古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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帰雲城(かえりくも)

 帰雲城は、城址の所在地が特定されていませんが、推定地として岐阜県大野郡白川村保木脇にあった城館です。白川郷には、何度か訪れ展望台になっている萩町城跡にも行っていますが、あまりにも観光地化されすぎていることもあってちっと避けてきました。今回、金沢城の石垣めぐりの帰りに五箇山を訪れたましたので、久しぶりに萩町城を訪れ、以前から気になっていた帰雲城の推定地も見てみたいと思い、行ってきました。
                                            訪城日:2018.5.30 小雨のち曇り
イメージ 1城址推定地へは、白川村市街から国156号を約9kmほど南下すると、左手に「帰雲城埋没地」の上番が見えてきます。そこを左折すると城址碑があります。車は、その前あたりに駐車できます。

 









 帰雲城は、白川郷の国衆内ケ島氏が寛正年中(1461-66)の終わりごろに築いた城館と考えられるようです。内ケ島氏は、明徳応永年中(1390-1428)足利将軍に奉仕した奉公衆だったようで、寛正年間の前ごろに奉公衆として足利将軍より御料所を預かり、領地を賜って信濃のから白川郷に入部したとされるようです。
 中世の白川郷は、現在の白川村、高山市荘川町(旧荘川村)を合わせた範囲で、内ケ島氏は白川郷の南部に入口に当たる牧戸に城を築いたと。現在、牧戸に向牧戸城があり、それがその城なのでしょうか。その後、北に勢力を伸ばし帰雲の地に帰雲城をきずいたのが寛正の末頃とされるようです。ただ、内ケ島氏が、築いた城が山城というより、萩町城(内ケ島氏の北の境目の城で、合掌集落を見渡せる台地先端部に築かれている)と同じような造りだったのではないかと思うのですが。
 内ケ島氏は、文明年間に郷内の対立勢力の三島氏を本願寺派と結んで敗退させ、郷内での支配を確立したようです。
 戦国末になり、天正13年(1585)8月に豊臣勢の金森氏が飛騨に侵攻し、内ケ島氏も金森氏の軍門に下り本領の白川郷を安堵され、その祝いの宴の先日=天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、近畿から東海・北陸に甚大な被害を及ぼした天正大地震が起こり、当地でも帰雲山の大規模な山崩れが起り、帰雲城は城下町ともども一瞬にして崩落した土砂の埋まり、城主内ケ島氏一族を含む領民300人はことごとく遭難し、一夜にして滅亡したと伝えられています。そのことが、本願寺顕如(1543-92)の右筆によって書かれた『宇野主水日記』にも書かれています。「飛州ノ帰雲ト云う在所ハ、内島ト云奉公衆アル所ナリ。地震ニ山ヲユリクヅシ、山河多せカレヲ
(テカ)、 内島一類地下人ニイタルマデ、不残死タル也。他国へ行タルモノ四人ノコリテ、ナクナク在所へ帰タル由申訖、彼在所ハコトゴトク淵ニナリタル也。」

 帰雲城の所在地は、いまだ不明のようですが、帰雲城と内ケ島氏を調査・研究する方々(新・帰雲城と内ケ島氏の謎)の成果から、庄川の左岸にあったのではないかということが分ってきています。帰雲城を飲み込んだ大規模な山崩れは、どうも帰雲山の斜面の崩落だけでなく、背後の三方崩山や皈雲山(現在は標高1402mの皈雲台地)からの崩落もあったと推定されるようです。イメージ 2
城址碑のある所から帰雲山です。















イメージ 3
城址碑と白川村が設置した説明板です。
白川村の観光HPには
「庄川河川からの採石業を営む田口建設という建設会社のかつての社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などをこの地に建立、公園化して今に至っています。」と、あります。





イメージ 4帰雲山の大崩落の場所が、今でも生々しく見れました。ここは、江戸時代にも崩落したようです。












参考HP

参考文献
『飛騨中世史の研究』 岡村守彦著 戎光祥出版
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集(飛騨地区・補遺) 岐阜県教育委員会2005年

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