古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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萩町城

   萩町城は、大野郡白川村萩町にある比高(60m、駐車地点からは0m)の丘城です。城址は、庄川右岸の台地上にあり、現在は南麓に広がる萩町合掌集落を一望する展望広場となっています。ここには、3回ほど訪れていまして、お城址とは知っていましたが、遺構らしきものも見当たらず、素晴らしい合掌集落の景観を見るだけでした。白川郷の合掌集落すばらしさを再度見たいとは思っていましたが、ここのところの外国の方々の訪れや観光地化された感じに二の足を踏んでいました。金沢から五箇山を訪れたついでに、萩町城や帰雲城推定地を見てみるのもいいかなと思い、訪れてみました。                      訪城日:2018.5.30 小雨

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 城址へは、東海北陸自動車道白川ICをを降り、国156号を南下し、萩町信号手前20m程に展望台への案内標識がありますので、そこを左折して約1km程で右折(案内板あり)して、進むと荻町城跡展望台の無料駐車場があります。無料駐車場に入る手前にも駐車場がありますが、食事処天守閣の駐車場(買い物か食事をしないと無料にならないのかな)なので、ご注意してください。
 徒歩でも行けます。萩町バスターミナルの東側の和田家の後ろから15〜20分で着きます。また、萩町の信号からの急登の道(徒歩10分)もありますが、急坂と道悪でお勧めできません。イメージ 2





 展望台駐車場から撮った萩町合掌集落です。白川郷の写真といえば、この景色ですよね。城址(取った場所から数m横)に行く前にパチリでした。

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 萩町城の城主が、『飛州志』には帰雲城主内ケ島氏家臣山下大和守としています。内ケ島氏が白川郷に足利将軍義政の命をうけて寛正年間(1461-66)の前ごろに入部し、白川郷の南の入口牧戸に城を築き、寛正の末頃には北部に帰雲城を築き拠点としたようです。
 鎌倉末から浄土真宗が白川郷鳩ヶ谷(減殺の白川村役場付近)の正蓮寺を中心に教線を伸ばし侮れない勢力で、内ケ島氏との軋轢も起こったようです。ただ、この浄土真宗が蓮如の本願寺派とは違う宗派と思われるようです。
 内ケ島氏が本願寺派と、正蓮寺が在来の有力勢力=三島氏が結び、対立抗争になり、文明7年(1475)と同17年に内ケ島氏が勝利したようです。
 このようなことから邪推しますと、当城が正蓮寺近くの丘上にあることから、文明期の合戦にかかわってどちらかの勢力によって築城されたのかもしれません。
 虎口が石垣造りの内枡形ということが発掘調査でわかりましたので、天正13年(1585)内ケ島氏の滅亡頃までは使われていたと考えられるようです。
イメージ 4駐車場のすぐわきにある空堀です。箱堀で、土塁はかき揚げのようです。説明板によると、大規模な作り替えの痕跡は無いようで、当初の形態を残しているようです。尾根続きを遮断する堀切なのでしょう。両側が竪堀状になっているようです。イメージ 5






空堀から少し入った所で、発掘調査で内枡形虎口とされるところです。イメージ 6



土塁脇に石が見られます。石垣の一部のようです。

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虎口から少し郭内に入った所に「ここは搦手です」と書かれた標識がありました。内枡形虎口が搦手と。そうすると大手は?探しましたが、それらしき所が見つかりませんでした。イメージ 8

主郭北西から撮ったものです。右手奥に櫓台おぼしき土盛の箇所があります。単郭で約25×25m程の広さです。
城址北麓に「シモゴソ」→下御所、南麓に「オンチ」→御地があるようです。
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集』で当城を担当した佐伯哲也氏は、「麓の城主居館とセットになった城郭と推定されよう。」としています。

参考文献
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集(飛騨地区・補遺)』 岐阜県教育委員会 2005年
『飛騨中世史の研究』 岡村守彦著 戎光祥出版

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