても十分影響を受ける事も分かります。
 しかしたとえ家族の者が迷い人で雑草であったとしても、それを乗り切らなくてはならないのです。

 これからは、皆さん方の目は、正しくものを観る事が出来ると思うのです。今までは正しくものを観ていなかった事に、反省出来るでしょうか。

〈無知の目で、五感の目でものを見ていたのだな。形でものを見ていたのだな。内面の心(全てに神を観る見方)でものを観ていなかったのだな〉という事が分かると思います。

 正しく観る(全てに大愛を観る)ということは、五感の感化(外)にあるのではありません。正しく観る(神一元・愛一元・光一元というのは、私達の神我の中にあるのです。

 この神理を皆さん方に見せる事は出来ません。神理は皆さん方が悟るしかないのです。感じるしかないのです。それ以外に方法はありません。
 是非、1日も早く皆さん方が、正しくものを観たり感じたりする事が出来ます事を、お祈り致します。
愛の実践 神理の実践    高橋信次師   神我の記事♪
から引用させていただきました   上江洲義秀先生の記事♪
           
 高血圧にならない世界最高のお塩はこちら  すべての記事を表示


まえがき 井戸敦

 この初めの文章は、イエス様から神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達として、文中にある「この同胞」と称されている著書を用いられ、イエス様が直接語られた講話の一部を引用したものです

…………一つの心から他の心、一つの意識から他の意識への直接交感通信というものがあります。離れた所から甲が乙に話しているのと聞くために、あなた達の世界で用いている仕掛けと、ちょうど同じ様な直接の通信方法があります。

 此処でも同じ事です。上(霊界)にある通りに、下(現界)でもその通りになります。一つの心から他の心への直接交感通信があるのです。そういう仕事にたずさわる為に訓練された心は、私の与える想念を表現するのです。

 この同胞(きょうだい)の意識がはかなき感官を超え、肉体の感官を超えて、内界の意識にまで高揚されているのに注目されるがよろしいでしょう。

 彼の意識は私の意識に繋がれ、それから脳や肉体を音響版の様に使って、彼の肉体に移し戻されるのです。この過程が進行している間中、

 彼は事の推移一切を意識していますが、私の神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達が終わると、それまでの出来事一切についての意識を失い、彼の背後に仕掛けられたテープ・レコーダーで改めて聞き直して、初めて分かるようになるのです。

 もし、この同胞が瞑想し、静かに坐って彼自身の意識の内界に再び入るならば、一切がそこに刻印されているのを発見するでしょう。
 そして、私が伝えたものを全部再現出来るのです。この連続講話の後、彼は再び今以上に真理示顕の大いなる器となるのですが、それはこのためなのです。

 彼はこの目的のために、ヒマラヤ山中において訓練を受けて来ました。時としては七日間、またそれ以上に飲食さえせず、より高き波動が受けられるようにまで、完全なる瞑想に入ったりしたのです。そのお陰で、我々は彼を今日まで世界中で用いて来たし、今後も世界各地で用いるでありましょう。

 あなた達はそういう事を知るべきなのです。その故に、私はこの話をしているのです。
 何時か我々は彼をあなた達の視界から、我々の御霊(みたま)の中に世界に連れ去るでありましょう。

 そして彼は其処(そこ)から目には見えない姿のままで、あなた達の中で働くことでしょう。
 我々は今日まで彼を若々しくして、強く、逞しく生かしてきたし、今後も彼が地上に居る限りそうし続けるでしょう。

M・マクドナルドペイン著『心身の神癒』−主、再び語り給う−より



全ての中に神を観る時が来るであろう』と、イエス様の二千年前の予言が、今というこのときに、本書著者[知花敏彦師]を通じて成されようとしています。
 そのために「知花敏彦師]は、天の使命を果たされるるべく、父なる神の御使い(大天使)として、キリストの再臨として、神の道を示しに、そして愛の火を灯しに、この世に出てこられたのです。

