95歳ブログ「紫蘭の部屋」

2019年1月3日、馬齢を重ねて95歳となり、来訪者も51万名を越えました。老いの一徹であと少し頑張るつもりです。よろしく。。

ふるさと‣佐賀の風景

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ふるさと・佐賀の大正・昭和時代の懐かしい風景を写真を交えて記事にしました。
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(68)回国の塔

      (68) 回国の塔

  〇 「回国の塔」

 今から300年ほど前の享保年間の事である。
ある年の秋、佐賀市北川副村の福万寺に仏像を背負った一人の男が一夜の宿を求めた。出迎えた老僧は男のおずおずとした態度に何か深い理由があるに違いないと思い、身の上について優しく尋ねてみた。男の名は諦賢と言ったが、実名は明かさなかった。

 「諦賢」は奥州津軽の岩木川のほとりで渡し舟をして細々と暮らしていた。ある年の5月、雨がしとしとと降り続いていた夜更けに表戸を叩く者がいた。出てみると一人の飛脚が立っていて「明日までに藩庁にぜひ届けねばならない大事な金なので、済まないが今すぐ船を出してくれ、お金は弾むから・・」と言った。その夜は雨雲が低く垂れこめて一寸先も見えない真っ暗闇だった。飛脚を乗せた小舟が川の真ん中あたりに来ると、水流が激しくなり舟は大きく揺れた。諦賢は急にむらむらと悪心がもたげて、隙を見ていきなりカイを振り上げて飛脚の頭を一撃、その場に倒れた飛脚の懐から素早く金の包みを抜き取ると、その死骸を川に投げ捨てて、何喰わぬ顔で家に帰った。

 妻が「貴方、たった今、飛脚が来たがお前さんそこで逢わなかったの?」と聞くので、諦賢は一瞬ギョッとしたが、「何を言うか、今向こう岸に渡してきたばかりだ!」と激しく叱りつけた。そのころ妻は身ごもっていて翌年男の子が生まれた。そして三年後の五月、その夜も同じように雨がシトシト降っていた。夜中に男の子に小用に起こされ、子供を連れて外に出ると子供は渡し場の方を指さして「あっち、あっち」と言う。仕方なく子供を連れて渡し場に行き小用をさせていると、子供は下からしみじみと父の顔を見上げて「父ちゃん、私が殺された三年前の晩もこんな夜だったね」と言う。
その声は殺された飛脚の声そっくりだった。

イメージ 2 一瞬、冷や水を浴びせられたような気持になった諦賢は、わが身の犯した罪の恐ろしさを知り、妻にすべてを告白して飛脚の霊を弔うために全国行脚の旅に出た。そして佐賀の福万寺に着いたのがちょうど3年目だった。諦賢はその後3ヶ月間、福万寺に逗留して「大乗妙典回国の塔」と御影石に刻んだというが、今はもうこの回国の塔のいわれを知る人も少ない。

    ↑(右の大きな石塔)


  〇佐賀の俊寛物語

 今から800年ほど前の治承元年(1177年)、京都法勝寺の執行・俊寛は同志の丹波少将成経、平康頼と共に平家打倒を企てて失敗し、3人とも薩摩の硫黄島(一名・鬼界ヶ島)に流された。翌2年に大赦令で成経と康頼は赦免されたが俊寛は許されず翌3年3月にこの島で一人淋しく死んだ。・・
この話は平家物語や謡曲、芝居などで良く知られている話である。

イメージ 1
                                                  (歌舞伎・俊寛)


イメージ 3 ところが佐賀市の森林公園近くの国道沿いに、なんと「俊寛僧徒の墓」と刻んだ石碑が立っている。そして、ここから50mほど北にある北勝寺は、開山が俊寛、開基は平教盛、本尊は伝教大師作の地蔵菩薩となっているのである。

  この北勝寺は京都の法勝寺をまねた美しい大伽藍だったそうで多くの塔頭が立ち並んだ豪華な寺院だったが、度重なる兵乱のために焼失し、今はその一部分が残っているだけであるが、俊寛の墓石には治承4年(1180年)3月23日卒となっている。

  これはどういう事なのだろうか、俊寛が鬼界が島で死んだ治承3年の翌年だから、ひょっとしたら俊寛は島を逃れて佐賀まで落ち伸びていたのだろうか。。判官びいきの源義経が生き延びて奥州の藤原氏にかくまわれたり、蒙古のジンギスカンになったという巷間の英雄伝説の一種なのであろうか。
 ↑ (俊寛僧徒の墓)
  
