古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 金沢城石垣をめぐってきた順に進めていきます。まずは、見学したコースを載せておきます。
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 車は、お城と兼六園に一番近い石川県営兼六駐車場(駐車料金が安いので、午前中に満車になることが多い)を利用しました。
 そこからすぐの兼六園下信号を渡ると前田利家の像のところに出ます。トイレもあります。城内に入るまでトイレがありませんから、ここで用を済ませるといいです。
S スタート地点 前田利家之像
像は、かっての白鳥堀の南端に立っています。
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①石川門下ー三の丸東面石垣
イメージ 3イメージ 4ここは、文化4年(1807)加賀藩穴太衆による改修がされ、勾配に合わせて滑らかな表面にする所を、あえて石をずらして荒々しく作り上げている。
イメージ 5粗加工石積み(切込みハギ)の高石垣です。
※粗加工石積みについては後ほど触れます。

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②東の丸東面
イメージ 7イメージ 8金沢城の本格的な石垣造りが始まった文禄元年(1592)に造られた金沢城最古の自然石石積みの石垣。セットバックしていますが、総高は21mあるようです。イメージ 9
刻印がとてもよくみられます。


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案内板にある上からの写真です。







③本丸南面
イメージ 10イメージ 11ここの説明板には、「自然面を残す粗割石を積み上げた割石積み石垣」とありますが、要領を得ません。自然石利用の切込みハギなのでしょうかね。明治になって上部が取り壊されたようで、往時は約12間(約22m)以上あったようで、城内随一の高石垣だったと。
イメージ 12最下段の石垣は、明治40年いもり堀を埋めた際に修築されたもので、谷積みです。(明治期にはやっていた手法のようです)
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金沢城の南西側を囲む外堀の「いもり堀」です。往時には、幅広の所で約40m、深さ10m以上あったようです。

④申酉櫓下ー石垣模型展示ー
イメージ 15イメージ 16申酉櫓f跡は、奥上です。ここには、発掘された石や石垣の積み方の展示があります。
金沢城石垣の説明では、通常の読み方はされていませんで、「自然石積み」「粗加工石積み」「切石積み」とあります。




イメージ 19上の段が「粗加工石積み」で、下の段が「切石積み」」です。
金沢城の石垣は、粗加工石積みの高石垣が基本のようです。
粗加工石積みで最高の石垣は、二の丸北面石垣です。仙台城でもこのような展示物があり、石垣の内部の様子がよくわかる展示だと思います。
城内のボランティアの方に、独特な呼び方をするのか聞いてみましたが、なぜそう呼ぶのかわからないようで、同じような質問を受けるそうです。
どなたか知っている方はいらっしゃらないですかね。

⑤玉泉院j丸庭園に面した石垣群
この地は、西の丸といわれていたようですが、2代藩主前田利長の正室玉泉院が利長の死後に屋敷を構えたことから玉泉院丸と呼ばれるようになったようです。玉泉院が亡くなった(元和9年-1623)のちの寛永11年(1634)3代藩主利常が造園し、寛文の頃(1661-73)改修して今の姿になったようです。庭園は、明治期に廃絶されたようで、平成20〜24年に発掘調査がなされ、そのらと江戸末期の絵図などをもとに復元したものです。ただし、遺構は約2mの盛土されています。

イメージ 18イメージ 17









イメージ 20庭園右手奥のいもり坂周辺の石垣で、金沢城の石垣では「戸室石」が使われていますが、唯一ここだけに黒色の「坪野石」を混在イメージ 21させている石垣です。








「段落ちの滝」、斜面を階段状に流れ落ちる落差約7mの4段の滝を発掘調査をもとに復元されたものです。
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色紙短冊積石垣で、色紙短冊とは珍しいですが、色紙=方形、短冊=縦長方形のようで、その形をした石を組み込んで造られ、見栄えのする石イメージ 23垣です。見せる石垣の究極の形なのですかね。

北側からの庭園遠景



⑥数寄屋敷
 数奇屋敷は、二の丸御殿の奥向きである広式(藩主夫人の住い)に勤める奥女中の住む部屋方が置かれました。江戸城の大奥に類似するところといっていいでしよう。明治になり、歩兵第6旅団司令部が置かれました。
イメージ 24イメージ 25切手門
奥女中に仕える身分の低い女中らが三の丸東側から出入りしたのがこの切手門です。番所かあり、通行には切手が必要なことから、この名が付いたようです。明治14年の火災に焼失をまぬかれて、往時の姿が残しています。 奥の建物が、旧歩兵第6旅団司令部です。                   

イメージ 26二ノ丸側の石垣で、刻印が多数みられる石垣です。寛文頃の改修時のもののようですが、刻印のある石は創建当時のものです。                                                   
  イメージ 27









⑦土橋門石垣
イメージ 28イメージ 29










イメージ 30名前の由来は、北の丸と三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことからのようです。枡形門だったようですが、その面影はないですね、
上左は、享和改修(1801-04) 上右は、寛文5年(1665)

左の案内板の上に見える亀甲石は、水に親しむ亀を現したもので、防火の願いが込められていたようです。





この続きはーその参ーで。


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