 イエス様は現在[知花敏彦師]を用いられ、神憑り(オーバーシャドウ)による想念伝達にて多くお講話をされておられます。


愛は天と地の架け橋Ⅰ⇐リンク先でイエス様のご講話が見れます♪

 
 その中でも昭和63年8月に行われた沖縄の講話『愛は天と地の懸け橋』が、平成七年に出版化され、広く世の人々に愛読されています事は、すでにご承知の皆さん方も多いと思います。

 そして清里で毎年行われる12月25日を中心とした[クリスマス・セミナー]の時などにも、イエス様は[知花敏彦師]を通じ何度も講話をされておられるのです。

 その時(私達の目では直接見る事が出来ませんが)、イエス様は光を超えたお姿で、一緒にお見えになられた大勢の天使方と共に、セミナー参加者の間を回られ、愛と癒しのエネルギーをお与え下さっているのです。
 この様にイエス様と共に知花師は、世の中に神の道(宇宙神理)を、愛の道をお示しになっておられるのです。

 今ここで、イエス様が[知花敏彦師]の事を語られるならば
[私の思想をあなた達に伝える手段として、今私が用いているこの同胞(知花師)をあなた達がどんなに愛しておられることか、
 それが私にはよく分かるのです。私もあなた達と同じ様に彼を心から愛しているからです」と、その様に申されるはずです。

 本書は、その著者[知花師]が御霊(みたま)より語られた御言葉を文字化したものです。その神理が誰にでも分かり、誰にでも理解できるようにと解き明かされているのです。

 しかし、今までのそれらの類とする書は、専門用語が多く用いられており、それを極めなければ理解しにくいものでした。
 理解の出来ない専門用語とは、一般的に馴染みのない文章が多く用いられておればよいというものでもありません。

 どんなに神理が説き明かされているものでも、それが読めなければ、理解できなければ何にもならないのです。宝の持ち腐れにしかなりません。

神理の言葉や文字は、大いなる値の真珠を内に秘めている貝の殻にすぎない」というイエス様の御言葉があります。

 書物や文字などはそれ自体としては何の価値もないという事を申されているのですが、しかし、自分が神理を悟ろうとする手段として、その目的を持ってこの書を用いた時、初めてそれに価値が生ずるのです。
 その文字の背後にある神の力が、悟りの程度によって私達の中で働くようになるのです。

 従って本書を読まれる時、本書にある言葉を用いて、知恵と力を高める事が出来るのです。そしてその知恵と力は自分自身を救うものになり、ひいてはそれが世を救う事につながって行くのです。

 それだけに、これらの書は誰読んでも分り易く、理解し易いように説き明かされていなければならないのです。

 ですから、著書[知花敏彦師]は、親鳥が雛(ひな)を羽の下に抱きかかえるように、親鳥が消化し易くしてから雛に餌を与えるように、その愛の想いで、優しく、分かり易く、丁寧に、ある時は強烈に、

しかしそれは蜜より甘く、全ての人が全ての中に神を観ることが出来るようにと話されているのです。その講話はもうすでに、八千話以上を超えた膨大なものになっています。

 いつか著者は「皆さん方に神理を説明する事は、盲目の人に色を説明しようとする事に似ています」と話された事がありました。

 この世で何人たりとも神を見る事は出来ません。その目では見る事の出来ない神を、著者は繰り返し説明する事によって、神理をこの世の人々に与えて下さっているのです。

 そしてこの神理をこれまでに幾度となく、今では八千話以上に及んで、繰り返し繰り返し解き明かして来られたため、世の人々はようやくそれを理解出来るようになって来たのです。

 その事を、イエス様は「理は繰り返しによってのみ、心の中に根付き、成長し、成熟するものです」と申されています。

世の人々に神理を理解して頂くには多くの繰り返しが必要なのです」と、著者はそれらの言葉を注意深く、全ての人が学習できるようにと、
 それらの言葉によってその神髄(しんずい)が分かってもられるようにと語られておられるのです。