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  *今日は1月20日、骨正月ですね。早いものです。

       正月も二十日(はつか)になりて雑煮哉    虚子

 京阪地方では、正月に食べたブリの骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べる風習があるので、二十日正月を骨正月とも言います。
 これで正月行事はすべて終わることになります。

 アメリカの大統領も20日で新しくトランプ氏に代わりますし、ちょうど切りが良い??ので
 「ふるさと佐賀の風景」も今日で終わりにして、明日からまた新しい書庫の記事でお目にかかりましょう。



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       (67) 悲劇の女性「秀の前」

 「竜造寺隆信」は佐賀一帯の豪族から身を興し、五州二島の太守として広く北部九州を治めた高名な戦国武将だが、若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。

イメージ 2 一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。
 武勇にたけた一面、「隆信」は結婚政策を巧みにあやつった梟雄でもあった。隆信は自分の娘(妻の連れ子)「秀の前」を蓮池城主小田鎮光の嫁にやり、鎮光を安心させて置いて呼び出して暗殺した。理由は敵方の大友氏に内通したと言われているが、その際の「秀の前」の苦悩のほどが偲ばれる。

 さらに隆信を快く思っていなかった松浦党の党首「波多三河守」に秀の前を強引に押し付けて再婚させて身の安全を図った。三河守には「心月御前」という妻が居たが、隆信の強引な願いに抗しきれず、心月御前を離婚する羽目になったのである。

 「秀の前」は美人の誉高く、三河守にもよく仕えたが、朝鮮の役があった時、豊臣秀吉から秀の前に名護屋城陣屋に呼び出しの命令があった。秀の前は「夫、三河守が朝鮮に出陣して、留守を預かる身なので城を出られない」と断ったが、これは好色の秀吉が外征している諸将の妻室を狙うという噂があったためでもあった。更に秀吉の強引な誘いに、秀の前は顔を火箸で焼いて醜い恰好で,懐剣を持って参上したため、秀吉の激しい怒りを買った。
 
イメージ 3
                                  (名護屋城・復元模型) 佐賀県唐津市


 そして文禄6年(1594年)夫・三河守が帰国してくると、秀吉は三河守に陰謀があったとして領地を召し上げ、常陸の筑波山に追放してしまった。三河守の陰謀は定かではないが、そのまま許されることなく、常陸の国で没したそうである。

 妻の「秀の前」は子供の彦三郎と共に佐賀に帰ってきたが、人生の無常を悟り,髪を下ろして妙安尼と改め、佐賀・辻の堂に草堂を建てた。これが現在の「妙安寺」の始まりである。
 妙安尼は心の平安を図るために朝夕念仏を唱えていたが、燃え上がる怒りや悲哀の心に一刻も落ち着かず、ついに慶長4年(1599年)7月30日、自分ののどを懐剣で突いて自殺した。

  「秀の前」は、佐賀の歴史に残る女性の中で、最も悲劇的な女性であった。
 

  〇「李宗歓望郷碑」

 天正15年(1587年)、朝鮮の慶尚道生まれの青年・「李宗歓」は郷里の海岸で海釣りをしていたところ、暴風雨に遭い流されてはるかな日本の筑前・芦屋に漂着した。この宗歓が4年後の天正19年に大宰府天満宮に参詣し、異国の史跡に興味を持ち、熱心にメモをしていた。その時参詣していた鍋島直茂がこれを見て事情を聴き、佐賀に連れて行き、家禄を与えて空閑姓を名乗らせ、帯刀も許して厚遇した。直茂は宗歓の人物を見込んで、翌年・文禄元年(1692年)の秀吉の朝鮮出兵に備えて宗歓を利用しょうと考えていたのであった。

イメージ 1 いよいよ出陣になると宗歓は作戦本部付きとして従軍、朝鮮の地理にも詳しく、通訳としても重用されて、鍋島軍は作戦的にも大成功を収めた。然し祖国に弓を引いた宗歓は母国にとどまることが出来ず、直茂に従って佐賀に戻ってきた。

 直茂は城下町の白山町以北の荒れ地を宗歓に与えて開墾を許し、また朝鮮や唐との貿易をするご用達商の許可を与えた。宗歓は唐の織物、陶器、海産物など珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人たちも集まってきて現在の唐人町が出来た。

