古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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深志城考ーその弐ー

 宮坂氏は、小笠原氏が{田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、手前に居るのは、それなりの理由があったのではないか」と指摘しています。それがになにを意味するのか分かりませんが、私なり考えてみたいと思います。
 小笠原氏が、松本平の支配拠点とした、井川イメージ 1城と林城は、確かに松本平の中南部にあり、薄川・女鳥羽川を超えではいません。薄川を超えた女鳥羽川左岸と薄川右岸に囲まれた地区は、国衙が置かれ浅間宿などもあり、古代から中世にかけて中信濃の政治・経済の中心地で交通の要衝だったと思われます。そのため、従来の在地勢力の強固な権利関係の地だったと考えられ、新たに守護として入部した小笠原氏としても、地域拠点の館を設けることができなかったと思われます。かろうじて、北条氏滅亡と中先代の乱の過程で手に入れた浅間郷に赤沢氏を、深志郷に坂西氏を送り込んだのではないかと思われます。
 信濃には、北信の高梨氏、井上氏、須田氏、島津氏、東信の海野氏、大井氏、伴野氏、南新の諏訪氏、知久氏といった、平安・鎌倉期(12世紀〜14世紀初め)から続く独自の由緒と領主的基盤を持つ国人領主(国衆)が数多く存在し、彼らは室町、戦国期にしばしば小笠原氏と対抗関係に陥ることになり、更に小笠原氏内部の抗争関係も絡んで、小笠原氏が、守護として広域を支配するための統治機構を整備して、自律的な地域権力の構築があまり進まなかったことが、宮坂氏の指摘の「武田氏に追われることになった」理由なのではないかと愚考します。
 井川城や深志城のある所は、田川、薄川、女鳥羽川が合流する低湿地で、その微高地に築かれています。この複合扇状地の地形が、両城の成り立ちに深く関係していたと思われます。
イメージ 2  このことについて、『松本市史』歴史編Ⅰ原始・古代・中世』で小口徹氏が河川の流路の形成について興味深い記述をしています。
 井川城や深志城に関係する時期を抜粋して引用します。
○鎌倉時代からの室町時代中頃
低温期で、盆地全体の川床が低下し、洪水が頻発して、架線に沿った一帯には濁流が遅い、砂泥が積み重なった。田川は、一層川床低下がすすみ、南松本から井川城、村井付近に微高地があらわれた。女鳥羽川は大雨が降るたびに、屈曲部より上流がわで、河道を左右に写しながら周辺に礫や砂泥を堆積させた。
 井川城が築かれた14世紀後半は、田川の微高地が形成されていた時期に当たります。深志城の辺りは不安定な地域で恒常的な施設は難しかったのでしよう。
○戦国時代から江戸時代初期
16Cから17Cころは短期間の高温期だが、各河川の流路がほぼ現在の一に安定し、小凸地Ⅲ(おもな河川からの比高が3m以下)による微高地が安定離水域として広く展開したと思われる。(図11)
薄川や女鳥羽川の流路もほぼ現在の一に落ち着き、周囲の微高地も離水域として安定した。
 女鳥羽川は、城東の北側から南に流れ清水地籍でほぼ直角に西側に流れを変えています。この流れについては、人為的に変えられたのではないかといわれ、武田氏の深志城築城時のものということも言われています。ですが、この小口氏の考察が正しいとすると、女鳥羽川の流路は自然にできたもので、城の築城時の大規模な工事は必要なかったものといえるようです。ただ、この地に城を築く時期が府中小笠原氏時代には条件がそろわず、武田氏の府中侵攻時の頃に適合したものといえるのかもしれません。