「神理を語るには、神理を知っていない限り、本物の自分を知っていない限り、本物の神理を語ることは出来ないのです」と、著者は自らをそう語っておられます。

外なるものは裡(うち)なるものと成り、裡(うち)なるものは外なるものと成る』と、それを成し得ておられる本物の指導と、それを成し得る事の出来ない偽者の指導者との違いはそこにあると思います。

 ですから、静かな時間にこれを読んで吸収し〈自分はなぜ神なのか〉〈自分はなぜ愛なのか〉と瞑想し、その答えを内に求め、出てきた答えを自分のものとした時に、神理を自分のものとする事が出来るのです。

 そして、それらを肉体の五官を超えて高める事により、今までに持ったことのない力と悟りが得られる様になるのです。

 その知花師より語られる神の御言葉を、完全なる神理を文字に化し給うことを『文化』というのではないかと。
 その文字化した、完全無欠なる神理こそが光明を放ち給う事を『文明』というのではないかと。

 その完全なる神理の値を秘めた光明なる書こそが、人類を救済し給う事を『経済』というのではないかと。
 文化、文明、経済と、それらのすべてを兼ね備えた書こそが、本物の『聖なる書』というのではないかと。
 それが故に、この書ことが「現代の聖書」だと言えるのではないかと考えています。

 冒頭に、イエス様の講話の一部を引用させて頂きました。
その中でイエス様は「あなた達はそういう事を知るべきである。その故に私はこの話をしているのである」と申されておりますように、本書著者[知花敏彦師]はどのような方であるか。

 どのような目的を持たれてこの世に存在されている方であるか。
その事をより多くの人々に知って頂きたいが為にイエス様の講話を用いさせて戴いたのです。

 これを知ると知らないとでは、この書を読もうとする心構えが違ってくると思います。つまり、自分の心の扉を開けて読む事が出来るか出来ないか。

 神理を汲み取る心の器を前に出す事が出来るか出来ないか。というように、ただ単に興味本位に読まれるものではなくて、そこに著者の御本性を知って頂きたいという願いがあるのです。

 そして今というこの時こそ[知花敏彦師]の御本性(ごほんせい)をお伝えする事の最も重要な時期であると考え、どうしてもこの事実を世の人々にお伝えしたいという、その強い想いの中で、本書の編集に携(たずさ)わせて戴きました。

あなた達が神に一歩近付けば、神はあなた達に百歩近付いて下さるであろう」という御言葉の如く、私達が神に近付くならば、著者はいたくお喜びになり私達に百歩近付いて下さるのです。

 それが本書著者[知花敏彦師]の御本性であられるのです。どうかそれらの意味を御理解の上、本書の内容をご自分のものにすべくお読み下いますならば、編者としましてもこの上もない喜びに存じます。


人間はなぜ神か
創造者と被造物

 創造者とは神のことです。その神が天と地を創造されました。そして、この地上界に色々の形体、形あるものをお造りになられました。

 神の事を創造主ともいいます。神は唯一無二の造り主です。そして私達の造り主は神です。造り主が神であるという事は、私達の親が神であるという事になります。

 色々な目に見える形体、創造物で、人間が造ったものは何一つありません。しかし人間は、その形体である創造物に目が眩んでしまって、本質的な神を見失っているのです。

 今、ほとんどの人は、物質の奴隷化といって、その形体だけは認識していますが、それをお造りになった方はどなたであるか、という事を知らないのです。そのために、私達は神から遠ざかっているのです。

 この私、知花という肉体創造物があります。その創造物の中に、必ず神ご自身の命、神ご自身が宿っておられるのです。
 そうなると、肉体という形体が私達なのか、中身が私達なのかということです。ですから、今、我を忘れているのです。