 明治のころの俗謡に「新町は山の口、唐人町は都、破れ寺町は糸どころ」というのがそれである。寺町は糸どころというのは、宗歓が唐から麻を取り寄せて、各家庭で麻糸の製造をしていたので「糸どころ」と言ったらしい。

   ↑(李宗歓の墓)

 宗歓はまた、朝鮮から「九山道清」という織物師を招いて更紗の製法を伝えた。これが「鍋島更紗」である。然し、宗歓は募る望郷の念に駆られて、毎日はるかな祖国・朝鮮に向かって手を合わせていたという。そのあとに残る小さな岩石が、宗歓望郷碑として唐人神社の小さい祠に安置されている。
 李宗歓は、明治元年(1655年)祖国帰国の願いも空しくこの地で没した。

    ・・・・・



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                 (66)竜造寺氏の盛衰

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(佐賀城・鯱の門    画・南窓さん)

 
 武家社会が発展した鎌倉時代には、各荘園に鎌倉幕府から地頭が任命されたが、肥前の国には高木、竜造寺、於保、八戸,河上などの豪族が現れ、これらがそれまでの荘園領主と争い起こして、領地を分け合うことが多くなった。現在、村や田んぼの名前に「荘家田」という名前が残っているのは、このとき「荘園領主」に属した分である。

イメージ 1 その後、戦国時代になると九州では各地の豪族が合戦を繰り返していたが、享保3年(1530年)に中国地方の太守「大内氏」が肥前侵攻を試みた。この戦いで竜造寺家兼・鍋島清久の肥前勢が赤熊(赤い毛皮)を頭につけて敵中に突入したので、大内勢はこの異様な赤クマに驚き敗退した。

  その後次第に竜造寺氏が肥前を統一、特に家兼の曽孫「竜造寺隆信」の時代になるとその活躍は目覚ましく、元亀元年(1570年)豊後(大分)の大友宗麟の武将・大友親貞が兵三千を率いて来襲し、佐賀が風前の灯となった時には、家老の鍋島直茂が、佐賀北郊の「今山の戦い」で手兵わずか500騎で夜襲をかけて撃退、敵の大将・大友親貞を討ち取った。この時、鍋島勢が鬼面をかぶり、鐘、太鼓を打ち鳴らして襲撃した故事が、今も「面浮立」という郷土芸能として残っている。
 
    ↑ (面浮立)

イメージ 5 これ以来、竜造寺軍は連戦連勝、天正8年(1580年)ごろには、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の五か国と壹岐、対馬の二島を加え、いわゆる五州二島の太守となり、隆信全盛時代となって佐賀の町は大いに活況を呈した。

 然しその後、肥後の隈部、赤星氏などが島津方に付き、肥前では島原の有馬氏が抵抗したので、隆信自ら有馬征伐に出陣したが、有馬氏を加勢した島津軍のために敗れ、島原の沖田畷でぬかるみに馬の足を取られてあえなく討ち死にしてしまった。
この時、家老の鍋島直茂は隆信の訃報に接して自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ柳河へと撤退した。

 そして秀吉の全国統一後は、竜造寺の勢力は家老の鍋島氏に受け継がれ、肥前の東半分、現在の佐賀県の大部分がその領地となった。鍋島の「化け猫騒動」は、化け猫の形を借りた、竜造寺氏の遺臣たちの抵抗を意味する騒動だったようである。

 徳川幕府になると、関が原では西軍に着いた鍋島氏だったが、隣藩の黒田藩のとりなしもあり、肥前の35万7千石の知行を与えられ、外様大名として佐賀藩が成立した。そこで鍋島氏は慶長13年(1608年)より佐賀城の総普請に取り掛かり、これに並行して佐賀の城下町が建設された。

                                     (佐賀城大手門・通称鯱の門)
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 佐賀城はもともと市内の水ヶ江にあった竜造寺氏の居城「村中城」のあった所(現在の県庁一帯)を拡張して築城されたが、工事はまず城濠を掘ることから始められた。幅75mという巨大な濠を四方に巡らし、その東南角に五層の天守閣を築いた。佐賀平野は有明海の沖積地で山のない平野部なので、この佐賀城は典型的な平城として「亀甲城」とか「沈み城」とか呼ばれていたが、その完成までは5年の歳月がかかった。 しかし、明治7年の江藤新平らの「佐賀の乱」で城廓も兵火に見舞われて、今はわずかに大手門の「鯱の門」が残るだけとなっているが、その頑丈な門扉には今も両軍の弾丸の跡が残っていて、往時の栄枯盛衰の跡をとどめている。

