古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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丸森城

 丸森城は、丸山城とも呼ばれ伊具郡丸森町淵ノ上にある比高10m程の丘城です。当城は、一般的には丸山城と呼ばれ、城址内の案内掲示にも丸山城とあります。ただ、伊達家の正史で輝宗期を記録した「性山公治家記録」には、「丸森城」とあり、その当時この名でよばれていたものと思われるので、ここでは丸森城としています。                                           訪城日:2018.10.19  晴
 イメージ 1城址へは、国113号の内川に架かる橋を渡り300m先を右折します。少し進むと、右手に城址案内板があり、道なりに進むと駐車場に至ります。

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 国道からは市道にある       左手に駐車場
 城址案内板


イメージ 4当城は、周辺の大名を巻き込んだ伊達氏の内乱である「天文の乱」で嫡男晴宗に敗れた稙宗が天文17年(1548)に晴宗に伊達家の家督を譲り、当地に隠居城として築いたものとされます。稙宗が永禄8年(1565)に当城で亡くなると、稙宗の娘たちが(長女は、相馬顕胤に、末娘は顕胤の孫義胤に)嫁いでいた相馬氏が稙宗の隠居領(伊具郡南西部)に侵攻し、金山城と丸森城が元亀元年(1570)には攻略されてしまいます。相馬氏の支配は、天正19年(1581)に始まる伊達輝宗・政宗の伊具郡侵攻によって、伊達勢に攻め込まれ天正12年(1584)の講和で終わりになります。その後、相馬氏との境目の城として、伊達しの大身の家臣が城主となり、慶長6年(1601)大條実頼が鳥屋館を築いて居城を移したことで、丸森城は廃城となったようです。
イメージ 53郭からの4郭です。城内標識では、「二ノ丸跡」となっています。郭へのスイメージ 6ロープ状の道は、農作業用のものと思われます。、耕作地だったようです。

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3郭と4郭の間の堀切1です。巾6m,深さ3m程の箱堀状です。イメージ 8







4郭から見た3郭です。耕作地だったため改変されていて、虎口などは不明ですが、2郭の虎口郭のような感じです。
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3郭から2郭への通路です。軽トラが通れる幅ですので、耕作時のものなのか?2郭は、3郭より一段高くなっています。
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2郭で、通路部分を除くと50×15m程の広さで、割りと広く、この郭に隠居した稙宗の居館があったのでしょうか。イメージ 11


そのためか、標柱には「丸山城本丸跡」とあります。


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2郭から1郭へは、堀切2南端の土橋で渡ります。イメージ 13




堀切2は、上巾10m、深さは6〜7m程です。

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1郭にある愛宕神社と伊達稙宗の墓碑。
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1郭は、さほど広い郭ではなく、大きな石があちらこちらにあり、居住区としては適していないようで、主郭は2郭の方がいいようです。
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1郭東下に枡形状の小郭があります。イメージ 17







稙宗墓碑の東下に見られる石積みですが、墓碑造成時に補強のために造られたものではないかと思えます。イメージ 18


1郭西下の郭。









参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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