 私達、真の我というのは、外なるものではなくて内なるものですが、みんな外なるものを見て、評価して、判断して、日常生活をしているのです。

 真の我の世界の事を内界、神の世界といい、この世の世界の事を外界といいます。今、人間というものは、殆ど外を生きていて、内には生きていないのです。

 皆さん方は「あなたは何ですか」と問われた時、「自分は人間である」と答えます。全ての生きとし生けるものの中に、神ご自身が生きている事を忘れているのです。
 
 人間は、内の事はあまり分かっておらず、外(自我・分離意識)だけに生きて、外側の形体に目が眩んでしまっているのです。それが人間の対立です。憎しみです。怒りです。それは分離と差別です。形体はみんな形が違います。中身を観なくて、形で評価してしまっているのです。

 知花という入れ物があり、皆さん方という入れ物があります。形態が違うだけで、中身は、根源は一つで神(大愛・大生命)であるのです

 その創造者の命を、分霊、分魂(ぶんこん)、あるいは、分け御霊(みたま)というのを、皆さん方はみんな持っているのです。神そのもの、力と知恵が内蔵されているのです。
しかし、皆さん方は外に生きるがために、無知と迷いに生きているのです。

 この世のことを、この外界のことを「生死の世界」といいます。
ここに《人間は死ぬものだ》という迷いがあるのです。私達は肉体だ人間だといって、真の自分を知らない間は、死の世界に生きているのです。

 この三次元というのは生死の世界です。内界という神界、神の世界は久遠(くおん)の生命のことです。久遠の生命と得るという事は、自分の常在である常にあるもの、自分の本質なるもの、創造者と被造物との関係を知り、それを自覚している人は、久遠の生命を得て、内界に生きています。

 しかし、世の人々は外に生きて、内なる本質的には死んでいるのです。世の中には、死人がゴロゴロしています。その意味がお分かりでしょうか。

 死人なのです。みんな死を信じています。死ぬと思っているのです。これは、私達の無知、迷いからくるもので、被造物であるものに、形体でものを判断している無知から生じています。

 この血や肉というのは、神によって造られたものですが、色褪せるものであり、朽ち果てるものです。

 しかし、私達の内なるものは久遠なるものなのに、自分が久遠なるものなのに、なぜ自分が久遠の存在で本質的なものであることを認めないで、
外なる影を我だと思っているのでしょうか。この被造物の形体を、我といっている事を自我というのです。

 我は創造者なり。我は生命なり。我は神なり。と、皆さん方の中に真実なる我、神我そのものが実在しています。
神我』これを[キリスト]と仮名付けします。あるいは[]とも仮名付けします。これが皆さん方の本質であり、真実のあなた方なのです。

 神我は内なるものに存在して、外なるものはその現れにしか過ぎません。外なるものは着物のようなもの、衣装のようなものですが、その衣装に目が眩んでいるのです。

 その衣装が破けて、その中から創造主が離れて行く事を「死」というのです。被造物というのは、この三次元に現れるための衣装に過ぎないのです。ですから、この世の形体だけを見て判断している人は、死があると思っているのです。

 死は存在いたしません。この内界というのは、久遠の生命で死のない存在です。ですから、今、皆さん方がこの世の死の世界から、命の世界、生命の世界に生まれ変わらなければならないのですが、
 数世紀に渡って、何回も何回も、幽界と死の世界という三次元に行き来して、生死をさまよっているのです。輪廻転生事です。

 これを迷える霊というのです。皆さん方は、今、現実に迷える霊です。死の世界に生きています。この三次元は死の世界です。

 内界という生命の世界は、生の世界です。久遠なる世界へ、私達もいつかは還らければならないのです。これは、今世で皆さん方が悟った時に還れます。

 この世に見えるもの全ては、神のお造りになったものであって、人間が造ったものは何一つ存在しない事を知るべきです。
 目に見えないもの、見えるもの、その造られたものの中に神が存在するのです。だから、神は我が宮をご自身で造って、その中にご自身が住んでおられるのです。

 人間の手作りのお宮や、仏閣や、神棚の中に、神はおられるのではありません。それらの中に神がおるという、それを偶像礼拝者というのです。これは神を知らないものの無知が、神を弄(もてあそ)んでいる姿です。