                  (佐賀城・古地図) 承応元年(1652年)
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 佐賀の城下町の建設には城の周りに侍屋敷を設け、00小路(こうじ)という名前をつけた。今でも二の丸小路、中の小路、八幡小路、横小路、緑小路、寺小路など多くの「小路」名が残っていて、竹の生け垣を備えた武家屋敷の跡が静かな住宅街を形作っている。また、武家屋敷の外側に商人町を作り、郊外にあった市場をここに移して町屋を広げ、川上川の中ほどに石井樋という堰を設けて「多布施川」という人口の河川を縦横に流し、佐賀城下の飲料水や生活用水、田畑の灌漑水に利用した。

                              (佐賀城下・かまど帳・今の戸籍簿の一例)
  子供には名前があるが、妻はただ女房とだけ記してある。男尊女卑の風潮の典型である。
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          (65) 「鍋島・猫化け騒動」
 
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 佐賀の鍋島と言えばすぐに「鍋島の化け猫騒動」を思い出すが、これは講談や芝居、映画の世界であって事実ではない。しかし「火のないところに煙は立たぬ」のたとえもあり、その火元を少し探ってみよう。

イメージ 1 戦国時代後半、大分の大友宗麟、薩摩の島津家と九州を三分する太守だった佐賀の「竜造寺隆信」は天正12年(1584年)の島原の沖田畷の戦いで島津、有馬の連合軍のためにあえなく討ち死にしてしまった。
 死後、長男の政家が家督を継いだが病弱の上に政治力にも乏しく、豊臣秀吉から隠居を命じられ、その子「高房」が成人するまで家老の「鍋島直茂」が佐賀を治めることになった。然し高房が成人しても直茂が国政を返還する気配がないので、これを悲観した高房は慶長12年(1607年)3月3日、江戸の桜田屋敷で妻を刺殺して自殺をはかり、これが原因でのちに死んでしまった。

 ↑竜造寺隆信像
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 そして高房の死後、佐賀ではさまざまな怪事件が起こった。高房の家来の石井主水と久納市右衛門が主人を裏切って直茂方についたという噂が立ち、何者かによって両人が殺されてしまった。
 また、直茂にはその頃から耳に腫れものができ、次から次に広がってとうとう御典医もサジを投げてしまった。そのため京都から慶祐法印を招いて加持祈祷を試みたがこれまた効果がない。そのため町では高房の亡霊が出て、鍋島氏を苦しませるのだ、という噂が立ち直茂もすっかりノイローゼになり、三度の食事も進まずやせ細ってしまった。
                                                                                                         ↑鍋島直茂像

 お付きの家来たちは高房を葬った西の丸の泰長院の方角が悪いのだろうと、遺骨を宗竜寺に移転し、直茂自身も因縁付きの城内から離れて多布施の別邸に移住したが、いずれも効果がなかった。  そのため、鍋島家中は不安、恐怖におののき、高房の霊を慰めるために佐賀城の西北に新たに大竜山・「天祐寺」を建立し、宗竜寺から高房の遺骨をこの天祐寺に改葬してその霊を弔ったところ、ようやく一連の不祥事は治まって行った。

 直茂が奇病に悩まされた事は「直茂公譜」に詳しく書かれ、また「元茂公御年譜」には高房の亡霊が出たのを見た者がたくさん居たと記されている。これらの事実を背景にして、いわゆる「猫化け騒動」という物語が成立したのであろう。
 芝居や講談のいわゆる「鍋島化け猫騒動」のあらすじは、「神通力を得た化け猫が、時の佐賀の殿様を散々苦しめて取り殺そうとするのを、忠臣が辛苦の末この化け猫を退治する」、という物語である。だが、その物語は伝承や作者によりさまざまである。大別すると次のように二分することが出来る。

 その一つは、佐賀の支配権が竜造寺氏から鍋島氏に移ったという歴史的事実を背景にしたもので、芝居の「花嵯峨猫又双子」などがそうである。
 この芝居は嘉永6年(1853年)江戸の中村座にかかったもので、芝居作家の「瀬川如泉」が脚本を書いている。そのあらすじは・・、