 では、武田氏の深志城にお話を進めていきたいと思います。なお、武田氏時代の深志城を【深志城】とします。
 享保9年(1724)藩主水野忠恒の代に編纂され、松本藩域を中心にした歴史・地誌を記イメージ 3した『信府統記』によれば、貞慶は天正13年より宿城の地割をし、三の曲輪を縄張し、堀を掘って土手を築き、四方に5か所の大城戸を構えて南門と追手と定めて小路を割り、士屋敷を建てたとされています。江戸期の松本城が右図ですので、小笠原貞慶の時に城の縄張の全体像は出来上がったといえるようです。
  貞慶が、天正10年に入った【深志城】は、武田氏が天文19年(1550)に北信濃侵攻の拠点として鍬立さ、武田氏が滅亡天正10年までの32年間に城下の整備か行われたと思われます。ですが、武田氏時代の【深志城】については定かではありませんので、次の観点から【深志城】に迫ってみたいと思います。
①『信府統記』にある貞慶の宿割り
②松本城の縄張り
まず、貞慶が天正13年に宿城の地割りの内容から推察してみたいと思います。下図は、現在と享保13年の戸田氏再入封時の城下絵図です。(両図とも『城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』より借用し、加筆しています。)イメージ 4
『信府統記』には、天正15年までに市辻・泥町付近の町屋を本町へ移し、東町・中町を確定し、麻原町を安原町と改め、西口を伊勢町と名付け、各枝町も地割りしたとあります。さらに、三の曲輪を縄張して、堀を掘り土手を築いて、5か所の大木戸を構えて南を大手ににして士屋敷を建てたと
 現在の松本市の町名は、地名変更がされていますので、旧地名を古地図に落とし、若干の説明をします。
市辻(地蔵清水)泥町(柳町)は、三の丸内の二の丸堀の東側にあり、町屋があったようです。
東町・中町は、善光寺道沿いの町で、城下の親三町()あと一つが本町)でj、町屋の中心です。
安原町は、善光寺道沿いの北側にあり、古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていたようで、前後の二文字を取って名付けられたようです。町人町です。
伊勢町は、本町の枝町の一町名で、野麦街道沿いにありる町人町。 
 地割りをまとめると、町人地を女鳥羽川の南側と善光寺街道沿いに配置し、武家地を町人地と境界をつけ、三の曲輪内と北側に配置しています。二ノ丸の南側の大名町辺りについての記述がないため、【深志城】の頃の様子がわかりません。貞慶は、本丸・二ノ丸にはあまり手を入れていないようなので、本丸・二ノ丸は【深志城】の縄張を変えていないと思われます。

 次に、松本城の縄張から見える【深志城】
 松本城の地形は、北から流れる女鳥羽川と東から流れる薄川の低湿地の微高地にあります。薄川の造った微高地に阻まれて、女鳥羽川が清水地籍あたりで西に流路を変えています。このことから、女鳥羽川の右岸の松本城三の丸辺りは、水の溜まりやすい低湿地で人家のない所だったのでしょう。そのような地形の中で、松本城の地は、かろうじて離水域の微高地でしたが、北東から南西に比高差で10m程の傾斜があるようで、本丸を一番高い北側に、それを取り囲むように二の丸を配置する「梯郭式」構造の城となったものと考えられます。
 武田氏の侵攻地域で築城した城郭の特徴的な傾向を荻原三雄氏が『新府の歴史学』の中で、次のように的確に述べています。
「武田氏が信濃、駿河などの侵攻地域で築城した城郭群のうち、拠点的城郭とされているいる城は、多くが「梯郭式」構造を有しており、しかも築城当初は主郭と二の郭という二つの郭で構成され、それに「丸馬出」を附設するという比較的単純な構造であったことが明らかになった。」
 その構造を取る城郭として、信濃では岡城・海津城・殿島城、駿河では江尻城・三枚橋城などを挙げています。松本城も蓬左文庫所蔵の絵図類や現在の縄張りなどから【深志城】は、梯郭式の構造を呈したいたと推察しています。ただ、上記の城郭と【深志城】が明確に違うところがあります。上記の城郭は、背後に河の急崖を配した造りです。しかし、【深志城】は、周囲が低湿地の微高地に立地しています。この違いは、【深志城】が天文19年(1550)という武田氏にとっては侵攻地域での築城の早い時期だったことや自然条件に制約されたものと思われます。ただ、天文19年という時期は、北信濃侵攻を急ぐ武田氏としては松本平の支配を確かなものし、北信濃へ攻め入る拠点造りが急務だったことの関連していると思われます。
 イメージ 9イメージ 10









岡城 (『信濃』49−1より)                                 松代城(『16世紀末全国城郭縄張図集成』より)イメージ 11
イメージ 12









江尻城(『駿国雑志』より)                                    三枚橋城(『静岡県の中世城館跡』より)
  丸馬出が、三の丸に4か所見られます。これは、『信府統記』によれば小笠原氏が三の丸造成時に造ったものなので、【深志城】にあったかどうかはわかりません。もしあったとすると、海津城のように二の丸前面に設けられてると思えます。二の丸全面は、三の丸造成時に埋め立てられていますので、何とも…ですね。ただ、小笠原氏が、独自の技術として馬出を活用していたというのはあまり見ませんので、武田の城の馬出を見て造ったともいえますか。
 まとめとして、かなりいい加減なのですが、推定図です。
イメージ 5