 では、神は何処におられるのでしょうか。神は到る所におられるのです。神は自分で自分のお宮という被造物をお造りになり、その創造物の中に、ご自身を宿しておられるのです。
 
 ですから「人間は生ける神の宮なり」と、私達は生きた神を宿しているのです。小鳥という形体を神がお造りになり、その中に生命という神を宿しているのです。

 小鳥の中に神を観ることが出来ず、知ることが出来ず、自分自身の中に神を知る事が出来なければ、私達は真の我を知っていない、無知の存在であるという事です。

 今、世の中は、神に対しての想いを、観念や概念によって間違えています。皆さん方よく考えて下さい。神様は何処におられるのでしょうか。神は到るところにおられるのです。

 そうした時、自分自身の形体という肉体は、神がお造りになってその中に神が宿っておられると思った時、それが自覚できた時、自分の心はどのように変わるのでしょうか。
 そして皆さん方は、周囲の人をどのように見ることが出来るでしょうか。それは形体を見なすのではなく、その内なるものが自覚出来るようになると思います。

 そうした時、皆さん方は人が憎めるでしょうか。人を憎む事は、神を憎む事になるのです。人を謗(そし)る事は、神を謗る事になるのです。あるいは、被造物を汚す事は、神の宮を汚す事になるのです。

 私達は、今、真の神というものを理解していないのです。それは世の迷いの指導者が、間違って神を説くようになったからです。

 お仏壇の中に神がいると言ってみたり、神棚の中に神がいると言ってみたり、様々な形体を人間の無知が造り出し、そこに商売的な神を造り上げているのです。
 どうでしょうか。皆さん方だったら、私の言っている本物の神と、今、宗教的に言っている神と、どちらの神が事実だと思いますか。

 この地球は、誰によって造られていると思いますか。この地上界は、誰によって造られ、誰によって存続されていると思いますか。

 いろいろな形体が、この世には造り出されています。ですから「神は一神であると同時に多身系である。一柱の神であると同時に多身である」と。

 この事を「神は一(いつ)にして多身」というのです。それは一なる神が多なるものをお造りになり、そのお造りになった多なるものの中に、一なる神ご自身が宿っておられるという事です。

 一つの神、一つの創造主しか存在しませんが、世の無知は「我々の神が」とか「あなた方の神だ」とか、真実の神を低い次元にまで引きずり下ろして、自分たちに都合の良い色々な神を造り、本物の神を分離させているのです。

 神は一神です。無限なる大宇宙には、一つの神しか存在しません。一つの神。一つの生命。一つの意識。一つの存在しかないのです

 この大宇宙というものが、神の大神殿であり大霊界です。その中に地球が存在し、惑星が存在し、ありとあらゆる形体被造物が存在するのです。そのありとあらゆる創造物の中に、必ず、神ご自身が宿っておられるのです。

 花一輪の中にも、神ご自身が宿っているのです。この一輪の花。神がその花という創造物をお造りになって、その花の命として、その中に神は宿っておられるのです。これを精霊と呼んでいます。

 この花の中に生命が宿っています。花は生きています。これが生き神様です。神は死に神様ではありません。
 色々な宗教家が考えている様な神ではありません。神は現実的に生きて、活動して、実際的です。そして、現実的であるのです

 この花に、こんな綺麗な色鮮やかなものを発揮しているのは、この花の中で働いているのは、誰でしょうか。それが神様なのです。

 あなたの中で働いているのは誰でしょうか。それは神様です。あなた自身の中に生きているのは神であって、あなたが生きているのではありません。

 しかし、あなた方は自分が生きていると思っています。神があなたの中で生きているのです。神があなたの中に生きていなかったら、あなたはこの世に存在する事は出来ないのです。

私の中に神のみが生きておられ、神のみが働き給うておられるのである。常に私と神とは一体である」とは、その事を言うのです。

 皆さん方は、今、真の神を知る事が出来ると思います。創造者であり創造主である神。そうすると、周囲を見てそこには何がありますか。神のみしか存在しないという事になります。