イメージ 5 ・・鍋島直茂をもじった「直島尚繁」が、竜造寺家の跡目である盲目の高山検校を囲碁の相手として城内に呼び出し、その囲碁に因縁をつけて手打ちにする。検校の母が息子の行方を案じていると、飼い猫の「玉」が城内に忍び込み、無残に斬り殺された検校の首をくわえて帰ってくる。これを見た母は「玉」に向かって「汝、魂あらば我が血を吸い、我に代わりて息子の仇を討つべし」と言い残して自刃してしまう。血を吸った玉は神通力を得て、直島の愛人の「お豊ノ方」を食い殺し、城中が大騒動になる・・という話である・・

 鍋島家は、この芝居は佐賀藩の名誉を傷つけるものとして、町奉行を通じて上演禁止を申し立て芝居を止めさせた。然し数年後の元治元年(1864年)には「百猫伝・手綱之染分」と題して再び上演されている。


 ↑映画のポスター

 化け猫騒動のもう一つのあらすじは、お家騒動とは関係なく、一匹の化け猫が殿様を襲い苦しめるが、忠臣によって倒されるという筋書きである。
 
イメージ 3 ・・寛永17年(1640年)の春、佐賀・白石村の館に滞在中、屋敷の庭で催した夜桜見物の宴が終わり、鍋島勝茂が寝床に入ったところ、突如暗闇の中から怪物が現れて勝茂の部屋に入った。警護役の千布本右衛門は勝茂以外に誰もいないはずの部屋に側室の「お豊の方」が居るのを見つけて怪しみ、打ち首覚悟でこの側室を大槍で突き刺すと、これは年老いた黒猫だった。

 その後、猫退治をした千布家では猫のタタリで男の子が生まれないので、6代目の子孫が猫大明神を祀って弔ったが、その後は男子に恵まれたそうで、その千布家では今も毎年、猫大明神の掛け軸を懸けて、ネコ祭りをされているそうである・・

 ↑ ネコ大明神の絵図
 
 ちなみに「佐賀の夜桜」とか「怪猫・佐賀騒動」などの映画はたいていこんな筋書きになっている。



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    (64)左義長・どんど焼き

 早くも今日は15日、寒波襲来で各地から大雪のたよりがしきり。 暖かいはずの当地でも朝方うっすらと小雪がつもっていた。降りしきる雪の京都の女子駅伝は大変だったろう、でも若い選手たちは雪にも寒さにもめげず、元気いっぱいだった。

 正月の15日は「小正月」である。元日から始まる「大正月」に対して14日の夕方から15日、16日にわたって正月行事をするのを「小正月」という。農耕生活に関連がある正月用の行事はこの小正月に多く、餅を搗いたり団子を作って祝う習慣がある。また「松の内」は家の中で台所仕事に忙しい女性が15日から年始回りする習慣もあって、別名「女正月・めしょうがつ」ともいう。

         芝居見に妻出してやる女正月   志摩芳次郎

 この小正月で行われる行事では左義長・さぎちょう」がある。
地方によっては「どんど焼き」とも言い、各地でいろんな呼び方があるが、要するに正月の火祭りの行事である。14日の夜から15日の早朝にかけて行われる事が多いが、新年の松飾や注連縄などを集めて部落や町全体の行事として、河原や広場で焼く行事である。


イメージ 1

  
 「左義長」は朝廷では古くから行われ、清涼殿の庭で青竹を焼いて天皇が書かれた古書を天に昇らせ、また青竹に扇を結び付けて燃やしたりしたという。
 最近は一般に、広場の中央に青竹や太い木などを立ててその周りに集めた松飾りなどを積み上げて焼くが、この火で餅を焼いて食べたりする。
 また「書初め」を燃やして高く燃え上がると書道が上達するといって喜んだりするが、これを「吉書揚げ」という。

イメージ 2   子供たち中心の正月行事で、地方によって「どんど」とか「とんど焼き」というが、この「どんど」は火を焚くときの囃子言葉だそうである。

  昔の佐賀地方では「ホンゲンギョウ」と言い、6日の夕方か7日の早朝に、青竹と藁や集めて各家の門先で燃やし、青竹を爆竹させ、または竹を折り曲げて結び「鬼の拳」と唱えて悪魔祓いをする。


 また、子供たちは「吉祥・吉書」と唱えて目出度い文句を浄書し、これを燃え藁の上にかざして燃やし、その灰が空高く舞い上がれば書き方が上手になると、喜んだりしていた。 そこで「鬼火焚き」と言うところもある。子供たちは鬼火の近くの家に集まって餅を焼いて食べる。この餅を食べると病気をしないといわれていた。

           どんど焼き どんどと雪の 降りにけり      一茶
 
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