95歳ブログ「紫蘭の部屋」

2019年1月3日、馬齢を重ねて95歳となり、来訪者も51万名を越えました。老いの一徹であと少し頑張るつもりです。よろしく。。

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(27)明治の小学生

   (27) 「明治の小学生」 ③

  ○「川平嘉蔵さん・明治38年卒業」

イメージ 1 小学校に入学した時、教室の机には名札を付け、身体検査もあった、当時はまだ検定教科書で、修身、読み方、算術、唱歌、体操の学科があり、2学期から綴り方(作文)が加わった。筆記用具は石版に石筆だった。「読み方(国語)」は絵の上の方に「ハ、ハナ、ハト、タコ、コマ、マメ」と書いてあった。
 その頃の月謝は十銭だったが、上級生に兄や姉がいると八銭だった。

 ↑(明治42年。小学1年の読本)

 学校の始業の鐘が鳴ると、決まった場所に整列して先生を迎え、教室に入る。教室に入り先生が教檀に立たれると、級長が「起立!礼!着席」と号令をかける。授業が終われば、立って机の横に出て、左側から二列になって教室の外に出ていく。11月3日の天長節には体操場で運動会がある。かけごろ(かけっこ)、棒倒し、馬乗り合戦、玉入れ、二人三脚、集団遊戯(マスゲーム)、最後には紅白に分かれて綱引きがあり、なかなか盛大であった。

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                                            (小学校の運動会・大正12年)

 明治37年、3年生の時に全国統一の国定教科書に変わり、読本は「向うに高い杉の木が見えましょう」などと、2年生の本よりも程度が下がってしまった。(*それまでは民間で作った検定教科書)

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 同じ年7月に日露戦争が始まった。毎日授業は午前中だけで、午後は日の丸の旗を持って、夏の暑いさ中にはだしで停車場の東側に並んで出征兵士を見送った。2学期の昼休みには、日本軍とロシア軍に別れて竹の棒を持って「日本勝った、ロシヤ負けた」と言いながら、戦争ごっこをしたのを覚えている。
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           ・・・・・ 
 
 ここで、母校の中学の先輩で、明治44年に小学校の先生になった弥富さんが、母
校の記念誌にその頃の生徒の話を書いて居られるので、ちょっと覗いてみよう。
  ↑ (明治42年・国定教科書)



  ○ 「弥富忠六さん・明治41年、佐賀中学卒業」

                                            

 明治37年、日露の風雲急なる1月10日はひどい霜の朝だったが、佐賀中学校の広い運動場には徴集された軍馬があふれていて、通ることもできないほどだった。それからは毎日毎日、バンザイ、バンザイと出征軍人を駅まで見送りに行った。

 生徒は全員ハダシで小倉の木綿の制服、家に居る時は着物で、綿入れや羽織、足袋は許されず袷の着物だけで、外に出る時は必ずハカマを履くことになっていた。冬は寒くて手が凍って鉛筆を持つのに困った位であるが,不思議に風邪は引かなかった。
雨の日は下駄ではすべるので、ハダシで通ったが、年に一回ある雪中行軍では学校に用意してある草鞋を履いて歩いたものである。

イメージ 4 卒業後、明治44年に鳥栖の近郊の小学校の教員になった。ある日生徒と一緒に弁当を食べていると、先ごろ転校してきた生徒が弁当も食べずに、しくしく泣いている。後で聞いてみると、昨日粟のお粥を一度食べただけで、今日は何も食べていないという。

 家に行ってみると、村はずれの水車小屋で壁は落ち、畳は破れ、かまどの前は灰だらけで、その中に茶碗も箸も下駄までが散らかっている。生まれたばかりの赤ん坊は乳が少ないのか、母に抱かれて火のつくように泣いていて、父は持病でうめきながらそばに臥せっている・・と言うなんとも哀れな有様だった。

 私は持って居たお金を全部出して米を買わせ、お粥を炊いて食べさせた。4年生だった生徒とその弟妹はとても喜んで食べた。「人を羨まず、世を妬まず、神仏を信心すると必ず助けられるよ、又来るからね・・」と言うようなことを言って家を出たが、母親は手を合わせ、涙を流しながら見送ってくれた。