 神以外に何かがありますか。神の創造物であるその形体の全て、被造物であるその肉体全て、ありてあらゆるものを神はお造りになっているのです。
 そうしますと、その他に何がありますか。その事を「神のみの実在」というのです。

 神の他には何も存在しないのです。何かがあるというのは、私達が造り出した迷いの存在で、幻想に過ぎないのです。皆さん方は神の中にいると同時に、皆さん方にも神がいるという事を、悟らなくてはなりません。

 周囲はみんな神です。木の中にも木の精という神が生きています。岩の中にも岩の精という神が生きています。

その中で神が生きて神が息しているのです。そして皆さん方の中で息しているのは神であって、あなたではないのです。あなたが息していると思ったら大間違いです。そのあなたが〈私 私〉と思っている事を偽我というのです。

 誰れ彼が生きているのではないのです。生きているのは、神のみが生きているのです。人間が生きているのではないのです。どうですか。人間が生きていますか。今までは自分が生きていると思っていたのです。

 皆さん方の命というものは、一分一秒だって、この世で自らが伸ばすことは出来ないのです。どんなにあなたがもがこうが、どんなに医学が進もうが、あなたの命、運命というものは伸ばす事は出来ないのです。
 あなたが神の宮から離れる日は、神のみが知っておられるのです。

 人間の無知というものは、如何に伸ばそうと思っても、伸ばせるものではありません。しかし、人間は伸ばせるものだと思っていますので、それについて非常にもがきます。あれを食い、あれを飲み、何を食い、何を飲まんともがくのです。

 皆さん方〈私は神(大愛・神我)である。私(自我・偽我)がいるのではない〉と想った時、あなたは死の恐怖から開放されます

〈自分が生きているのではなくて、神が生きているのだ〉と想った時、皆さん方は「死にたくない」とか、「もっと生きたい」とか、そういう事を言うと思いますか。
 死にたくても死ねない。生きたくても生きられない。これは創造主のみが、神のみが知っておられるからです。

 私達の肉体を管理されているのも、創造主なる神なのです。
神がお造りになった肉体ですので、私達が自我で自分の肉体を働かさないで、この神の創造物である肉体を神に全託(ぜんたく)した時、皆さん方は健康になれるのです。

 あなたが肉体を造ったのではありませんから、あなたの知恵では、到底、この肉体を管理する事は出来ないのです。

 出来ないものを出来るともがいている姿。これが却(かえ)って、肉体をアンバランスにしています。恐怖と怒りと自我のために、私達の闕腋の循環をアンバランスにし、心臓に色々な動悸を与え、色々な食べ物を食べて、かえってこの肉体という神のお宮を、自らが破壊しているのです。

 そのことを、イエス様は「何を悔い何を飲まんか思い煩(わずら)う事なかれ。それよりも命の方が大切であるからである」と言われたのです。

 すべては神のご意志によって、神がお造りになったのです。皆さん方の肉体は、誰の創造物だと思いますか。あなたのお母さんでしょうか。

 お母さんのお腹から出て来たものは、「血に属するもの」といって死に属するものです。そういう方々は死の世界に存在いたします。

 命は神から来たものです。ですから、神に還るべきです。その事を、イエス様は「我は上から来たものである」と言われています。
 多くの人々は、お母さんのお腹から出てきたものだと思っています。

 命が何処から来たものであるか分からないのです。命が何であるかが分からないのです。命そのものが神なのです。

 命そのものが神であるという理解と悟りを得たならば、皆さん方は死の恐怖、病気の恐怖、全ての恐怖から解放されるのです。ですから、創造者と被造物の関係を強く理解する必要があります。

 そうした時、皆さん方の夫婦の関係も、非常に良くなります。この意味が分からないために、創造者と被造物の関係が分からないために、争ったり、憎んだり、そこに罪を犯しているのです。

