古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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的場城−その壱ー

 的場城は、伊那市高遠町的場字城山にある比高160mの山城です。ここへは、以前2回訪れています。1回目は、10数年も前で登城路がわからず蓮華寺の背後からやみくもに登っり、藪に覆われたところをあちらこちら見ましたが、果たしてここが城址なのか定かではなかったです。2回目は、やはり蓮華寺の背後の斜面を登り、それなりに遺構を見ていました。今回は、前回下城した道が登城路であることがわかりましたので、そこから登城して、時間をかけてじっくり見てきました。                          訪城日:2018.4.12 晴れ
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 城址へは、諏訪方面から国152号を南下し、杖突峠の峠の茶屋より約7kmほどで、三叉路を右手に入り1.2km先の蓮華寺を目指します。蓮華寺奥にある絵島の墓の背後の用水沿いに500m(?)ほどにある木橋(絵島墓から4つ目)を渡り、20分ほどで尾根上の城址南端に着きます。
 車は、蓮華寺駐車場を借用させていただきました。

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    絵島の墓と墓の右手上の用水路入口



イメージ 15的場城についての史料は全く存在しないため、創築年代、存続年代、築城者及び在城者など、確かなことはわかりません。ただ、戦国期当地を領していたのが高遠氏ですので、高遠氏にかかわる要害なのではないかと推察されます。さらに、天文14年(1545)に武田氏の高遠侵攻で当地が武田氏の支配下に入り、天文16年に、伊那谷の拠点として高遠城が造られますが、その防衛拠点として当城が補強改修されたのではないかと考えられます。
 天正10,年(1582)織田勢の攻撃を受けて高遠城が落城します。その際に、的場城も攻撃を受けたと考えられ、ほどなく廃城となったと思われます。








イメージ 3絵島の墓から用水沿いを歩き、4つ目の橋です。ここから山に入ります。


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橋を渡ると谷地状の緩い斜面で、麓の番所を設けるに十分な空間です。また、対岸に杖突街道を望み、尾根への道も堀底道で往時の登城ルートのような感じですので、ここが大手筋と感じられました。
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尾根上に出て少し進むと、竪堀が右手に見え、左手も落としています。往時はもっと狭い道だったのでしょう。イメージ 6








少し進むと、土塁と竪堀で守られた小空間があります。大手の防御拠点なのでしょうか?イメージ 7

通路沿いの土塁の先の竪堀です。当城には数多くの竪堀がありますが、よくわかる竪堀です。

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4郭を取り巻く横堀です。
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横堀を渡り4郭の虎口1(南虎口)へ向かいます。


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坂虎口の虎口1です。イメージ 11
→郭内からイメージ 12
















↑4郭で、南北約50m、東西約25mの広さで、千畳敷と呼ばれるようです。周囲が土塁で囲われており、昭和54年の発掘調査で礎石が検出されているようです。当城最大の郭や土塁が全周していることからすると、居住空間で居館も想定でき、中心曲輪といえるようで、実質的な主郭だったのでしょう。
イメージ 134郭の虎口2(東虎口)で、東下の横堀・帯郭へおりる虎口です。イメージ 14










4郭東下の横堀です。


以上、4郭までです。この続きは、−その弐ーで続けます。

参考文献
『信濃の山城と館 5 上伊那編』 宮坂武男著 戎光祥出版
『長野の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『東国の中世城郭』 中世城郭研究会

※上記の中に的場城の縄張り図が掲載されています。
『信濃の山城と館 5 上伊那編』では、宮坂武男氏です。
『長野の山城ベスト50を歩く』では、中井均氏です。
『東国の中世城郭』では、大久保健司氏です。

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