  外に出ると人通りもない安良川の田舎道には浩々と月の光が照っていた。私はその月に手を合わせ、あの哀れな家族を助けたまえ。と一心に祈った。そしてその日限りで牛乳と薬を止めた。下宿代を払った後の乏しい給料全部をこの家に奉仕することにしたのである。
 この金で恐らく米一俵ほどは買うことが出來ただろう。こうして一年ばかり援助を続けていたところ、あの家族は突然どこかへ行ってしまった。

 それから20年ほどたったある日、不思議にもこの家族と再会した。あの時生まれていた赤ん坊であった。母はあれから何度も親子心中をしようとしたが、先生の「神仏を拝めば必ず助かる・・」と言う言葉を思い出して心中を思い留まったそうで、今は昔とは雲泥の暮らしをしているとのこと。「母からはいつも先生の話を聞いて居ましたが、お会いできてこんなに嬉しい事はありません」と語ってくれた。

       ・・・・・

  *明治期の日本はまだまだ、貧しかったのである。
     それにしても昔の先生は偉かった。。 


閉じる コメント(12)

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こんにちわ!・・・日本にも このような時代も あったのですね。
本当に 涙が 流れます。今の豊かさを 当時 想像が 出来た
でしょうか?時の流れとはいえ 怖い気がします。

2016/2/10(水) 午後 4:47 タケサン 返信する

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母方の祖父が中学の校長先生でした。
母の話では、貧しい家の生徒を家によんでご飯を食べさせたり、
いろいろと面倒をみていたようです。

今はそんなことしたら逆に問題視されます。

豊かになったけど、心の豊かさは反比例しているような気がします。

2016/2/10(水) 午後 5:57 ねえね 返信する

こんばんは
胸にしみるお話しです
今の私たちには想像も出来ない事が多かったのですね

私の祖父も教員でした
もしかしたらご存知かも知れませんね

2016/2/10(水) 午後 10:26 りゅうこ 返信する

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私も小学校の先生に「まつうら、よく頑張っているな。」と褒めて貰いあの頃は珍しかったシャープ・ペンを貰った思い出があります。赤貧の如く育った私も今は様変わりでこちらで天国、天国の悠々自適な生活をしています。

2016/2/11(木) 午前 8:54 [ tomaxmie ] 返信する

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訓導とセンセー、響きが全然違います。
私にとって学校の先生は、世の中のバカらしさを
身をもって教えてくれた最初の人たちでした。

2016/2/11(木) 午前 10:26 無縛 返信する

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ついこの間まで 日本中貧しかったのですね。
子供がご飯が食べられない。 ほんと 悲惨ですね。

2016/2/11(木) 午前 10:37 花やっこ 返信する

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> タケサンさん、昔は日本も貧乏だったんですね。まだ100年くらいしかたって居ないのに、今の飽食の時代とは雲泥の開きがありますめ。

2016/2/11(木) 午後 6:22 紫蘭 返信する

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> ねえねさん、昔はこんな先生が多かったですよ。お祖父さんの様な人格者が多かったです。
家内の友達のご主人も、運動会に弁当を持ってこなかった貧しい生徒のために、自分の弁当を食べさせたそうです。
「がばいばぁさん」に登場する洋七少年がその貧しい生徒でした。

2016/2/11(木) 午後 6:29 紫蘭 返信する

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> りゅうこさん、私の義兄も教員でしたが、教え子たちには大きくなってもとても敬愛されて居ました。
お祖父さんもきっと立派な教育者だったでしょうね。
教え子たちは人生の宝です。

2016/2/11(木) 午後 6:32 紫蘭 返信する

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> tomaxmieさん、シャープペンシルを貰う位ですから、先生も特別に目を掛けて居られたのでしょう。良い先生に巡りあえて、ほんとに良かったですね。

2016/2/11(木) 午後 6:35 紫蘭 返信する

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> 無縛さん、先生が身を持って教えてくれたとは、どんなことがあったのでしょうか、やはり先生も人の身、いろんな体験をされたんでしょうね。

2016/2/11(木) 午後 6:37 紫蘭 返信する

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> 花やっこさん、子供がご飯を食べられないとは、ほんとに可哀想ですね。でも戦前はそれが現実だったんです。弁当を持ってこない子も時々いました。今の飽食の時代からは考えられないことですが。。

2016/2/11(木) 午後 6:41 紫蘭 返信する

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