 その関係が分かれば、皆さん方は罪を犯さなくなります。罪を犯さなくなりますと、その罪に報いるものがないのです。その罪に報いるものがないという事は、皆さん方は苦しまなくてもよいという事です。

 あなたの肉体は、神が造って、神が管理しています。どうでしょうか。あなたの肉体は、あなた自身が管理しているのですか。誰が管理していますか。それは神です。神が管理しておられるのです。

 神ご自身が肉体形体をお造りになって、その中に命という神が宿って、この私達の肉体を管理して下さっているのは神なのです。

 その肉体の中で目には見えませんが、私達には色々な神秘が内在しています。食べ物を食べると、血に変え、肉に変え、カルシウムを摂って骨に変え、栄養分を摂ったカスは排便として出し、また小便として流します。

 との知恵と力が皆さんの中に内在されています。その神の力が内在しているのです。それが皆さんの『我が神』です。自分自身の神です。
 それが自分自身の神(大生命・コスモ細胞・大愛)というのが『キリスト』です。『神我』というものです。

本来の自分は神であった」という自覚、悟り、信仰というものを、皆さん方が持っていたならば、皆さん方は何を怖がりましょうか。誰を憎みましょうか。

 この世の中に、憎める者が一人もいない(全ては自分・全ては神である)事を悟ったならば、あなたは人を憎めますか。

 その事が分からないから憎んでいるのです。神との関係を、自分とその隣人との関係を知らないから、憎み合ったり、謗り合ったり、罪を犯すのです。

 相手も神の現れです。神の現れですが、あなたがこの神と自分との関係、想像者と自分との関係を知らないために、悪を施しているのです。悪口を言ったり、憎んだりしている状態は、迷いの姿であって、悟りの姿ではないのです。

 その迷いによって、本性、本質を知らないその言葉遣いや行動、これを見て、また自分もこれに捉われているのです。

 皆さん方が悟ってしまえば、どんな悪口をいう人であろうが愛おしく思うはずです。〈この人は、創造者と被造物の関係を知らないで、その被造物なる肉体に目が眩んでしまって、外なる死人で可哀相な人なんだな〉と、愛を持って思ってあげればいいのです。

 肉体形体に目が眩んでいる者は、その被造物に目が眩んでいる者は死人です。生きているようで死人です。命を知らないからです。世の中の人は命知らずです。
 命が何であるかを知っている人がいないのです。そのことを「世の中の人は命知らずだ」というのです。

 命とはなんでしょうか。命とは神のことです。命が神であるならば、皆さん方は命を持っているのです。神を持っているのです。
 これを内在神、内在の神といい、皆さん方ご自身であるのです。それが皆さんの実相です。本来の姿です。

 しかし、今、世の中は外なるもののその肉体形体に、私が一番申し上げたいのは、この肉体形体に目がくらまされているのです。
 そして、肉体に目がくらまされているために、肉体の奴隷にされているのです。肉体に使われているのです。本質的に色褪せているのです。

 肉は我ではないのです。その肉をお造りになった。その肉の背後に偉大な方がおられる。それが神です。その神が、一人びとりの創造物の中に留まっていらっしゃるのです。そうした時、皆さん方は外に神を求めなくなります。

 それが分かった時、皆さん方は何処で祈りますか。何処に話しかけますか。自分自身に話しかけるはずです。
 その事を、イエス様は「神の国は汝の内にあり。外に神を求むるなかれ」と、言われているのです。

 神はあなた自身の中におられて、外におられるのではありません。勿論、外にもおられますが、神棚やそういう所におられるのではありません。

 神は「人間の手作りの中に私は住むのではない」と言っておられます。
神はご自分の住処(すみか)はご自身で創造し、その中にご自身を現しています。これが生きた神です。
 それなのに、今、世の中の人は死んだ神を拝んでいます。

 私達にとって、神に対する認識は物凄く大切な事なのです。それが分からなければ、まだまだ生死の世界をさまよわなければなりません。
 そして、この地上界からの解脱というものはあり得ません。