付け足しで、松本城の二ノ丸城門の太鼓門を見ていましたら、松代城の本丸城門の太鼓門が構造がが似ています。両方とも枡形虎口ですが、普通見られる近世城郭の枡形とはすこし構造が違います。
イメージ 6図にすると、こんな感じです。この松代と城松本城の枡形は躑躅ヶ崎館(武田氏館)の西曲輪の枡形虎口の構造と同じです。どうもこの辺からも武田氏時代の城郭構造をベースとしているのがわかります。



イメージ 7イメージ 8










           松本城 太鼓門                          松代城 太鼓門

参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社
『新府城の歴史学』 荻原三雄・本中 眞監修 新人物往来社

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こんばんは。
小笠原氏がこの地に、幕府の命により赴任した際、在地領主達の抵抗はなかったのでしょうか?

下手に抵抗すれば、幕府軍の討伐に合う可能性もあるでしょうが…。

2018/9/22(土) 午後 7:53 [ tak***** ] 返信する

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> tak*****さん
小笠原氏は、甲斐源氏で中巨摩郡櫛形町小笠原が名字の地のようです。加賀美(小笠原)遠光は頼朝からに信濃守護に任じられ、その次男の長清が佐久郡伴野荘の地頭(長清の六男時長が伴野氏を名のる)になり、七男朝光が佐久郡大井荘に入り大井氏を名乗る。信濃守護は、北条氏になりますが、引き続き小笠原氏の信濃への勢力は、佐久だけでなく伊那方面にも伸び、のちの松尾小笠原氏の拠点となる伊賀良荘にも鎌倉期には地頭でなかったが何らかのかかわりがあったよ考えられます。このことから、鎌倉期を通じて小笠原氏の力が信濃の国内に入り込んでいたといえます。元弘の乱(1331-33)には、幕府が京都に派遣した大軍の中に、大将軍の一人として小笠原信濃入道とその一族の名があり、幕府に認知され、信濃国内からも認められた勢力だったと思われます。
ですから、建武元年に小笠原貞宗が信濃守護に任じられても、信濃国内の武家には認知された存在だったと思われ、さほどの混乱はなかったのではないかと思います。

2018/9/23(日) 午後 3:12 [ 馬念 ] 返信する

時代は違いますが、応永六年(1399年)大塔合戦の際は、国衆らの激しい抵抗にあっていますが、この原因は幕命を傘にきた、小笠原氏の横暴が発端と聞きますが、以前より小笠原氏の信濃、主に北信濃の国衆はこころよく思って似なかったとも聞きます。まあ、小笠原氏自体は、源氏と言えど、甲斐国出身なので、そこら辺のもどかしさってのもあったんでしょうね?(^ー^)

2018/10/11(木) 午後 0:50 [ tak***** ] 返信する

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> tak*****さん
守護小笠原長秀が守護の権限をかさに着て国人層の領地・権益に介入し、守護支配を強力に推進することから大塔合戦が起ったされています。
長秀は、9代長基から次男ですが家督を譲られ、本拠地は伊那の伊賀良荘と思われます。嫡男の長将に家督がゆずられなかったのは何らかの事情があったのではと思われますが、松本周辺の所領を譲られています。長秀の守護権力の強化は、長将に対するものもあったのではないかと思われます。

2018/10/12(金) 午前 11:34 [ 馬念 ] 返信する

なるほど、小笠原氏の内紛は歴史家達の中でも有名ですが、内紛に巻き込まれた形での役だったんですね。長秀が伊賀良荘を拠点にしていたのか…。どうりで、長秀方に伊那地域の地侍や国衆が多い訳ですね。

2018/10/13(土) 午後 9:06 [ tak***** ] 返信する

地図に、荒井館とありますが、どこの国衆の館でしょうか?

2018/11/1(木) 午後 0:45 [ tak***** ] 返信する

顔アイコン

> tak*****さん
「荒井城 松本」で検索しますと出て来ます。
小笠原氏の被官島立氏の居館だったようです。

2018/11/1(木) 午後 2:07 [ 馬念 ] 返信する

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