古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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深志城考−その壱ー

松本城は、松本市丸の内にある平城です。松本城については、以前いただいたコメントに「 松本城がないのが残念です 国宝なのにー  」というのがありましたが、 国宝でもありいろいろな方々が紹介されていますので、当ブロクではあえて載せることもないかとお返事したことがありました。今回、松本城を取り上げるのも、松本城の紹介というよりその以前の深志城について考えてみたい思ったからです。   訪城日:2018.7.18  晴れ
イメージ 1城址は、長野自動車道松本ICから国道158号を1.8km程東進し、JRのガードをくぐり、更に500m先の中央2信号を左折しまますと、その先に見えます。
駐車場は、いくつかありますが、いつも行くと利用するのが千歳橋(大手門跡)近くの市営大手門駐車場です。


イメージ 2











イメージ 3右図の見られる近世の松本城は、武田氏滅亡後に入封した小笠原氏とその後に入った石川氏によってその原型が造られたました。
 小笠原氏は、武田氏時代の深志城に三之丸の形を整え、名称を深志から松本に改めました。石川氏は、豊臣期の石垣やその上に瓦屋根建築物を用いる築城技術を導入して改修を進めています。五層六階の天守や太鼓門石垣は、この石川氏時代の文禄年間の貴重な遺構といえます。
 松本城については、あとで少し触れたいとは思いますが、小笠原貞慶が入城する以前の武田氏時代や信濃守護小笠原氏時代の深志城について考えていきたいと思います。
 お城の券売所でいただいた松本城の説明の中にある深志城についての説明では「松本城は戦国時代の永正年間初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られました。」とあります。
 深志城の歴史を紐解くには、信濃府中や小笠原氏の館の井川城に言及するところから始めないといけないようです。
  イメージ 4松本が、信濃府中として呼ばれるようになったのは、8世紀末あたりに小県郡にあった国衙が移ってきたことからです。ただ、国衙がどこにあったかは定かではないようで、松本市東部の浅間郷の大村〜総社あたりが推定地として考えられているようです。鎌倉期でも、浅間郷の周辺には多くの公領があり、それらは平安期以来の在庁官人の所領になっているものが多く、その中の一人に女鳥羽川右岸の犬甘郷を領した犬甘氏が「深志介」を称しています。このことは、犬甘氏が信濃守護の北条氏被官となり深志郷へも勢力を拡大したことに拠るものと思われます。
 建武の新政で、建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任じられます。その際に、松本周辺の住吉荘・近府春近領(jzmsd)を西部から南部あたり)が宛がわれ、小笠原氏がここを足ががりとして松本平に勢力を伸ばすきっかけになったものと思われます。そして、国衙の権益を掌握し、更に松本平中心部(捧荘)への進出を図るために井川の地に館を設け拠点としたと考えられます。
 深志郷では、鎌倉期には犬甘氏が深志介と名乗りその勢力下にあったと思われますが、建武2年に起こった中先代の乱に北条・諏訪氏に味方した深志介知光が挙兵し、小笠原氏らと合戦におよび、敗れ小笠原氏の配下になったようです。そのため、女鳥羽川右岸の地(捧荘)に進出したようで、一族の坂西(ばんざい)氏を深志介として国衙の掌握と、深志郷へ入部を図ったと思われます。「諏方御符礼之古書」にある15世紀後半の松本平の有力武士として、捧荘に小笠原氏、深志に坂西氏、浅間に赤沢氏、村井に村井氏、桐原に山家氏・小笠原氏・桐原氏らか載っています。このことから、小笠原貞宗の意図ははたされたといえるようです。
 15世紀後半(長禄3年1459頃)、入山辺に林城を築いたとされます。深志城は、永正元年(1504)島立荒井にいた島立氏に命じて造ったされれるようです。どのような城であったかは定かではないです。

 この後、武田氏時代の深志城へと話は進みますが、一つ気になることがあります。それは、宮永武男氏が、井川城に項で次のよう書かれています。
「小笠原氏が府中の地へ出て来ながら、田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、その手前に止まったのは、北方や西側に対して安全と考えたように受け取れる。そして、何年かして安全が確立したうえで動いているが、それでも薄川を渡らないで手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。そのことが大塔の合戦や武田氏の侵入の時に明らかになり、貞慶の諸氏の攻略へとつながるように思える。武田氏だから深志を拠点にできたのであり、小笠原氏はそれができない状況があったために、武田氏に追われることになったと考えられないことはない。」
 熟読玩味しないと理解しにくい所が多々ありますが、主に「田川、薄川、女鳥羽川を越えずに」「手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。」点について考えてみようと思います。


 
参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社


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