「神とは何か」「人間とは何か」「この世に現れている形体とは何か」と、そのことを皆さん方にはよく理解して頂きたいと思います。これが理解できて、日常生活で罪を犯さない本質的な生き方をする事が大切です。

 ですから、皆さん方の全てのものの中に神を観る事が出来た時、知る事が出来た時、この世に憎しみというものがなくなります

 憎めますか。親を憎めますか。夫婦互いに憎めますか。子供を憎めますか。子供を憎んではなりません。それらを憎むという事は、神を憎むという事です。
 なぜなら、この世に現れているものは、ありてあらゆるものが神のすべての全てであるからです。

 モーゼが神に「あなたは何処にいるのですか。何という方ですか」と尋ねた時、「私はありてあらゆるもの、全ての全てである」と答えられたのです。

 ですから、空気も神であり、雲も神であり、この世で目に見えるもの見えないもの全ては、神の現れであり、神の体、すなわち、御神体であるのです。

 それを私達が粗末にしたり、罵ったり、貶(けな)したりする事は、私達が神を貶したり傷付けているのです。もうその人は信心者ではありません。

 子供を貶してはなりません。あなたが神理を悟って、子供にこういう素晴らしい教育をすべきなのです。

「人を憎んではいけませんよ。※謗(そし)って(※悪口を言う事)はいけませんよ。怒ってはいけませんよ。嫉妬をしてはいけませんよ。なぜならば、人間とは本質的にはこういうものですよ」と、子供達に教えるべきなのです。これは知恵あるお父さんでありお母さんであるのです。

 しかし、今のお父さんお母さんは無知ですから、本質的なものは観ませんから、この肉体形体を物差しとして、想い考えて、言葉を話し、行動するのです。
 それはもうすでに、被造物の奴隷化に置かれた、その影に迷わされた無知の存在であるのです。

 今、皆さん形に強く自覚して頂きたいのは、形として見えるものと、見えないものの関係を知らなくてはならないという事です。
 皆さん方の肉体は見えますが、皆さん方の命は、どんなに医学がどんなに科学が進もうが見る事は出来ません。

 しかし、現実的に、実際的に生きています。この目に見えないものは、実相世界すなわち内界で、見えるものは影の世界です。
 霊があるから、命があるから、皆さん方の肉体があるのです。命のない人間が肉体を保持して生きられるものでしょうか。

 本質的なものは、外なるものですか。内なるものですか。内なるものがあなたから離れれば、あなたの形体である肉体は、瞬きも何もする事が出来ません。それを死人というのです。

 それは死に殻、抜け殻・だから何も意味がないから火葬場で焼かれるのです。本質的なものはあなたの内なるものです。あなた自身は内界にいるのです。そこにいるのです。この世は三次元という写しの世界です。

 だから、あなたはこの世に住んでいると思って、錯覚しています。この世に住んでいるのはあなたではありません。その写しであるのです。

 ですから、「私はあの世のものである」と私はいうのです。
私はこの世に形体を通して、このように神理を説きに参った者です。

 あなた方で〈自分はこの世の者だ〉と思っている人は、〈自分が生きている〉と思っている人は、もう死人なのです。

 皆さん方は霊的存在(神我)であって、物的存在(自我)ではないのです。この事は非常に大切な事です。うっかりすると逃してしまいます。

 そこに愛と調和が生まれるはずです。しかし、あなた方がこの形体で、この世にある写しの、自分自身の肉体を物差し(自我を自分)として生きている間は、この世に調和も何も生まれません。

 この世(自我の世界・分離意識)は対立であり、憎しみであり、嫉妬であるのです。それは形でものを判断するからです。

 私達はみんな姿・形が違います。それは器が違うだけであって、中身は同一なるものです。私のものも、あなたのものも、みんな同一のものであり、同一の分け御霊であり、一つの神の根源から派生しているものです。 
 周囲の人はみな我であり、神であるのです。
                       知花先生の記事♪

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